日進から四谷大塚へ。テスト会の系譜

 以下独断と偏見の戯言です。

 じゃ、少しやる気になってきたのでいきなり進学塾のネタとか行きましょうか。細切れに書いていくので飽きはこないでしょうが。

 で、そうですね。日比谷殺しといわれる学校群制度が導入されたのが昭和40年半ば。都立高校はみるみる凋落をしてきましたね。当時の都立高校の先生ったらステータスはめっちゃ高く、早稲田慶応の助教授クラスなら明らかに都立高校の先生のほうが上だったと、元代ゼミ現代文の田村先生は言ってました。やはり代ゼミで一世を風靡した英語の潮田、出る単の森一郎なんかは都立高校の教諭でしたね。で都立の名門校がぼろぼろになって台頭してきたのが私立の高校、それも中高の一貫校でした。まだ東大のトップ10に入るのは麻布くらいだったのに。一気に面子が変わったわけです。おりしも灘が日比谷を抜いて東大ナンバー1になった。

 これまでは、番町小→麹町中→日比谷といわれてた公立ルートが瓦解して、首都圏(関西はわからん)の優秀児は凡そ、家庭の事情さえ許すなら私立へとシフトしてった訳です。
 中学から勝負ということで、中学受験がはやり出したのもこのころ。昭和50年代では当たり前になってきました。

 で最初にあげないと行けないのは、日本進学教室、いわゆる「日進」です。埼玉ではないですよ。ここはもう10年以上前につぶれましたか、今代々木駅出て代ゼミの左側をとおる細い道にいったところ(東海大学病院を目指す道)に「第一経理専門学校」というのがあって、ここに看板だけ残ってますが、ここをどうやら拠点にしてた模様。

 今の40歳くらいから上の人はここがメジャーじゃないですかね。ここが日曜ごとにテストをして、小学6年生か、一年間テストテストで訓練されて本番を迎えるというもので、この手法が馬鹿当たりしたわけです。「優秀児は日進」みたいな。
 ただこの塾は大雑把なカリキュラムと、共通教材がないっということで本当の優秀児には良いんですが、そうでない普通に勉強ができる子には結構キツイ。ま、公立へ行くと思えば問題はないですが、ね。公立駄目って分かってますから。

 でその辺を見事に突いてきたのが、高円寺に住んでた鈴木康男って言う人。この人が、駿台予備校四谷校と大塚予備校を日曜だけ借りてスタートしたのがかの四谷大塚進学教室です。ここは後発組ということで、いろいろ苦労して、それまでは会員しかなかった制度に準会員という二軍を設けて階層を作ったり、小学5年生からスタートしたりして、いろいろ苦労してたんですが、何せ二番煎じなんで、できる子は6年生になると日進に移籍したりして結構悲惨でした。

 ただ、ひとつの転機が来たんです。それは一人の算数教師との出会いでした。迫田文雄というんですが。鈴木室長は、あるとき、毎週の算数のテストの結果で、品川方面の生徒がいつもグループでランキングされていることに気付きます。調べると、当時迫田氏は、蒲田らへんの小学校の教頭だかで、夕方私塾を開いて算数を見てたそうなんです。そこで鈴木室長は迫田氏をスカウト。日進に対抗してカリキュラムを細かく整理し、それに対応した形での教材、「予習シリーズ」を誕生させるわけです。

 これが形成逆転のきっかけでした。スーパードライみたいです。良く言われるのは、生徒が勉強しやすくなったというのがありますが、個人的には、ここへ準拠塾といわれる中小塾がマーケットを見出し、自ら下請けとなったと考えたほうが言いと思います。つまり、四谷大塚というシステムをたくさんの中小塾が下支えする仕組みが出来上がったわけです。だって予習シリーズは中野で買えましたから。

 かくて、日進は駆逐され、四谷大塚の黄金時代、昭和50年代かな。現出されるわけです。この迫田先生が監修した参考書が「応用自在」か、当時受験研究社が「自由自在」という画期的な参考書を出しましたが、四谷生には応用が大もてでしたね。

 この四谷は、そうした対外的な構成もすごかったんですが、中もすごかった。小学生に見事なカースト制度を植え付けます。まずトップは中野、続いてお茶の水、そして年によって、早稲田、四谷、大塚とか振って、すごろくのように成績の順に割り振った。春には中野、秋には大塚とかね。これはすごかった。さらに、同じ校舎の中で「国立」「麻布」「慶応」というクラスがあって、それを午前午後でⅠ、Ⅱと分けてた。つまり、ひとつの校舎がたかだか日曜日のテストだけのために6クラスに小分けされてたんです。

 コレだけそろえれば、まさにBクワドラント?ほうっといても生徒に親、そして準拠塾ががんばってくれる。四谷はなにもしなくてもたとえば御三家なら95%くらいの占有率を誇るわけです。準拠塾は何もしなくても「四谷会員○名」とかを平気で広告に載せたりしてました。

 儲かったんだろうな。自分入室して、お袋が中野校舎まで月謝払いに行ったら、受け付けのお姉さんの足元にダンボールがあって、万札を輪ゴムにとめて放り込んでたっていってたもの。

 因みに妹が就職活動したときには、休みは木曜ですが、ボーナスが8ヶ月っていってましたね。

 ま、その他街塾も、いわゆる団塊ジュニアの参入でめちゃくちゃ儲かったって言います。

 そこへ、ひとつの転機が訪れます。昭和60年前後でしたか。テレビガイドで有名な東京ニュース通信社が、「進学ガイド」なる雑誌を出し、割と先行組みで有名だったけども、方針が中途半端だったマキノ出版(わかさ、とか健康って雑誌は今もある)の「太郎塾」なんて雑誌を駆逐してしまったころですが。

 都内に「テストより授業」というスタイルの塾が出現し始めたんです。

 (以下は明日。)



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