日能研・TAP・桐杏学園・学習指導会

 という感じで、あいかわらず、勝手なこと書きます。

 まず前回、進学塾という言い方をしてますが、私的には中学受験をさします。高校からは義務教育ではないので、必然的に中学生対象の塾活動は進学塾なんです。全部。今はともかく、まだ昔の塾業界には、補習塾っていって、「新しい算数」とかそういう東京書籍みたいな学校の教科書をもってって、「通知表でウチの子2なんですけど」なんて困ったお母さんが、近所の塾につれていってみたいな、そういうのがまだあったんですよね。今回書くのはそういうのとは全然違いますので。

ま、表記した各塾について話しながら、当時の状況なんかも混ぜていきます。
 
 まずは日能研かな。ここは神奈川地盤でスタートした、中学受験専門塾です。塾っていう規模は超えてますが、そうだな。予備校といっても全然問題ないくらいです。もとは菊名学習教室っていって、今の代表の先代、高木知己さんというかたが立ち上げたんです。それがありがちなチェーン化をして、大体神奈川を押さえた。
あ、いっときますが、神奈川ってのは高校受験については不毛地帯でした。なぜかって言うと、アチーブメントテストっていう、中学2年の終わりに全県でやるテストがあって、これで公立についてはだいたい読めるらしく。ラストスパートが効かないそうですよ。自分の友人には厚木、翠嵐といった出身校がいますが、「本番で何番でうかるかまで一年前に分かる」っていってましたね。私立で言えば、慶応日吉、桐蔭くらいかな。
 ですのでどちらかってと、中学受験にしていきようがなかったという感じ。日能研も「向学館」とかいって高校受験用に塾やってますけど、あまり聞かないでしょ。
 で、この塾は、確かに栄光とかフェリスとかああいう学校を押さえてましたが、そうだな「ノーリツ」なんていってバッチつけてて、私なんかはかっこ悪いって思ってた。
 でここへ追い風が吹きます。ひとつは文部省の教育カリキュラムの改訂と、麻布中学校の入試スタイルの変更です。
                            (7月30日)
 
 さて会社から帰ってきました。そうそう日能研でしたね。

 で、ひとつの転機である文部省のほう行きますか?
 で、それまでは戦後まもなく、教育カリキュラムには現代化カリキュラムというものが採用されてました。うるおぼえなんですが、アメリカの教育改革にリンクしてたような気がします。当時の米国はキューバとかあの辺のドンパチまでは西側の代表として君臨してたんですが、ひとつのショックがおきました。それは「スプートニクショック」といわれるもので、宇宙衛星競争でソ連に負けてしまったんです。最先端の技術競争で負けたアメリカは、ケネディがアポロ計画を打ち出したりするのと同時に、「教育がなっとらん!」ってんで、めちゃくちゃに難しいカリキュラムを作り出したんです。最終的には誰もが「アインシュタイン」みたいな。これは全米で施行されて、当然大変な数の落ちこぼれを生み出しました。そうですよね。当然日本も、この形を真似た、どちらかといえば理工系重視のカリキュラムを構築していきました。めちゃくちゃな詰め込みといわれるもの?工業立国としてやってかなあかん!という理由もあったんでしょうが、ま、そう「赤尾の豆単」のころ、「四当五落」といわれてたころでござる。
 これが現代化カリキュラムといわれるものでして、おりからの団塊の世代のこともあって大変な競争を加速するはめになりました。
 ただ同時に「五月病」といわれる学生の無気力化とかね、そういう問題がいろいろ出てきて、また、高度成長もいっときのことであったということで、ここで「ゆとり教育」みたいなものが叫ばれたんです。ここで出てきたのがゆとりカリキュラム。昭和57年くらいかな。自分は中学校に入るとき、それまで一時間45分で6時間だったのが、一時間50分で5時間になったのを覚えてます。やった!学校から早く帰れる!みたいな。
 ただね、これは結果的にそれまで凋落気味だった公立校に壊滅的な打撃を与えたって言われます。カリキュラムによってしばられた教育を中学までに受けてるため、そう言う経緯で来た中学生を3年間で難関大学へというのがめちゃ厳しいという形になったんです。
 ゆとりというとなんかよくわかんないですが、要するに内容を薄く、軽いものにしたんですよ。僕が聞いた範囲では、確率は中1から中3に移行するとか。
 その辺を見抜いた一部の親はさして裕福でなくとも、中学受験を志向します。良くある例が、いっとき入江塾がつかった習得する単語の数かな。「公立では○○語ですが、灘なら○○語」みたいな。
 でもう東大ランキングから日比谷はとっくに消えていて、灘か開成かみたいな感じになってきました。
 
 さて、これだけならば、先日述べた四谷大塚がさらに勢いを増し、、と行きたいんですが、そうはいかなかった。受験層が大衆化した分だけ、親が子供の面倒を見ることが難しい階層が出現し出したんです。たとえば四谷なら、これ本当の話、ウチのお袋が、妹つれて拓殖大学(茗荷谷)に行くんです。毎週日曜日に。これは「父母教室」といって、家で親が子供の勉強見るときに指導ポイントを伝授するもので、結構きてたらしい。ただ、これはお袋が怖くて言ってんじゃなくってね、普通の主婦がたまにいった先で「唾液アミラーゼ」って言ってわかると思います?無理だよね。で、準拠塾に放り込むという形ができたんですが、それは良いんですがね。日能研がすごいのは、この領域まで含めて全部塾が見ます!ってやったとこなんですよ。ま、この塾がすごいとこはまたおいおい書いてきますが。
 ここは各学期にわけて練成教室というのと第三日曜日にカリキュラムテストというのをやってました。今は詳細はわからんが。で、子供は平日に3回くらい、あと日曜に塾にでるだけで、全然親はタッチしないで良かったんですよ。あと実際の入試のほうでも、志望校を受けさせるときに、「目標、実力相応、すべりどめ」なんていう3パターンを偏差値から算出して、まんべんなくレベルを受けさせるみたいな指導をかなり科学的にやった。「R4」といって、Rはレンジの意味ですが、ここをクリアできればまさに80%の確率で合格できますっていうメルクマールを構築して、あとは塾のカリキュラムに乗ってってやったんです。親は月謝とかだけで良いんですよ。楽でしょ。ゲームみたいに、たんたんとこなすのを塾と子供がやってくれる。大当たりしたんです。
 さらにすごいのは、ゆとりに対抗してオリジナルのカリキュラムを構築したことです。有名な「受験全解」なるテキストがいよいよ出てくるわけです。それまでは、重要問題集とかけっこう難しい本を使ったんですが、ゆとりにあわせて改訂されたら駄目ということで、自分らで構築したんですよ。受験から、いやもっというと過去問から。後に「学習全解」「基礎全解」という5年、4年のテキストもあわせて、カリキュラムの構築を独自にやってしまった。これが大きい。四谷のそれは今もなんと現代化カリキュラムのベースがあります。この塾は「学校より2ヶ月先に進む」なんていってますがとんでもない。それは現代化カリキュラムがあって四谷のブランドが通用してたころの話です。今でも正会員の30%、準会員の60%が予習シリーズを理解できないって言ってんです。大衆化した時代にはもう適応が厳しくなってるわけですが、四谷は動かなかった。
 日能研の黄金時代の布石は着々と打たれていきました。
 そこへ来たのが、麻布中学校の単日入試でした。それまで2月1日、2日の二日だったのが1日のみになった。東横線沿線に教室を多く保有し、かつ優秀児をかかえたたんで、まず2日に栄光学園を受験するレベルの子供を軒並み麻布へぶっつけた。「いざ麻布へ、そして鎌倉へ」というやつです。そしてこの機を利用して、麻布特有の記述式対策の研究を徹底的にやったんです。
 まずTAPを凌駕した日能研は、当時の四谷に対して、そのシェアを拡張していきます。昭和60年代でいうと、まず四谷、でやや麻布重視なれど開成武蔵も強い、TAP、開成に特化した桐杏学園、武蔵に特化した学習指導会、そして、麻布に強い日能研というのが典型的な構図でした。
 
 さらに大きかったのが、平成元年に分裂したSAPIXが、麻布ではなく、開成路線を選んだこと。良く言われている、「サピは開成対策以外は何もしない」といわれるくらいに開成に軸足を据えたこと。でしょうか、ここの分裂があったとき、かなりの層が日能研にも言ってるはず。都内にあった協力なライバルが分裂、路線変更をしたことは日能研にも追い風になったわけです。

 明日はここの内部体制と、メディア戦略、とかについて、行きましょう。

                            (7月30日夜。)

 と思ったんですが、今日は眠いんで寝ます。また明日。
                            (7月31日夜。)

すみません。今日も遅いんで明日ゆっくり。
                            (8月1日夜。)

さて、二日酔いからも復活して久しぶりな感じがしますが、ま企業としての日能研を見てみましょう。
 で、この塾が早くから着手したことに専任講師制というのがあります。これは教務フロントと教える側とを完全に分離させるもので、生徒は先生と、母親はフロントとのみ接し(厳密には違うかも)、先生と親のリレーションを切ったことが大きい。塾の先生やるやつは自分もそうですが、まずなんかすぐ自分の意見をいい、自分の世界を語ります。ま、多くのそれも子供相手になにかしゃべっていくのが商売ですから、これは必要な要素で、大事ではありますが、そういう先生をコントロールするためには、大事な要素だったんです。最近はともかくおかげでここでは先生による分裂劇が全くといって良いほどなかった。先生が独立するとか、自分で塾やるからおいでっていうのはできない仕組みなんです。ま、いっとENAとかができたとき、ここの算数主任とかね、出てきましたが。子供を引き連れというより、別会社の求人をみてという形でしたから。
 で、かなり全教室的なコントロールがかかるようになったんです。
 あとこれは塾の就職ガイドなんかみるとわかるけど、同じ「日」「能」「研」でも、じつは二つの組織で売上が成り立っているのが分かります。「日本」「日吉」の二つです。たしかに「日」で統一は○。どうやら、代表系と小島系とがあって前者が神奈川と東京、後者がそれ以外みたいです。これ三省堂で「センター通信」、今は「月間私立中高受験」で読んでふーんっておもったんですが。ま内部でも切磋琢磨ということでしょうか。詳細は不明。
 で、一番大きなのはメディア戦略ですので。ここは、ありましたよね「四角い~」とか。もう電車ではすっかりなじんだけど。これが大きいですね。ここまでやんないよよそは。ま、河合塾か、センター試験の当日に先生の似顔絵をいれて中吊りするけどね。ここほどしょっちゅうしないでしょ。でも入試問題に著作権ってないのかな。「進学ガイド」の枠もたくさん買ってましたね。
 という感じで、日能研は伸びるべくして伸びた。ま一般の業界からしたら当たり前なんですが、一連の手法をいち早く取り入れたわけです。それだけ塾業界がおくれてたとも言えるんですが。

 この時期を境に老舗だった塾がいくつか姿を消し、各地域で主要なシェアを占める塾の寡占化がスタートします。城南学園は衰退。千葉の明生は専門学校へ。よって市進学院(まだ市川進学教室)と東大セミナー、埼玉は山田義塾がほぼ独占、といった具合に。この辺は中高を合わせてますが。
 御三家をとりまくのは以前書きましたよね。難関高校についていえば、TAPの中学部が開成の実績で頭角を表しだし、追って東進スクール、学芸の内進者を圧倒的に押さえた秀英、ここに「佐藤の数学」で有名な佐藤茂氏が立ち上げに大きくかかわった代ゼミの中学部、そして模試でダントツの駿台進学研究会(今のリンデンスクールか)という感じでしたね。受験参考書ですが、最高水準問題集系がまだ強く、高校への数学がじょじょに認知されていき、後に難関系理数塾として確固たる地位を占めるSEGが、設立されます。知りうる限り、ここだけですよね。損益と貸借を公開してるのは。

 明日は、いやあさってかな。TAPと多分、進学ガイドの辺を書いていきます。
自分はここの中学部にかよってたんで、濃いですよ。多分。(8月2日)

 さて明日は遠出することが決まりました。今のうちにかいとくか。
 
 で、次はTAPです。ここはいわゆる高級ブランド路線でいち早く頭角を表してきた塾です。この塾で特筆すべきは、「難関校向けのノウハウ」でもなく「黒板をフルに使った授業」でもなく、「メディアを駆使した広告戦略」にあります。それ以上でもそれ以下でもないんです。

 でね、ぶっちゃけた話をすると、いわゆる優秀児を塾で作り上げるというのは不可能です。絶対に。だから、良い学校への実績を高めたいのなら、「できる子を囲い込む」のが基本です。

 自分は中学部に通いましたのでここは間違いないです。小学部については、小学部で中学受験に失敗して、そのまま中学部にきた連中の話ですので、かなり生々しいものがありますが、、ま、いいかということで。では沿革から。

 ここのT、A、そしてPは、それぞれ意味があります。塾では先生、と、親、つまり、teacher and parentというふうに私は教わりましたが、去年とある掲示板を見て実は違うことが判明しました。どうやらそれぞれテクニカル、アート、プリントの意味が本当らしく、当時の理事長が作った印刷会社が経営母体らしいです。これのほうがすっきり行く。たとえれば、大日本印刷進学教室がDNP進学教室ってのといっしょです。

 これがこの塾の急成長を解くかぎになります。

 新橋で産声を上げ、当時の田中理事長が資金面、千葉大学園芸学部の学生だった霜山幸夫氏が算数、北大→早稲田とわたった司法浪人の小田茂氏が数学、そして上智大学の学生でパソコン好きな企業化志向青年の中山氏、東京理科大→東工大大学院と進んだ高橋光(とおると読みます。)が理科という具合で担当してそれぞれはじめました。出入りについては若干の誤差がありますが。そこまでは。後、小学部は霜山さんしかわかんないんで。

 で、当時から難関志向で、10人くらいしかいない生徒を3クラスにわけて、徹底的に難しい問題をリピートっていう手法でやってました。

 それから八丁堀に移ってきたのが昭和50年代ですかね。小学部は南校舎、中学部は北校舎、北校舎、大垣共立銀行からならんで第二長岡ビルに本部という具合に。

 まず名を挙げたのが小学部。ここは、「黒板をフルに使った授業」「入試で燃え尽きない頭脳の育成」「現代の寺子屋」という感じでキャッチフレーズを次々とウチだし、四谷を「テスト会」と称して徹底批判をしていきます。「○×式のテスト」等の文言で。

 先の印刷技術を駆使してニュースペーパー方式といわれる教材の毎授業ごとの配布システム。予習不要の復習式の授業スタイル。そして、徹底的な記述重視の授業。こうした機軸を打ち出して、四谷に対抗してきました。また、当時の塾が次々に教室を展開して、生徒を増やす志向を取ったのに対して、昭和61年の三鷹進出まで一切多店舗化を図らず、その投資を教材そして広告に集中させたことも大きい。
 当時は四谷が全盛で、予習シリーズによる受験準備が基本。しかし、予習シリーズを自力でこなせるのはせいぜい先の中野、御茶ノ水クラスの小学生。圧倒的多数の生徒には、準拠塾等の手法にすがらざるを得なかった。
 TAP(以下タップ)はそこを突いたんです。「復習をすれば良い」と。まずはこちらで教えるからと。そしてそうした形で本当に開成なり麻布なりに合格実績を出し始めると好循環。さんざんぱら宣伝してる高級路線に実績がついてきたんで大変なことになるわけです。
 また当時の四谷はしなかった、というかどこもしてなかった「学校別対策」なる授業もはじめ、学校別の模試まで揃えた。同じ試験を受けてね、こう出るんですよ「君が開成を受けたら○%、武蔵なら○%、麻布なら○%」ってね。今考えると同じ模試で東大と早稲田と慶応を判定するくらいに違うって思うけど、コレもうけた。さら最上位の集団を「S」コースと称して、これはラテン語のシュぺリアって意味ですが、コレのみの選抜テストをした。できの良い子が集まるわけです。こうして「日本一の実力集団」とかいうわけ。さらに関東に飽き足らず「灘ラサールツアー」とかいってこういう系統の遠征までさせる。
 もう外ばかり向いてるでしょ。この塾は。
 という感じで気がついたら、たとえば昭和61年かな、麻布92名、開成73名、武蔵26名とかね、1教室からしたら驚異的な難関実績を現出するわけです。
そして、進学ガイドのような月刊誌を抱きこんで(としか思えない表記が目立った)宣伝させるわけ。塾報には「大地新太」っていうガイドで活躍してる塾コンサルを呼んだりね。昔サンデー毎日が東大合格発表をしてるときはしっかり広告を打ち、データハウスの「東大理3」にはOBに塾名をあげさせたり。
 もう綿飴みたいに応募がくる→組み分けという入室テストで半分落とす→難しいっていう評判が立つ→腕試しにと優秀児が集まる。
 みたいな。
 で実際にね記述式の答案であるので、珍しく途中の式があってるとそれで加点してくれたりするんです。ただ、これは別の使い方もあって外部の優秀児が来るとわざと減点をして、絶対に上位にはさせない。必ず内部生に勝たせる。「文句があるならウチで勉強すれば」という奴です。万事こう言う調子です。でピーク時の田中理事長が新聞でいうわけ「日本の優秀児の1割はウチにいる」って。すごいよね。

 今日はここまで。やはり日能研を解析したごとく、この塾の内部体制やらを斬っていきます。小学部は良く分からないんで聞いた範囲で。中学部はかなり詳しく行きます。いよいよ佳境です。
 
 さてTAPです。先ほど描きましたように、この塾は徹底的なメディア戦略を構築して出来る子の囲い込み、高級路線の確立で伸びてきました。では何をもって確立したといえるか、それはズバリ合格実績です。
 昔塾業界では、開成にひとり合格者を出すと、それだけで100人の応募が見込めるといわれてました。それだけ難関への実績が塾の実績に及ぼす影響は大きかったんです。ただ悲しいかな、そうした学校は必ず定員があって、塾の頑張りで何人もの合格者を輩出することは無理でした。そうした限られたパイの争いをするには何か戦略を打たねばならず、それをメディアに見出したのは、ここが最初でしょう。

 すこし周囲を見ておきましょう。塾が産業化するなかで、確かに革命的な展開を見せるところもあります。代表は国立学院予備校です。ここの河端さんという人は慶応人脈を駆使して、なんと塾業界はじめての店頭公開を果たします。そして、銀行に株を買ってもらい、株主になってもらうことで、駅前の銀行のビルに教室を構えます。当初は桐朋に実績を出し、スパルタで知られたここも、だんだん企業としての性格をもちはじめ、勢いをなくします。TAPの分裂時、ここがどういう動きをしたかは後で描きましょう。
                                     (8月4日)

 さて少し間があいてましたね。ええとタップの続きで。それで、この塾の内部的な特徴といいますと、教材が授業ごとに配布されるということです。小学部ではレベルアップ、中学部ではタップル式と呼ばれる印刷教材が冊子の形で毎回配布されます。背の固まった教科書的な教材を使用するということがない利点は、最新の入試傾向に対応するとか、レヴェル別に何段階もの教材を作成できるとありましたが、どうだろう。実はいろんな教材からのパクリがしやすいというのがあったと思います。
 ここは、教材の後ろを見ると「非売品」という表記がありますね。これは問題なくパクリができるように教材を位置付けてるわけです。以下は中学部に限ってですが、今でもおそらく塾専門の教材作成会社というのがあると思います。下高井戸に教育開発っていう教材の大手があって、ここからのパクリだったり、橋幸一さんで有名な西北出版というのがあって、なんかページいっぱいに問題ぎっしりみたいな難問をたーくさん出してましたね。数学は有名な代ゼミの佐藤の入試によく出る数学という本の体系化をパクって見たりね。そういう感じです。

。(8月8日)

 


 さて、本当に久しぶりにこのページの記入をします。1年半ぶりかな。行ってみましょうそれでTAPですね。ええと中学部ですね。それで中学部ですが、高校受験では比較的にライバルがすくなかったというのがあります。昭和60年代でいえば、模試で駿台、学芸大学付属生を大量に集めた秀英、中高一貫を目安にした河合塾、そしてTAPというのが難易度としてはトップでした。千葉方面では、市川進学教室が市進学院となり、千葉県内を展開し、埼玉では山田義塾がその中心にいました。ただここは、有志の先生方が「THE義塾」という塾を作って独立してしまい、最後には身売りをする形になります。あとは栄光ゼミナールですかね。神奈川はアテストの影響もあって、なかなか進学塾が発展しませんでした。日能研が向学館という塾を作っていましたがぱっとしませんでしたね。で、難関高へ向けてのせめぎあいですが、開成高はTAPが、武蔵もTAPが、トップでした。東京西部に東進スクールというのがあって、まだ街塾の域を超えていませんでしたね。昭和59年か、TAPにいた塚本真三先生という数学の先生と山本一太という英語の先生がTAPを辞めて、麹町ゼミナールというのを開いていました。二人ともそのまま代ゼミの中学部にいったというのがあります。内部で何かあったんでしょう。小田先生は「難しいことが教えられないんですよ」などといってましたが、どうですかね。山本一太先生は代ゼミの予備校部門でも英語の講師としてやってましたが、数年で消えてしまいましたね。その後塚本先生は東進スクールへ行って、最後には「塚本数学クラブ」なるものを大田区でひらいていましたが今はどこへやら。で話を戻すと、中学部も宣伝というかメデイア戦略に長けていたという感じです。小学部で中学受験失敗したやつが多かったな。後は四谷大塚行ってだめだったとかね。ま、敗残兵の集まりみたいなとこでした。カリキュラムですが、めっぽう早い。中2の夏には中三の内容を先取りします。英語は関係代名詞を除いて終了します。数学も円を除いては終了します。で中2の秋からは、お国めぐりシリーズとして各都道府県の公立の問題を解いていきます。ただクラスによって進度もまちまちで、少なくとも中2から設定されるZコース、Z1コースは、完全に終わらせます。中三の春先には御茶ノ水女子大学付属高校の過去問をやるという感じです。中学部は大事なのはZのつくコースであって、それ以外は適当という感じです。適当にやっててもそこそこの優秀児は集まっていますので、割と結果を出しやすいといわれてました。後、Zのつくコースでは、理社を取るようにとも言われておりました。その辺はしかしどうなんでしょうか。小学部と同じく、ここも灘ラサールツアーをやります。昭和60年の入試ではトップ合格者を、翌年の昭和61年にはトップと第二位の合格者を出しました。実はま、内内の話なんですが、当時の中学部で組み分け試験をやると大体いつも一位をとってたT君という子がいて、武蔵高校に中2で合格させようという話がありました。当時の武蔵高校は中2でも受験できるようで、いろいろあって、本人が「いやだ」と言い出したのでその辺はどうだろうかと思います。ただ、彼なんかは、中2のうちから「高校への数学」といわれる専門誌で企画されている学力コンテスト、通称学コンに成績優秀者としてランキングしてましたからね。恐るべき努力です。彼は四谷大塚では池袋の準会員だったそうで、ま、頭が下がります。で、中学部は、駿台の公開模試のときに、会場傍でパンフレットを配ります。中には、9月の組み分け試験の結果が上位100傑として印字されているわけです。で、実際に駿台の模試の結果が発表されると、上位100傑のうち4割くらいがTAPの生徒だという形になるわけです。すごいインパクトだよね。「TAPはレヴェルが高い」という感じで話が流れていくわけですよ。とそこで「超特』といわれている日曜日のみのコースの案内が出てくるわけですよ。優秀児たちはこぞって参加するようになるわけです。一番遠いと宮城県から新幹線を使ってきているという話は聞いたことがあります。まそんな感じでがちがちに合格実績を積み上げていく。開成武蔵、早慶についも圧倒的なシェアを確立するわけですよ。

 で、順風満帆できたこの塾ですが、なんと平成元年に分裂劇を起こします。小学部では霜山先生、中学部では、小田先生、中山先生、高橋先生らが
上位層の生徒を引き抜いて「SAPIX」なる進学教室を作るわけです。びっくりした。平成元年の6月かな「高校への数学」6月号に「よろしく、サピックスです」なんてキャッチフレーズを出してあの小田先生が写真で微笑んでるわけだ。SEGなんていう数学専門の高校生向けの塾が応援広告を出したりしてね、ど派手にのろしを打ち上げたのです。小学部がシェア争いに苦心してたのに対して、中学部は余裕がありましたね。最近では早稲田アカデミーという塾が出てきて、早慶の合格実績では抜かれてしまいましたが、どうでしょうか。分裂の真相はわかりませんが、とにかくTAPはこの事件で衰退してきます。オーナーだった田中理事長は身売りを図ります。そしてなんと出てきたのがエスエス製薬だったのです。とはいえ薬屋が塾のことなんてわかるわけないのだから、どっかしらから助け舟を出してもらう必要があったのです。ここで以前書いた国立学院予備校が出てきます。業務提携とかいって、朝日新聞に両オーナーが握手しているところが映し出されていましたが。これはでも、国立学院予備校にすればTAPのノウハウをごっそりいただけるわけですからおいしい話なわけです。その後TAPは埼玉の栄光ゼミナールに身売りされ、去年の暮れに解散をしたのです。サピはどうだったかというと小学部は、開成重視のカリキュラムとなっており、できのよい四谷大塚の生徒を一本釣りしていきます。中学受験では、日能研、四谷大塚、SAPIXの三つ巴となります。武蔵合格を売りにしていた学習指導会は身売りされ、開成合格をメインにしていた桐杏学園は、労働争議をおこして失速。二度とよみがえることはなかったのです。終わりだけ書いてもなんなので、学習指導会と桐杏学園については少し触れてみましょうか、指導会は四谷大塚の会員であることを前提として入室が許されます。単科ゼミナール方式を敷いたりして、塾経営としては先進的なところでした、しかし、ここも内部で問題が発生し、オーナーが身売りに出したという感じです。桐杏学園は、開成に圧倒的な実績を残し、繁栄していましたが、ここも労働争議をやって大量に教師が退職するなどしてだめになっていきました。どちらも名前はそのままでやっております。後だめになったのは、高校受験で言うと、秀英かな。ここは日曜日に集中して勉強するスタイルで、土日のみの開催をして、学芸大学の付属中学校に通う生徒を大量に集めてました。ここのモデルテストは評判がよかった。あと英語関係の教材が豊富でしたね。オックスフォードやマクミランといった雑誌を取り揃えておりまして、外部の人間でも買えるというのがあります。当時学芸に通ってる生徒はほとんどこの秀英に通ってたのではなかったろうか。私が生徒だったころ学芸の生徒はぱらぱらとTAPに通ってたような気がします。いまも細々とやってますが、今は学芸のどちらかといえばおちこぼれた生徒を指導するようになりましてございます。


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