カテゴリ:essay
源氏の「葵」の巻を読んでいて、ついつい引き込まれてしまう。ここにあるのは何だろう。
六条御息所の生霊が産褥の葵に出現する場面、源氏に訴えて、「嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがひのつま」と歌を詠む。この悲しみにかなうものはない。彼女は彼女の意に反して、物の怪のようにして出現せざるをえない。折口信夫などは当時の社会の病というように、物の怪を定義するのだが、そのような定義を超えて、愛憎の窮まりで、あさまし、といわれるような、変化を遂げてしまうのは時代に関わらない普遍的なことで、「病」といいたければ「病」であろう。 それが必然的に描かれている、それを疑うことができない、というのが源氏物語の呪縛である。 主体の分裂が必然であるような時代には、「主体」という概念があるはずはない。心身の奥深い二元論、仏教の影響もあろう、それが完全に信じられていたのである。身を離れて魂はさ迷う、それを抑制するためには着物の褄を結び合わせなければならない、という。しかし、これは単なる冗談であろう。こういういにしえの習俗を自らの歌にこめなければならないほど平安の闇は深かったのである。ここかしこにきみの、あなたの魂が飛び交う闇を想像せよ。この生身より身体的な魂がそこにはあった。 魂の密度と強度がそこにはある。 ここ二日ほど、町田の駅に降りることがあった。無数の人々の魂がそこを彷徨しているという幻影。周縁の町の雑踏に眩暈をおこしつつ、この町のはらむ闇の深さを思う。 「かの姫君と思しき人のいときよらにてある所に行きて、とかく引きまさぐり、うつつにも似ず、猛くいかきひたぶる心出で来て、うちかなぐるなど見えたまふこと、度重なりにけり」と御息所は述懐する。この「ひたぶる心」のおぞましさは彼女の反省や教養を超えている。フーコーの「汚辱に塗れた人」の出現はここにもある。 こういうところを逃さないのが源氏物語である。われわれは源氏を今に読み開くことができるのだろうか。この今に。解釈と鑑賞の安易な源氏ではなく、危険きわまりない源氏、御息所を狂気に陥れた源氏物語。今読むことの新しい「意味」を立ち上げること。堆い「解説」に抗して。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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