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幕軍&松前えとせとら1,箱館戦争

幕軍&松前えとせとら_No.1,蝦夷の地に散った命,老家臣_田村量吉,川内美岐,松前の賢人左幕派:松前勘解由,山下雄城,蠣崎監三,関左守,榎本公園,官軍がなぜ乙部から上陸したか?,福士源之助,フランス領事デュース,小野淳輔,松前クーデター,石井梅太郎,内国植民地の発想,松前藩主,徳広,崇広,イギリア号事件

幕軍&松前えとせとら

幕軍&松前えとせとら_Vol.1
幕末玄関幕軍&松前えとせとらSERIESの目次
(幕軍&松前えとせとらSERIESは延々何頁も有:▲目次からどうぞ)
城を枕に切腹_忠義の松前老家臣「田村量吉」:松前藩
箱館戦争関連特集頁の各補足

  • あらかじめ・・・現在頁は本文の補足&こぼれ話等です。関連本文はこちら
    幕末、榎本艦隊_蝦夷DREAMシリーズ会津遊撃隊長_諏訪常吉の手紙による平和への願い、松前藩のこと。
    ■聞き知った事など、バタバタと思いつくまま書いた頁です。
  • 「幕軍松前えとせとら」は延々何頁もあります。【各人資料編、会津編、事象編など各種。】
    上の黄色枠内の目次からどうぞ。

田村量吉

「敵ながらあっぱれ」と榎本チームの面々にも伝わりました。
名前は吹っ飛んでいても、老臣の切腹としてならば、文章にもあっちこっち残っています。
しかし、あっぱれ!・・・じゃなくて、死んでほしくなかった。

72歳の田村量吉さんは病身。お城のお仕事から辞退してひっこんでいた人です。
しかしお家の一大事とあって、無理してやってきていた人。この人にも死んでほしくなかった。

田村量吉は、松前のクーデター正議士:松井屯、鈴木織太郎、下国東七郎他による)が発生する
前からずっと松前と共に生きた人。
左幕派の賢人達(松前勘解由、山下雄城、蠣崎監三、関左守ら)が殺られたのはほんの2~3ヶ月前の
こと。このおじいさんがひっこんでいたのは、病気もあるが、多分彼ら殺された側人物の家来(左幕派)
だった。即ち、話せば解る人だった。左幕だろうが、倒幕側だろうが、松前を攻めてきたと思った為、
藩の為に、この人物は命を捨てた。

川内美岐・・・北島美岐

北島美岐(川内美岐):松前藩士妻:本文はこちら

松前城攻略の際、たちまち土方戦法。
松前はあっさりやられてしまいました。
土方は、大砲に退くどころか、門を閉めた隙に、逆に銃隊を
門の直近距離まで一気に走らせ、大砲の砲手目掛けて一斉射撃
させたわけです。悲しい程のイチコロ状態でした。

松前の老家臣、田村量吉_(▼解説)が切腹。
足軽の奥さん、北島美岐_(▼解説)も鋏で喉をついて自刃。

関連本文_悲しい松前の落城

烈女の伝説。お墓には「川内美岐」一般的にもそう言われています。
しかし、「北島美岐」と呼んであげたい。彼女は「北島幸次郎」の奥さんなのです。

箱館戦争史研究の大家「脇哲」氏が現地に行った時、昭和54年も同59年も、
なぜか、彼女のお墓は、天辺の墓石が横倒しになって上に置かれていたとのことです。
なぜかわかりませんが、時代の悲しい裏事情が潜むようです。夫「北島幸次郎」は、妻を捨て
敗走した者よばわりで、追放された事実がありますが、どうも真意は不明。下記に夫の経緯。

烈女の伝説。お墓には「川内美岐」、一般的にもそう言われています。
上記のとおり、夫が藩追放されたことから、彼女の姓、北島は吹き飛ばされています。「川内」は旧姓。
  • 女性の靖国INの第一号女性でありながら
    「忠義」に徹して自刃。松前藩も、明治という名の次の世も彼女を賞賛
    しかし、明治は、彼女の死の真意を勝手に「国民、皆国家の為に命を捧げるは、美徳也・・・」の代名詞
    使いました。これは明治の陰謀です。この時代はいつも。彼女に遺言があるわけでなく、真意は不明です。
    ・・・しかし、彼女は、「旧姓に戻してくれ!」などと希望していただろうか?
  • 夫の幸次郎は、散々な目にあいました。存命不明。妻を見捨てて逃げた武士に非ず。追放。何の弁解も許されず、
    当時の蝦夷、真冬です。存命不明。「だから、足軽ごときは!」と言われ、都合のいい時だけ、「武士に非ず!」
    ・・この矛盾は明治の特徴なのか、両家の狭間か。
身分差別は致命的でした。明治維新と共に平等になったわけではありません。長い長い!
延々、根深く引き摺ってゆきます。関連▼
幕末のオーバーザレインボー

・本文無関係:身分差別と戊辰(会津編)▼

青い制服、笑顔の兵士

悲しきかな、早々に漏れていた「スパイ情報」
なぜ、官軍はいきなり「乙部」に上陸したか?

榎本軍、鷲の木到着。明治元年10月20日(=旧暦)
:現代の季節感で考えるには、(1868の12月3日になる)
いわば、初めから運命が決まっていたようなものだった。ことごとく情報が漏れた。

官軍上陸を想定し、大鳥圭介の壮大プラン:大勢の人夫を駆り出し、太平洋側に着々と砦台場を構築。
しかし、時間もかけた、人も一杯出入りした。民心離反の問題もある。
・・・・情報は、ことごとく漏れていた。紛れるスパイ。顔にスパイと書いてない。わかんない。漏れっぱなし。

★そのため、官軍は迷わず手薄な日本海側から上陸。しかも開陽沈没の江差海岸をちゃんと回避した。


津軽弘前藩_「福士源之助」謀報
・・・・・・・・・・▲コレ、江戸の幕臣通詞「福地源一郎」とは別人。名似てるけど無関係。

■峠下ニ台場1ヶ所七重浜拝鹿部越路江1ヶ所
■河汲(※)峠絶頂江1ヶ所大沼小沼ノ間1ヶ所
※河汲でなく、川汲なのだが、福士氏は津軽の人、地元人じゃないから、字を間違えてる。
■新峠江関門出来
■森村ト大平内(※)之間ニ台場1ヶ所(高森台場)
・※大平内でなく、尾白内なのだが、福士氏は津軽の人、上記同様誤字。
■森村江俣人数十人位
■鷲ノ木村江八十人位大将ハ古屋作(作でなく、佐久が正解)衛門
■湯ノ崎台場沢口台場(鷲の木、石川原)

・ここで面白いのが、この誤字当字。スパイとしては、まさか、そのへんの人に、
「あのう、古屋だかっていう人、名前の漢字教えてくれませんか?あのう、今おっしゃったその地名、
あのう、漢字ではどう書くんですか?」・・・とは言えない。


▼こっちもすごい。スパイはスパイでも、インターナショナルだった!
(資料:陸軍創設史_(株)リブロポートの本

フランス領事デュース(オランダ人、デンマーク兼フランス代理領事)から、
新政府の外国官判事_小野淳輔(※コレ、坂本竜馬の甥_坂本直の変名!)へ謀報


(フランスは暗黙に味方なはずなのだが、ロッシュが追い出されて、ウートレーが現領事。味方とはいえない。
それに代理人として、オランダ人を使っている。応援してくれてるフランス商人や士官は、他にいるのだけど、
地元箱館でこれでは、たまらない。)

手紙のメインメニューはここからはじまる。


小野淳輔殿へ

下記報告と共に「永井玄藩の手紙の写し」を同封します。運上屋にいる者は
一人を除き、皆罰するに値する敵です。


・・・ここで解ること。○運上屋にスパイが一人いる。○「永井玄藩の手紙の写し」!!が敵の手に渡る!!
とんでもない話!!(私情:今井信郎よ、早く嗅ぎ付けて、そんなヤツ斬れ!!と言いたくなってしまう。

記=敵(榎本チーム)の状態謀報

■カクミ(※川汲のことと思う)道の防備は万全の様子。■トゲシタ(※峠下)道も同様。
■カミダ(※亀田)の砲台、今フランス人の士官が構築を終了。人足達が柵を作って、大砲をベンチン(※弁天)
から移してきて据え付けた。■函館の東側にあるシーサミ(※残念、当該地名不明!)にも1砲。
■官軍がここを攻撃するであろうという噂が賊軍に漏れており、兵隊が防備してます。
(※敵にも謀報をもたらす者がいるのでご用心・・・ってこと)
■賊が今使える船は3つ。ケイチンマル(※回天)、高雄(尾とも書く)、ニバンケイチンマル(※二番回天丸)
賊は開陽を完全に破船させてしまい、失ってます。_以下略。_デュースより

▲これでわかること。
蟠龍を二番回天丸ともいう高雄と混同視してるのか、聞き落としているのか、どっちか。
賊側の謀者、ご用心と警告すると同時に、太平洋側防備硬い、困難だぞ!と忠告してる。

しかし、かたかな(カクミとか、ケイチンマルとか・・・)一杯混ぜて、
外国人さんが、こんだけ詳細極まりない日本の謀報係!

完璧すぎて、大変・・・ムカツいてしまう!
・・デュースよ、あんた敵かい!(我_どちらかというと、幕軍贔屓也)

左幕派の賢人達_松前勘解由、山下雄城、蠣崎監三、関左守
榎本殿、到着が遅かった・・・もう少し早ければ、会えたこの人達

ちなみに上記4人組が生きていれば、松前がこんなに弱いわけはどこにもなかったわけです。

本音は・・・「冗談でない!人の土地に勝手に乗り込みやがって!」・・・にはかわりなくても、
そもそも左幕派。

松前勘解由さん、なんだかんだとややっこしい「かけひき」てんこもり!
・・で多分応じてくることでしょうが、血を見る前に、高度な交渉テクニックに入ったことと想像します。

「君たちは、なぜ闘うのだ?松前は君達に任せたいのだ。なぜ闘う?」・・と榎本殿、
一生懸命、伝えようとしたのですが、そりゃ、所詮無理なお話。
クーデターで左幕派が殺害された後の到着だったから・・・

また、兵器が旧式でも統制の整った高度の頭脳プレーだったことでしょう。
一応官軍に恭順しながら、一方では、東北列藩同盟にも使者を送っていたのであります。

クーデターの時、正議士チームは200人いるかいないか位。しかも、そのうち「硬い!」モノは
ほんの数十人でしょう。左幕か否かという見解より、松前じゃなくて、江差の時代を勝ち取るぞ!
系のチームもなかなか賢固だったらしいと伺ってます。しかし、悲しきかな、多くは、若い正義感
はいいけれど、つい熱っつ!くなってやってきたり、便乗してしまったり・・の突き詰めると、
自己の思想に脆さボロボロ系ヤングが多いのです。

頭にきた松前勘解由が「皆の者!」と一声叫んだだけで、一気に1000人以上集まったそうです。
一気!にやっちゃえば、ブシュッ!あっさり終わったのですが、理性が邪魔をしました。
城内には病身の藩主が居たのです。

おまけに「水牧梅干」が出てきて、「そーゆーのイケナイ!」なんて言うものだから・・・。

左幕派の賢人達_松前勘解由、山下雄城、蠣崎監三、関左守らは、ここに無念、滅んでしまいます。
歴史とは・・・残酷也!!

松前勘解由の「老獪_こんにゃく問答」

松前勘解由の「こんにゃく問答」は有名。のらりくらりと煙に巻いて血を流さない。
ペリーに会った時もお得意の「のらりくらり煙の中!」・・・実は幕府の複雑怪奇マニュアルに忠実かつ
完璧にクリアしての対応。

■外来船が来たら、追い返すに危険なら、蒸気機関用の薪、水を提供して帰ってもらうこと。
■色々交渉を持ち込まれたら、ただちに交戦にならないように、とにかく、のらりくらりやれ!
■決定や発言は一切許さぬ。聞きだせる限り聞いておいて報告せよ!
・・・この難解極まる幕府ニーズを完璧にこなしたお人。

アメリカ側の報告から見ると、「高度な知性に恵まれながら、結局決定権がない男のようだ。」
・・・正解!

「ん~む、お前じゃ話にならん!もっと上の者を出せ!」
・・・と言われないように、高度の知性でズルズル散々、引っ張って、考えさせて、
頭完全に疲れさせて、自分にひきつけておきながら・・・一切答えない!これ凄いっすヨ!

写真を見ると、確かに「俺は男だ!武士だ!侍じゃ!ガルガル!」タイプでなく、
あたかも、ちょこんと大人し気に座っている'ように見える!'タイプ。しかし、視線を
ぐっと下に落としているから解らないけれど、これは手強い目をしていそうなかんじ。
一度に沢山のアンテナ立てて、目線が怖いのを自分で知ってるが故に、わざと視線を
あわせず、「あっちゃ向いてホイ!」みたいな顔したまんま、ありとあらゆる奇策を同時進行で複数
組み立てる脅威の頭脳マンって感じがする。・・・取引先の商談なんかに、こーゆーの
出てこられたら、ひとったまりもない!・・・しかし、写真です。人を顔で決めてはイケナイ!けど。


やきもき!のアメリカはダイレクトに蝦夷アタックもやってました。
しかし「老獪こんにゃくMAN」登場だった。
しかし浦賀事件の後、回答はまだ!だっちゅうにもかかわらず、スタコラ箱館に上陸。
証拠の絵や書類、函館図書館に有。

初め・・・松前が弱かったのはなぜ?

■クーデター
クーデターの張本人、正義隊と称する新派の幹部大半は、城主と共に青森へ逃げ去っていた。
ここに居る者の多くは、攘夷も、尊王も、左幕もへちまもない。ふりまわされた兵達なのだ。

ただ、ひとつ全員の観念として、しっかり存在しているもの・・・といえば、、
「松前の地を失いたくない、城主様と愛する家族、この地を守りたい。」それだけだった。

・・・しからば、それをどうすれば良いのか・・・となると、
途端に崩れ去る、脆さが露出した。個々の答えは専ら錯乱混乱だったのだ。

そもそも、クーデターで左幕派を倒したのはつい最近。明治元年7月のこと。ちなみに
榎本軍、鷲の木到着は10月。だいたい80日位前にクーデター発生だった。
まだ「正義士チーム」のシステムが完璧に固まっていなかった。藩主送り出しの乗船の際、
仲間割れ。「うちの嫁も一緒に逃がすんだ!」「ダメだ!」喧嘩発生。
信頼関係は目下構築中?・・・この段階で、少々色々ズレがあった。
・・・


蝦夷感情、松前感情

攘夷とは、外人追い出せ!発想で、「小攘夷」とはその中でも特に視野の狭い&浅いもの。

「松前」にとって、外国の脅威に対して、攘夷論うんぬん以前の感情として
日本全体に於ける「外国に攘夷!」という発想が一部の人々に発生したのと同じく、
蝦夷は「本州からやってくる『本州夷』どもを追い出せ!」みたいなニュアンスも否定できない。
一言で言ってしまうと、「閉鎖的」「陸続きじゃないから」ってことになるわけですが、
・・・その閉鎖的と言われようが、その法則で長い間、成り立ってきていた。破壊されたくない。
▼戊辰戦争が始まって蝦夷内に緊張が高まる以前から、
▼蝦夷の地、余所者、一人歩き非常に危なかった。ましてや、戦争中だぞ!

石井梅(楳)太郎事件

(明治1.11.12):名前(他に「石井操太郎」他表記の類似名も)

★松岡四郎次郎率いる一聯隊が、舘城攻略&熊石進軍中の惨劇。雪の降り積もる稲倉石関門。

この道はわざと通れないように、大木やら岩やらで塞がれていた。(松前としては、この戦争突入期以前
に、もともと何人(なにびと)も勝手に通って頂きたくない!から)

指図役_石井梅太郎は、地元民二人と僧一人に同行頂いて、地元民になりすまして町の様子を事前視察。
関門で取り調べられた際に、懐に隠し持っていたピストルをうっかり落とし、見破られ、前述3名と共に
処刑されてしまう。武士らしく、「己の命は惜しくないが民の命だけは・・」願い叶わず・・・。

  • この一件ですが、石井氏の自発的行動なのでしょうか?それとも松岡隊長の命令なのでしょうか?
    ご同行の皆さんも、非常に気の毒です。この頃、この地は、非常に閉鎖的。
    箱根の関所を渡る陸続きのどっかの村の人がどっかへ移動するとは、訳が違って、
    「こんなとこ、旅の者が歩いてるわけない!!」世界であります。

    蝦夷の地に於いて、この「事前偵察」自体、ありえない!!超危険のカタマリ発想。
    ピストル落とさなくても多分殺されたと思うのです。石井氏は岡山の人。イントネーション、言葉、違う!!
    一言しゃべった瞬間、運命だったともいえる。

    この時代、いろんな地域のいろんな言葉の人が・・・まあ居るとすれば、函館市内であれば幕臣や通詞が色々
    出身地、色んなイントネーションもないこともないけど、それ以外ならば、幕府の指示で派遣された藩の
    それぞれの所轄地のみ。言葉違う!人が、まさか山ん中、歩かない!!

    石井梅太郎
    岡山県勝山藩の美作国。父は石井宗謙(=医者)。父は、シーボルトの娘「阿蘭陀おイネ」との間にも
    一子(たか子)をもうけている。しかし、梅太郎は、別の女性との間に生まれた子。
    資料の中、若いが非常に思慮深く、学識高い人物の旨各所、幕軍側資料に語られる。(説夢録他)
    一方松前側の資料では、ボロカス。:石川證平(忠恕)が説夢録に書き残した石井の件


★内国植民地の発想

関連本文はこちら→(蝦夷の針葉樹、民心離反、官軍乙部上陸)

そして、もうひとつ、悲しいけれど、これも蝦夷の地、暗黙の共通観念だった。

とにかく、他所から来る輩は皆、敵、皆泥棒だった。米が採れない松前藩、蝦夷は
米で年貢を納められないかわり、独自の商戦
をもって、ずっと昔から、やってきた。

蠣崎姓を名乗り、松前になる前の時代から場所請負制をもって、アイヌの人々と交易を行い、
独自に繁栄していた。

松浦武四郎達よりずっと早く、1600年代前半から、ちょろちょろと水戸の偵察が鬱陶しかった。
水戸 斉昭 の代に始まったことではない。光圀の頃、否それ以前から、迷惑だった。

ここは、我らが地である。他人にとやかく言われる筋はない。

触手を伸ばしておきながら、松前の武士は武士にあらず。商を行う下賎也。人権を疎かに
する愚策の横行。・・・大義名分、されど、本音は豊かな資源を狙っているだけだろうが!

場所請負制はアイヌの人々の人権を犯し、問題が多いのは解っていたのだ。しかし、藩が直接
行うには採算が取れないことで、何度も頭を打っている。

わざと渓谷などに橋を作らず交通を不便にしてあるのは、「余計な輩!=永住せぬくせに、実態を
よく知りもしないで、松前をど~のこ~のと言う本州の人・・・場所請負制の弊害になる・・・
理由は・・・ちょっと書けない。差別とか、難しい問題になってくる」防御のためだった。

松前だから、どうやら、開発が遅れているようだ・・・そう伝わるとむしろ密かにほくそ笑んでいた。
・・・本音は、「ほっといてくれ!」の地なのだ。
・・・内国植民地的発想の触手は、相手が誰だろうが、全部敵だった。全部泥棒だった。



幕府直轄も本音は煩いけれど、仕方なかった。長いものには大人しく巻かれておく。
今回の官軍、新政府とやらも、よく解らないが、長いものには大人しく巻かれる。それでいい。
幕府を「仕方ないから我慢」できたのなら、同じではないか、徳川ではないか・・・と言っても
これが、違うんだ。「脱走軍」「賊軍」・・これは忌まわしい。他所からやってきた泥棒。

近年の唯一弱みは、北方対策、脅威を防ぎきれないのを見透かされて、道東などは
目をつぶって大人しく、幕府にお任せ差出享受していたにすぎない。
まるごと取り上げられた時代は、大型賄賂をもって、とっとと取り返したこともある。

松前はこの地に生き抜く為に、時に牙を剥き、時に協調を策し、時に豪権にあたかも平伏し、
べったり伏して、額を床にこすりつけながら、それでいて折を見て、すかさず巨大な袖の下。
たちまち奪い返す。低温、寒冷。泥炭地。米が採れない独特の地。

豊臣秀吉、徳川家康共に朱印を貰い、城でもなければ藩でもないが、独立区域の主として、認めさせる
そのかわり、北海の幸で交易を行い、儲けて大型賄賂。蝦夷錦といわれる貴重な反物も捧げた。
・・・そこから始まり、今日まで守り通してきた独自の「蝦夷プライド」があったのだ。

大型の「孤島」

彼らにとって、榎本チームとは、政府としてのニュアンスがない。「賊共集団」の感覚に近かった
だろうか。脱走とは徳川をはばかった謙遜語であり、賊軍とは、官軍が勝っ手につけた言葉であり
・・・なのだが、ここは孤島、北の地蝦夷。或る程度の情報は入るにせよ、一般下層の者に詳細は
伝わらない。

官軍などと言っているけれど、雄藩のこと、京の都に惨忍極まりないあの天誅が横行した事実も、
少年や乙女の屍も地に連なったあの会津の悲劇も、江戸はまるごと火の海、全部
燃やされていたかもしれない。なんてことも・・多分知らない。

結論だけ聞き知っていても、陸続きじゃないから、肌で体感した者独特の臨場感はないだろうと感じる。
たとえば、仙台でついに発生したあの逆ギレ。「世羅」に天誅が見舞われた。官軍といいつつ、
つまるところ、侵略と蹂躙

たとえ、他藩の悲劇といいつつ、聞き知れば、誰しも、我が身のごとく怒りの炎が燃え上がる・・・
この感覚が、遠すぎるから、ちょっと違うかもしれない。

たとえば、・・・会津の悲惨

会津では、累々と折り重なる屍は、斬られて撃たれて痛々しいだけではなかった。
乙女や少年の遺体も累々と。当時の十代半ばの少年の体格はというと、現代と異なり、
大人より遥かに小さい。顔立ちも見るからに少年。幼いのだ。

しかし、それだけではなかった。
すでに息絶えた屍に、陰惨な性的余興を加えられ、屈辱をいつまでも曝された。
それを葬ることを許されず、生き残った者の精神は拷問状態だった。

英雄的に死ねるのならば、勇気は盛り返す。しかし英雄にはことごとく屈辱を塗ったくられた。
地位も名誉も捨て、仏を葬ってくれた人がいた。悲しいけど、ついに復讐に命を捧げた人がいた。

▼再び、松前の話

庶民の間で、榎本チームは、「賊共」「脱走共」といわれたように、彼ら(松前藩士)にとっても、
やはりいわゆる本当の「THE_賊!」山賊みたいな連中。一種、危険思想の、しかも山賊化した浪人集団!

むしろ、「山賊よりもタチの悪い・・・インテリお化けの賊連中」
・・・・と思っていた者が混在していたとしても・・・大袈裟ではないかもしれない!

その「山賊共」が、いきなり、ジェントルマン、いきなりヒューマニズム。

他に、こんな例がどこにあろうか?
捕虜全員の「命を尊」んで、全員を解放し、国へ送り届けた。
■敵見方区別なく傷病者に治療を施した。
■傷を負った捕虜には、完治するまで養い、国に送り届けた。
■捕虜にちゃんと、給料を与えていた!

それだというのに、ほとんど全員、そっくりそのまま沸いて出た!_蝦夷冬の針葉樹
と言われても、
根本的に視点が違っていたかもしれない。
恩を仇て返した、人に非ず・・・何言われようと関係ない。
返せ!我らの北方領土!!」・・・じゃないが、壮烈な怒は、彼らを盛り返して爆裂させた。

返せ!畜生めが!このやろう!・・・そっくりそのまま帰ってきた男達は、
もはや、あの時泣いた「彷徨える子羊」などではなかった。
皆、誰一人、我が命も惜しまぬ壮烈剣士に変身して、襲いかかってきた。


松前は、この地を取り上げられて移封されて、最終手段、大型賄賂で取り返したり、
直轄にされたり、一部除外でほぼ直轄にされたかと思うと、幕府もついに手に負えず手放されたり、
また、とりあげられたり。諸外国からの圧力に自力で対応しきれない弱みもあったけれど、
諸外国の脅威に堂々と正面から立ち向かおうとしていた名藩主_崇広(下欄)ちゃんといたのだけど・・・

本音は、外国以前に、「国内のみんな」が煩かった。資源と可能性に群がる「蛾!」だった。

ほっといてくれ!」の国に、確かに「余計なちょっかい」をかけていることに変わりない。


松前の「13代藩主_徳広」は病身。

青森に逃げたけど、そこで落命。
これ可愛そうです。本当に弱ってるのに、江戸から引っ張られて、また青森へ、結核も
ありますが、笑わないでね。痔病が辛いのです。しかも結核系のMAX痔病だから、何をするにも
横臥したまま、座れません。大切な報告を聞くのも、決断も横臥状態。
こんな重病人を引っ張り担ぐのは、困ったな。非難したくないけど、やっぱり可愛そう。

跡を継がせる者を決定する前に藩主が死ぬと、お家は大変。取り潰し。
家臣は大慌てでクサイ芝居。あわててNEXT_幼少の修広の就任準備を済ませ、
(藩主は、ミカドからお預かりさせて頂いておりますところの
尊いミカドの地を、あの悪い賊どもに取られまして、ミカドに申し訳なく、切腹を・・・
などど、非常に長ったらしいセリフで言い訳。つまり死んでから暫くの間、
準備ができるまで、死んでないことにされていた。

全然ミカドの土地、預かってるなんて思ってない(本音:松前の地は俺達のもんだい!!)なのですが、
とにかく、この方向で、ミカド、ミカド!!、ミカド連発作戦で埋めてみた・・・

▼榎本軍に追われ、青森へ脱走藩主。その時、藩主の子と金魚
古今日本人と金魚特集

松前の名将「12代藩主_崇広」

北辺の守りにガンガン対処した「洋学ツー」
松前の名将「12代藩主_崇広」・・・がちゃんと居た!
・・・のですが、変!!な形、死にました。

兵庫開港問題で、一橋慶喜に足を掬われ、アウト。謹慎。松前に帰ってたんですけどね、
そもそも危ない時は、家ん中が、最も危ない。多分、やられた!(・・・と思う。)

お家の複雑な事情は解りませぬ。されど・・・

崇広は、あくまでNEXTの藩主がしっかり独立できるまでの間のみ限定!というお約束で立った藩主

しかし、頭角ムキムキ。恐ろしいスピードの出世。家茂に気に入られ、藩費を湯水のごとく使うも
恐れることなく、五稜郭も、松前城もガンガン建造。イギリスのエリザベス女王からも感謝状が
届くほどの偉業もやってのけた。
北辺の守り・・・誰がやっても事は容易い訳もなく・・・ではありますが、
意欲を滲ませ、行動で次々と実証した。ご存命頂いていれば・・・もう少し蝦夷は強かった。

一般的にお目にかかりやすい彼の写真は、
主に「けっこうおじさん風30代位?年のわりにはおじんくさい!」のもの。

しかし、古い本で見た若い頃の彼の写真は、まさにキラキラ輝いています。
精力絶倫パワフル男の彼が、いかに失脚による落胆・・・といえど、38歳で「腹痛!!?」
で急死。御腹の病気とか熱病とかってことになってますが、毒殺っぽい。

孝明天皇、徳川家茂、・・・こちらのワンセットチーム。
天皇も、家茂殿も、なんか変な病死。どっちも毒殺っぽい。病状似てるし・・・。
毒、ど~もイヤですね。松前に限ったことじゃないんですが。

そう言えば、こんなこともあった。
榎本チームも、「松前_酢ダコの毒入り事件」の被害者。幸い味覚に変!を感じたため、
対処早く、被害は最小限ですんだ。

◆額兵隊が命拾い:危うく集団毒殺の陰謀事件

明治元年11/13、墓所は松前の原口。被害者は額兵隊。食料として発注した料理。口に含んで大騒ぎ。
みんな吐き出し、伊藤貞賢先生(高松先生病院スタッフ、もともと仙台。星達と一緒に来蝦夷の医師)の
治療で命は大丈夫。しかし、この料理屋を糾問。犯人は新人の男と判明。しかし消えていなくなっていた。
松前の仕業。11/11に土方歳三らと共に額兵隊も松前攻略。敗走しながら、松前は民に毒配布。
さらに進軍した額兵隊が被害者。



◆将軍、徳川家茂と、松前崇広

名将_家茂殿、少々凝り性のところ有。気に入るとめちゃくちゃ引っ張って離さない。
崇広も真夜中にマンツーマン密談で頻繁に呼び出されて、打ち合わせ。
大活躍の崇広さんは、五稜郭、松前城建造、徹して北辺の守りに急ピッチで対応。
湯水のごとく松前のお金がたちまち・・・しかし、ひるみない。家茂に可愛がられて、眠るヒマ無。
飛ぶ鳥。火の鳥。天にも昇る!!急上昇。飛ぶ鳥、撃たれた。

外様もいいとこ、蝦夷の大名(そもそも、ちょい昔は大名じゃなくて、一種大名フィーリング。
城でなくて、館。米採れないから米年貢無い。蝦夷だけは、長い間特殊な存在だった)
の藩主が強烈な大出世。陸軍兼海軍総裁になった。
学識が高く、外国語ももちろんだが、当時の日本としては結構貴重な「理系バリバリ男」。

◆イギリア号事件と、松前崇広

イギリア号事件_藩主_崇広は彼らを救出。

1863年11月、松前管轄内、知内町、大沢櫃でイギリス船が遭難。救出。
暖かい心使い一杯。濡れた衣服に替えて、暖かで肌触りの良い衣服を与え、食事も薬も
・・・体力低下著しい者には医者がついた。すっかり元気になった皆さんを
今度は「箱館見学」へご案内。ご馳走一杯(ちゃんと外人喜ぶMENU)、手厚くもてなす。

船を用意して、親切に安全に・・・本国へ送りかえしてあげる。

思わず、エリザベス女王から、感謝状とプレゼント届く。
日本がヤバイ!緊迫のあの時期。日本人の「知性と教養」、「思いやり」というものもしっかり
暗黙に徹底的に示す!・・・偉い!
世に「攘夷」が吹き荒れる中、逆説手法の最上級手段に出た。
斬らない、消さない。追い出さない。感服させて、内存する人の心、「良心」を啓発する。

この徹底的なヒューマニズムは、裏を返せば、日本はかなり手ごわい!
知性も財力も、おまけに「ハート&隣人愛」みたいなヤツも見せ付けられた。
うかつに触手をピョロッ!なんて見苦しい真似はできんわなァ~!!

※この頃、藩主_松前崇広は寺社奉行。この後、老中格→老中と出世街道真っ最中。
多忙な彼は江戸で忙殺されている。現場で実質的に活躍したのは、いうまでもなく、彼の右腕、
上記クーデターで滅ぼされた左幕派賢人。「松前勘解由」ブレーンだった。
・・・後に、上記のとおり、本人も謎の死を遂げる。松前勘解由達もクーデターに殺られる。
・・・おまけに、京都と江戸の左幕派まで暗殺されてしまう。
(関連:蝦夷の地逆クーデター&クーデターへの流れ空転!松前に齎された平和交渉


・・・というわけで、その飛ぶ鳥、「崇広」撃たれて、もういない!
・・・・・そこに、函館戦争の竜巻が・・・運命の悪戯。松前の宿命が・・・

凝り性がタマに傷、名将_家茂秘話
家茂殿に気に入られてしまって、嬉や、困ったや・・の皆さん

■松本良順先生

新撰組の面々、お世話になった先生。高松先生が榎本チームに居なければ、多分、蝦夷に来た!と思う。
高松先生が嫌い!じゃなくて、まあ、色々あるかもしれないけれど、松本先生は
東北で、徳川忠義派の諸藩、幕臣、あらゆる人々をとことん助けた。

松本先生、添い寝事件

松本先生を気に入った家茂は、その末期、病状が悪化して非常に苦しい。松本先生は一睡もしていない。
スースーと寝息が聞こえるなり、ちょっとだけ・・と逃げようとしても、目を開けて、
「世から離れるではない!」

困った先生はついに正直に告白。「睡眠無ではついに私も危うし」。すると、将軍は重病にもかかわらず
素晴らしい判断力&決断。「なるほど、その者、申す意誠なればこそ・・・」。
医者に睡眠は必要。しかし側を離れられるのは困る。
家茂、得意の即決即断出た!
  • 「苦しゅうない!直ちに、世の布団に共に入って眠るが良い。
    充分に睡眠をとるのじゃ!そなたの申すとおり、医師に睡眠は重要じゃ!」
「えっ!あのうそのう・・・」まさか将軍に添い寝?しかも鬼瓦みたいな顔したお偉いさんが,
ぎっちり取り囲んでいる中で、冗談じゃない。しかし、鬼瓦にも怒られた。
「殿が仰せられているではないか!モタモタするでない!」
ちなみに、医者は他にごっそり、そこらに居る。しかし、将軍は松本先生オンリー希望状態。

殿は思いやりでも、鬼瓦にとっては、さっさと寝て、さっさと元気になってしまえ!ってところでしょうか。
しかたなく、ちょっとだけ入って寝たふりして、布団から這い出て、「もう元気になりました!」
・・・辛かったでしょうね。後にこの時の事を本人がこう語っている。

榊原健吉(勝海舟の姪「お高」の夫)
  • 講武所師範並の剣客。気に入られ、将軍の護衛役で、奥詰に抜擢されてしまう・・・。
    名誉職は有り難いが、お作法の煩いお城の中。将軍のお側。怖い鬼瓦達が取り囲み。
    体を使って、バリバリ指導するのはいいけれど、黙って座ってるのはそもそも、向いてない。

    うっかり居眠り。いびき!切腹!もんながら、機転の家茂。わざと大声、大笑い。
    周囲に余計なコト一切言わせず、場を「平和の笑い」のモードへ、暗黙に徹底強要。

    「さすがじゃの!豪傑は一味ちがうもんじゃのう!」

    将軍に「・・のう!」と言われると、「YES」しか言えないモード。

    そもそも20年間しか生きてない人のエピソードなのだから、やっぱり家茂は・・名将だ・・のう!



そして上記
松前の「12代藩主_崇広」

真夜中にマンツーマン密談で頻繁に呼び出されて、打ち合わせ。煩いのと、めんどくさくて事が遅くなる
タイプを、徹底排斥して、二人きりだから気を散らさず、効率が良いから。
これは恨みつらみもかうけど、目立ちすぎる。案の定、やられた。

「プライド」という名の悲しい脆さ・・・「天下の会津」

錦の御旗。

鳥羽伏見。突如現れたヒラヒラ旗。
がっくりと地べたに膝をついてしまった会津藩士の気持ちは痛いほどよく解る。
賊軍の汚名。己の悲しみや屈辱よりも、京都守護職「藩主、容保様」のお苦しみを思えば、
震えるも、怒るも、それはたとえようがなかった。天地が逆転。会津が朝敵に!

会津に限らず、土壇場に及ぶと、エリート特有の脆さが露見する。
・・・それはなんか、現代にも・・・思わず、考えてしまう。

「官軍らしく見せる便利な方法は、HOW_TO_DO?」悩んだ岩倉。
トコトンヤレ節とは
アイディア&デザイナーの要は、えっ!岩倉具視!・・・ちょっとイヤだねぇ。
従者や学者に古書を調べさせて「錦の旗」ってどんなモノかアバウト把握。
適当に女物の帯を仕入れ、職人に刺繍させた。
変!!でも誰も解らない。なぜなら、錦の御旗なるものが歴史上、登場したというのが、
この時代、この段階ですでに何百年も前。「こんなんじゃなかったゾ!ニセモノじゃ!」と
言える生き証人は誰一人として生きてるわけがない!堂々ニセモノ。
「みやさん、みやさん、お馬の前でひらひらするのは、なんじゃいな、
・・・トコトンヤレ、トンヤレな」


ついに会津降伏の隠れた実態、こぼれ話

これ、ちょっと御免なさいね。人によっては★怒ってしまうかもしれない話!!
ですが、どうやら、考えてみると、本当にそうかもしれないと思える話なので、あらかじめ
ご了承下さいませ。どっかの関係ない人が興味半分に作ったでっちあげなら、
聞く耳もたなかったのですが、ルーツ関連人のお話。

篭城がもっと永く続いても、食料は大丈夫だったらしい。困ったのは、なんと「排泄物による悪臭、
衛生面の限界」・・・の説伺いました。悪臭のうちは仕方ないけど、度を越えると命取。
最悪事態の場合の回避策が加味された設計なれば、もう少し篭城できたかもしれない・・・とのこと。
  • ▲かつて、話を伺った際、「会津の篭城は・・・、悪臭が限界で、腐敗やら排泄物やら・・・」尻切れトンボのよ
    うな話。今思うと、お話して下さった方は、どう考えても、経験者の孫ならずや、曾孫世代と思うのですが、
    それ以上詳しく話を続けてもらえなかったのは、恐らく、この井戸の件▼ではないだろうか・・ふとそう思った。
    想像を絶
    する程に悲壮だった会津の篭城と犠牲。関連はこちらの頁_山川捨松が語った・・・兄嫁トセの『介錯の依頼』
そもそも会津だからこそ、まさか己が「賊扱い」になろうとは誰一人として想像したことが
なかったわけで、城郭設計において「攻める、闘う」機能はあっても、
「籠もる、逃げる、隠れる」機能がゼロだったかもしれない。

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文章解説(c)by rankten_@piyo
イラスト写真については頁最下欄
幕末玄関幕軍&松前えとせとらSERIESの目次
vol.1(現在の頁)<Vol.2松前、国獲り興亡物語Vol.3<・・・

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