詩人たちの島

2007/09/07(金)22:28

Eclogue

作物(87)

「生きることは苦しみだという現実認識が、逆に病んでいる者の苦しみを軽減し、軽減した量の分だけ快楽に変ずるのです。」と、友人は書いている。ここにいたるまでの不可視の意志のもだえや挫折を簡単に想像することは、友人に対して失礼というものだろう。 「台風クラブ」の若者たちは、あふれ出ることや、おぼれることの、その意志と、それが命ずる表象の、今、ここの、一回かぎりの一致に賭ける。8月の熱い砂、遠くからおしよせる物語の荒れる波に、しなやかに身をまかせて。私たちは、と友人は語った。そこからずいぶん歩いてきたようだけど、このひらひらした日常のどこにも、結局は宿ることができなかった、というより停止すべき駅舎を悲しくも見捨てて、常にすでに、どこか荒漠とした砂漠のようなところで生きるように強いられているのです、そう思う、と言って友人は月の出ていない台風の後の夜の空を見上げた。 学生時代、貧しい田舎への帰省の途中、仙台駅で途中下車したことがあった。別に、牛タンを食べたいと思ったのではない。たぶん、故郷の鬱陶しさに抱かれるまえに、旅人としての小さな享楽を味わいたかったのかもしれない、きっとそうにちがいない、と友人は書いている。でも、そこで降りたのはいいが、もうぼくには期待とは裏腹の幻滅しかなかった。くたびれた体を休ませるためにだけ、近くの喫茶店に飛び込んだ。いがらっぽい煙草を吸い、まずいコーヒーを飲み、そしてそそくさと席を立った。田舎町には似合わない変にモダンなジャズが違和感をかきたてたせいもある。店の名前はAmbarvaliaと、これだけはすてきな看板に簡素に記されていた。いやー、とぼくは思った、と友人は語った。大学の有名な学匠詩人の、驚嘆すべき詩集のタイトルではないか。そこから、ここまで汽車に乗り継いできたのだ。そう、思う、と言って友人は、もう一回Ambarvaliaと流暢に発音した。友人も、友人が書いたものや語ったことも、それを書いている私も、穀物や葡萄の一粒、一房であると思うと「苦しみを軽減し、軽減した量の分だけ快楽に変ずる」ような気になる。

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