詩人たちの島

2007/06/28(木)20:43

The Virgin Sucides

essay(268)

今日、相原でGeorge Hannと出会った。 「ニンニクを塩味で」と明晰な日本語を喋る外国人、ぼくから見て若い男が、隣に立った。 ついにこの男と喋りたいという誘惑に抗しかねて、ぼくは久しぶりの英語を発声した。あとは怒濤のごとく流れたのである。 カナダ人で、法政大学で英語を教えているとのこと。「田中優子」教授の名などが出てきた。彼女が主催した、外国人スタッフを招いてのパーティで、好きな小説・文学のことを語ったとのこと、George は村上春樹ではなく、彼の義理の日本の娘に推奨されて読み、感動した「The Virgin Sucides」のことについて話したという。 「待てよ、ぼくはそれを読んだことがある」ということで、話は青少年の生き難さということまで及んだのであるが、その前に、この本のことをすこし。 この本の邦題は「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」というもので、実はこの本をぼくは教え子のSさんから言われて、読んだことがあったのだ。早川書房から出ている。その本のカバーは、これを映画化したソフィア・コッポラの映画のものである。ぼくは04年の10月7日にこれを読み終わっている(文庫の終りに、日付をかいているのは、よほど感銘を受けた印である) 映画は見ていない。しかし、見たい。Georgeが言うには、みなみ野のつたやにはあるというから、借りて,見よう。いろんなことをGeorge と話したが、彼は、相原は大戸の近くに住んでいるという。そこで、「きみは八木重吉という詩人を知っているか、きみの住んでいるところに彼の小さなミュージアムがある、彼はそこで生まれたのだよ」と言うと、なんと!「Yes」と言うではないか。こういうカナダ人には遭ったことがなかった。そこから、また萩原朔太郎よりはじめて近代詩人のことを英語で話さなければならなかったのだが、もちろん彼は朔太郎を知っていた。 八木重吉の名は知っているが、実は読んだことがないし、近所なのに、そこにはまだ行ってない、ところで、どんな詩なのですか、と彼が問う。ぼくは「simple and profound」と答えた。それから急に思いついたのだが、非常にクリスチャニティ?に接近していて、そう、アメリカの詩人で言えば、ここからの沈黙が長かった、とにかく人の名前を思い出すということは一番今のぼくにとって難しいことだ、しかし思い出した、エミリ・ディキンソンに似ているかもしれないと付加したのである。彼はそれで、すべてを理解したという顔。よせばいいのに、ぼくはへたくそな英語で次のような言ったのである。 「だれも知らない遠い森の湖にいったとき、きみは小さな石を湖面に投げてみたい、と思うよね。」I think so, absolutelyとGeorgeは、たしかに応えた。「その湖面がたてる小波、それは外界に対する反応ではない、小さな叫び、きみのなげる石と奇跡的に遭遇する小さな音、そういう詩が重吉の詩なのである」とぼくは言いたかったのだが、これはぼくの英語ではいかんともしがたかった。 でも、Georgeとは、これからも会うだろうという予感で、ぼくは幸福だった。 うつくしいものはかすかだ うつくしい野のすえも うつくしいかんがへのすえも すべてはふっときえてゆく 八木重吉の詩である。

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