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幕軍&松前えとせとら8,箱館戦争

箱館戦争,幕軍、松前えとせとら,資料編,沈んだ開陽から発見された品々,榎本達の食生活,生活用品,永井玄蕃とガルトネル,徳川慶喜、二心殿の「江戸無事ご帰還時の秘話」,ジュール・ブリュネの描いた絵画,タイクーン慶喜の絵:神秘のJAPANとタイクーン

近藤勇の指名手配写真,近藤の斬首:土佐藩の谷干城説と、御稜衛士(高円寺党)説考察,近藤勇の肩の傷,英雄が惚れた「そのまた過去の英雄」と末路,近藤勇と関羽,榎本武揚とナポレオン,中島三郎助と三浦義明,

 
幕軍&松前えとせとら
サイトTOP幕末_WITH_LOVE玄関_<函館戦争の余波<幕軍&松前えとせとらの目次
幕軍&松前えとせとら :Vol.1<・・<Vol.8現在の頁<Vol.9・・・
榎本艦隊メンバーの食&生活品を覗き見
仙台、松島湾,釜石方面で積み込んだ品
榎本達の食生活をご紹介した訳、その本文はこちら、■降伏時押収された軍用品一覧他は、この下行

  1. 米・・・1000俵
  2. 沢庵・・1300樽
  3. 味噌・・200樽
  4. 塩・・・150俵
  5. パン・・100箱
  6. 卵・・・30,000個
  7. 大豆・・50俵
  8. 砂糖・・300貫目
  9. 醤油・・500樽
  10. 鱒・・?匹(山盛)
    千秋=回春丸と一緒に頂戴。

からす組の細谷十太夫が貢献
  1. 灯油・・・70樽
  2. 蝋燭・・30,000本
  3. 白木綿・・500反
  4. 炭・・・100,000俵
  5. 薪・・・50,000本

左側、卵の数凄い。
仙台方面にこんなに鶏居たか!!

当時総合栄養食、兼、精力の元
と実に重宝されていた。是非、頑張って
欲しい・・の祈りが伝わる。

コレ、まさか貴重だからといって、
食べずに残してたんじゃないでしょうね!


船も押収している。
  1. 鳳凰丸
    (造った人は中島三郎助
    だが、老朽扱いで仙台へ
  2. 千秋=回春丸
    幕府が仙台に貸与していた船。
    多説有るが、蝦夷残留の仙台人
    の引き揚げに向かったところ、
    誰も居なかったので、かわりに
    鱒を満載していた。千秋の多説
    ←その為、鱒を失敬。

それまで、兵を運んだり大活躍した
大江丸は老朽化のため、蝦夷迄来てるが
後でフランス人のファブルに売って換金。

榎本軍到来にて逃げた「箱館府_清水谷公考」の置き土産

あわてて逃げた清水谷。空の五稜郭、無血占領。この時、置き土産。
◆馬:榎本が一番いい馬頂き!「墨流し」と名付ける。
◆囚人:牢の中に清国のクーリー。土塁工事等に活躍してもらうことになる。
なぜ彼らがここに居たかは、この頁:「アメリカ船カヤルティ号遭難事件&41名の中国人苦人
◆牢の中に味方数人:新政府に楯突いて牢内に居た蝦夷在住の者。榎本軍に参加してもらう。
(八王子千人同心蝦夷在住隊の飯田氏他。彼についてはこの頁▼
えとせとらVo.3:徳川か新政府か?蝦夷のドタバタが解る頁」

◆24斤砲、◆米:3000俵、

開陽積荷リスト「勿体無い品々」

  1. 燻製ベーコン・・46樽
    ・・2300ポンド
  2. 燻製ソーセージ・・10樽
    ・・120〃
  3. 塩漬ソーセージ・・6樽
    ・・72〃
  4. ウィンナーソーセージ
    ・・6樽・・72〃
  5. 包装紙付きハム・・48包
    ・・390〃
  6. 無装ハム・・8包
    ・・67〃
  7. バター・・第一タイプ
    ・・44樽
  8. バター・・第ニタイプ
    ・・?樽
  9. エダムチーズ・・19箱
  10. ライデンチーズ・?箱
  11. 士官用パン・・5樽
  12. 一般用パン・・33樽


  1. ブリュッセルビール
    50本入×15個=150本
  2. 赤ボルドー_506本
  3. ホッペンワイマー
    (って何だ?ちょっと妙だ
    が、当時はこう呼んだか?
    なんか知らないけどビール
    50本入×15個=750本
  4. ルーデスハイマーベルク
    50本入×15個=750本
  5. シェリー_50本
  6. ポートワイン
    50本入×2個=100本
  7. 良質ポートワイン
    50本入×2個=100本
  8. シャンペン_30本
  9. コニャック_30本

  • 革靴×264組

兵器が勿体無いのはそれ以上。

  • ガトリング砲
    最新型、連続射撃可
山内六三郎が苦心して、早々に
甲鉄(=当時はまだ、ネーミング
されてないからストンウォール号)
から、運び出し、開陽に搭載して
おいたというのに・・・

ちなみにこのガトリングを
大枚払って2砲購入したのは、
落城の悲劇、長岡城の家臣
河井継之助だった。

宮古海戦で幕軍が蜂の巣、多くが
死亡した理由も、敵艦甲鉄から
撃たれたこの強烈砲のせいだった。

他に、
◆銃、砲弾
◆テレグラーフ(無線通信)
◆山内の他にも砲を積み込んでく
れた者が居た。赤松大三郎(=則
良)である。 彼の尽力で、ガトリ
ング以外の別タイプ(クルップ社
製)の砲が搭載された。
彼の榎本艦隊入隊は、榎本
が許さなかった。理由は、留学帰
りの者が全滅したら国が困るから
であり、また彼は若かった。
榎本は赤松迄犠牲になる可能性を
避けたかった。


沈んだ後の世発見される。但し、榎本達が使っていた船内家具
(会議テーブル椅子他)のような品物ではないので、添付リストが
あっただけで、食品などは朽ちて消滅している物も多いはず。
また、一部は無事降ろされた後とも考えられるが、酒類などは山盛り
見つかった。勿体無い。

しかしながら、一番勿体無くて泣けてくるのが、革靴。
これは、単価の問題じゃない。


  • 蝦夷の真冬、そこそこコマシな士官達は、土方歳三のようにブーツじゃないにせよ、一応靴を履いている。
    制服のある額兵隊等も一応靴。対して、卒達は、雪の中、草鞋も多い。
    失うぐらいなら、彼らに与えて欲しかった。
    冷たい、寒いより、滑って転んで余計なところで命を落としている。
    谷に転落した者。戦闘の時、滑って転んだ者。当然殺られる。
    ちなみに、この人(横田豊三郎)、怪僧、三上超順との対決の際、滑って転んだが故、大男の三上が
    馬乗りに。堀覚之助と黒澤正介が助けに入り、命は助かったが大怪我。横田の前に、伊那誠一郎も、
    同様にやられて大怪我。冬の蝦夷は靴を履いても、普通の靴なら滑ります。だというのに、
    草鞋じゃ可愛そうすぎる。


  • 一聯隊江差の冬_祈りとサーベル,説夢録

  • 開陽が江差で沈没!その後、失意の榎本は・・・
    ▼(コレ、お気軽系:カタくない系)
    箱館戦争_榎本武揚が涙で食った鰊漬


このバナーはお楽しみ系記事(カタイ歴史の話ではありません)

土方歳三のブーツ凝視,極似を探せ!

榎本軍降伏時押収された軍用品(兵器、弾薬等)一覧他


■官軍へ引き渡した担当者:【榎本対馬(会計奉行)、川村録四郎(会計係)】
■官軍側引き受け担当者:前田軍監
  • <武器類>
    ◆元込銃 107挺、◆ピストル48挺、◆二ツバンド、◆三ツバンド◆ミニエー銃:1600挺、
    ◆大砲:33門 、 ◆長加農(カノン)24斤砲:9門 、◆四斤施条砲:3門、■短忽微砲:2門、
    ◆亜ホート忽微砲:三3門、◆十三拇臼砲:16門 、
  • <兵糧&雑具>
    ■米 500俵余 ■外に:味噌、干魚、其他、書籍、蒲団、雑具類

榎本が開陽引取時、同時留学派遣メンバー15名

【1】_内田恒次郎(25歳):船具、運用砲術、【2】_榎本釜次郎(27歳):船具、機関学
【3】_澤太郎左衛門(28歳):船具、鉄砲火薬製造法、【4】_赤松大三郎(22歳):船具、造船学
【5】_田口俊平(45歳):船具、測量学、
【6】_津田真一郎(34歳):法律、国際法、財政学等、【7】_西周助(34歳):法律、国際法、財政学等
【8】_林研海(19歳):医学、【9】_伊東玄伯(31歳):医学、
【10】_古川庄八(28歳):御船付、水夫小頭、【11】_山下岩吉(28歳):御船付、一等水夫、
【12】_上田寅吉(40歳):船大工、【13】_大川喜太郎(31歳):鍛冶師、
【14】_中島兼吉(34歳):鋳物師、【15】_大野弥三郎(43歳):測量機械師、

箱館戦争、滅んだ幕軍。蝦夷の地に近代的農耕技術を企てた人々が居た。
2.jpg
北国の美景。

白銀の世界、防風林。
たちまち日が暮れる。
長く伸びた木々の陰が
青く雪面に映える。

ここに確かにあるのだが、
見えるだろうか?
小動物の小さな足跡。

しかし、
雪は魔物。
人を苛む。
永井玄蕃&榎本&中島、対ガルトネル調印

ガルトネル兄弟と、『七重開墾場契約』破棄



問題のガルトネル99年土地租借契約。しかし、この一件、汚点のみとはいいきれない。


去る二月十九日、中島三郎助は兼ねてからの難題、検討中だった一件の「ガルトネル土地租借契約」
に解決を下した。総裁の榎本はもちろん、永井玄蕃と並んで、花押しを為したのである。
これによって、九十九年間、蝦夷の七重近郊約300万坪はプロシアの租借地となる・・
(・・・ところだった。) MORE:中島三郎助と蝦夷桜内本文へ)

この蝦夷は一般的知識だけでは追いつかない。農業が原点とて、この気候、この地質。
稲作は古くから何回も試みつつ、その度に挫折している。米はもっぱら高価な内地移入品に頼る状態だ。

畑作とて失敗の連続。内地から持ち込んだ種も幼木も、皆枯れ果てる。野菜とて自給自足程度。
実に粗末なできそこないを皆が食しているだけだ。大豆はあるようでいて、まともでない。
低温。日照不足。その昔、松前は、しかたなしに、これを馬大豆と称して偽年貢のごとく徴収した。
馬まで哀れである。糠と、人が食うに食えない不味い大豆を食わされた。

蝦夷の畑の産物で、交易の足しになる物なんぞ、夢の夢だった。

第一、この北の地に最も適した農作物の種別が現状では、定かでない。
農耕手段も根本的に異なる。何もかも、皆知識不足なのだ。


農学といえど、この地のスケールは常識外である。

近代的機械の導入普及が先行なのだ。
伴って機械工学のスペシャリストの養育が必須項目となる。
民の雇用を促進、豊かにする。我々の士官からも担当者を派遣して、知識を集積させる。
農民も同じように、ただ単に労働に強いるでなく、農学を学ばせる。
七飯の地に、海外の農耕技術を!
  • 榎本武揚には留学経験から、他にも農耕部門に自信があった。オランダも高緯度の国。
    そこで酪農があり、バター、チーズなど生産される。蝦夷も可能と思った。ジャガイモ、
    麦も可能&交易材料に使える等。
  • 関連:榎本武揚の農耕に係る夢の欠片_榎本公園

以下、別件▼
近藤贔屓の目で、ヒトコマ
関羽の酒宴と、肩の傷_引き潮の時

1_墓穴_指名手配の写真

流山で結局捕縛に繋がった近藤勇。あれこれエピソードは多いが、
近藤の肩の傷を思うと胸が痛い。この人物は、既に己の「引き潮」の期を自覚していたのだろうと思う。

流山に追っ手が出没した訳は、いわば己が作ったも同然。墓穴。
五兵衛新田の宿泊先、金子健重郎邸に入った際、礼と共に、自分の写真を渡してきている。
いうなれば、指名手配の元を自分でばら撒いてきてしまったことになる。

墓穴ながら、全く笑えない。恐らく 己の死を予測しての上、
大久保大和とは、実のところ近藤勇であったこと、後に伝わる事を欲する心の表れではなかろうか。

2_近藤の肩にキズは致命傷。味方にさえ、軽傷を装う。
伊東甲子太郎殺害の油小路事件報復の慶応3年12月18日(1867)「近藤勇襲撃事件」の後、
近藤は軽傷を装っていた。敵を欺くには味方から、完璧に装っていた。
  • 怪我の後、近藤勇は土方に任せ、伏見(※)から大阪城へ移動。その際、船で移動するが、
    薩摩の密偵が、船頭に状況を確認している。船頭は、「近藤は極めて軽傷」と証言した。
    ※王政復古の後、慶応3年12/16から新撰組は伏見奉行所に移っていた。
  • 治療した医者は複数。会津藩からも、幕府側からも、複数の医者が派遣されたが、
    最終的には、松本良順が診た。その際、宙に浮いたままにふらふら状態の骨を発見。
    骨癒合不可能と判断して引き抜いた。その骨が猛烈に長かった話が松本家に残った。
    • 一体どこの骨なのでしょうね。まさか鎖骨!なわけはないだろうと思いますから、
      多分肋骨なのでしょうが・・・。敵が耳にすれば、まさに骨抜き状態。
  • 意見対立でついに永倉新八と袂を分つ件について、説は色々ありますが、なにも今まで耐えた
    ものを、今さらここで堪えられなくなってキレるような細い器とは、近藤である以上考え難い。
    THE_ENDを意識してなければ、本来の近藤なら、使い方如何で使える者なれば、
    手放さずに使う器のはず。近藤は目に映りやすい隊内の指揮能力以上に、離れて動く人の心を
    よく掴む。あらかじめ放った多くの諜者も、影の協力者、床屋親子など皆心離れしない。
  • (これは憶測ですが▼)
    晩年の永倉新八、近藤の法要やら墓建立やら。「知」に於いて己に劣ると侮り批判がキツかった
    彼ながら、自分が若い時には見えなかった何かを、老齢に達して知ったかもしれない。
    近藤は、傷の実態を、心的に距離のある永倉には見せなかったはずだ。傷は傷でも、骨抜きは
    恐らく知らなかったところ、晩年知ったかもしれない。

3_軽傷を装う酒宴_関羽と己の姿が重なる時

関羽とは、近藤の尊敬する人物。中国後漢末期に実在。近藤の幼少時、父に読み聞かせられた『三国志』
幼年時代の彼が、猛烈に感動した話は有名。
  • その中の一話。_毒矢を腕に受け、負傷している関羽:概略。
    関羽は、皆を安心させる為に何食わぬ顔をしている。ところが、痺れが発生。
    しまった、毒矢だ!と解った。たちまち浸透して、いよいよ危ない状態だと自覚。
    それが、丁度、皆が憩う酒宴の最中だった。

    ますます、何食わぬ顔をして、「すまんが、手遅れになってはまずいからのう。ワッハッハ!」
    いかにも冗談風に言いつつ、毒が回っている部分を早急に切除させた。
    痛みなど全く顔にこれっぽっちも出さず、引き続き酒宴を続け、笑顔で皆と飲み食いしていた。
一方、近藤自身のパターン
甲州鎮撫隊の進軍の際、やたらにモタモタ。途中で若い隊士達の為に派手な宴会。
殿様気分で浮かれていた阿呆なはずはないわけで、兵器や情報の補填をしながらの事は
想定できますが、その際、宴会の最中、皆に解らぬように旨く片手で飲み食いしては、
笑顔を見せている近藤の姿が目に浮かぶ。

純な人物だからこそ、杯を手にしつつ、ふと一瞬、
己の姿に、関羽を折り重ねていた瞬間があったのではあるまいか。



皮肉なことに、関羽の終焉は、敵に退路を完全に遮断されて、無念斬首となりました。
・・・そして、近藤勇も。
  • 無念の最期、近藤だが、せめてもの救いは、斬首決行掛が、横倉喜惣次(備中岡田藩:剣術指南役)。
    横倉は、同時に相楽総三の処刑人でもある。腕は一流。剣の達人としては、下手くそに斬首
    されるではたまらない。一刀のもとに最期。(これ本当に上手で不幸中の幸い。下手くそに
    斬首されると、呻き苦しむ無様を曝したと、死んでからも笑いものにされる。武士のプライドが爆裂。
    冥土で彷徨う。時代はもう少し後ながら、実際下手くその犠牲になった人物はこの人。田崎秀親 (秋田県士族


  • 横倉喜惣次(備中岡田藩:剣術指南役:神道無念流)補足
    ◆備中岡田藩の者がなぜ、こんな場所に丁度良く居たか?:岡田藩には飛地有。彼は美濃国揖斐郡在籍。
    ◆家禄:70石。 名:以忠。諱:政忠。 号:半来&當無。◆墓:揖斐郡揖斐川町大興寺
    ◆文政7年(1824)~明治27(1894)、享年70歳、◆近藤&相楽処刑時(1868)は、44歳。
    ◆半来の由来と本人のユニークな性格象徴:私は半人前と惚けるユーモア。
    ・縁談の際、なかなか嫁がOKせず、半分しか来ないも同然状態の自分を自嘲。物事に頓着せず。善人。
    ◆いやな仕事をやらされるハメになったが、そこは淡々と。但し、人柄の良さは近藤も解した描写有り。


■ところで、鳥羽伏見の後、近藤勇は、六連発元込銃を、京都時代守護職の仕事で縁のあった会津藩士、
井深恒五郎に譲り与えています。この銃の行方がなかなかミステリー


近藤勇処刑に絡む黒幕検討

■_近藤勇の斬首を独断決行したのは、谷干城だとする説について考察
  • 本当に谷干城かどうかは、少し慎重を要する。薩摩も、かなりグレーだ。薩摩の配下、
    御稜衛士の生き残りが、新撰組への怨念に燃えて、飼い犬状態で奔走している。
  • 誰もがそうだと思わざるをえない文章を残したのは、確かに谷。
    谷の記としては『東征私記』が有名。しかし、この一件に関する記は、少々呆れる。
    「古狸が捕まった!・・・(全文はリンク先)」と実にハイテンション。余程、近藤処刑が嬉しかった様子丸解り。
    しかし、心理的に我が身に置き換えて検討(▲上のテキストリンク先へどうぞ)

  • 近藤勇処刑決行&否対立について:香川敬三と有馬藤太が対立口論有り。
    【反対派】:薩摩:有馬藤太。伊地知正治、 (但し、薩摩内にも分派、反対意見派閥有り)
    【決行派】:土佐:谷干城 。 香川敬三(元水戸藩士ながら急進派、土佐の中岡慎太郎の下、
    陸援隊の副隊長格。中岡死亡後は、 鷲尾隆聚の率いる鷲尾隊の副隊長格となるが、それまでの
    経緯上、上記のとおり、土佐と親密。断行決定権者黒幕TOPは誰なのやら。
    • 有馬藤太は真っ先に近藤捕縛の功績者ながら、断固処刑に猛反対。近藤を庇い救命主張。
    • その一方、鷲尾にへばりついてる香川もなかなかグレー。新撰組内の水戸派粛清は甚だしかった。
    • なんといっても、大久保大和と名をシラ切る近藤勇を、当に近藤勇と断定証人となったは、
      薩摩の飼い犬状態にある加納道之助(加納鷲雄)と、武川直枝(清原清)。どちらも御稜衛士の生き残り。

  • 平田宗高【薩摩】の記『平田宗高従軍日記』から拾える名前と藩:
    ◆東山道総督府小監、◆各藩代表(薩、因、土、彦)四藩
    • 【薩摩】:平田宗高(追従的存在ながら、)、
      【土佐】:(立会人:谷干城と安岡亮太郎)、【因&彦】:?
    • 余と安岡亮太郎行く・・主体は東山道総督府小監。・・応接所長と四藩揃い、
      ・・余も近藤勇を糾す・・。


新撰組,芹沢鴨編,彼の偶像と裏事情

近藤に係るなかなかいい本、この中にあります。

新撰組,黒船以降、幕末維新の人、

英雄が惚れた「そのまた、過去の英雄」の末路
■近藤勇編、■中島三郎助編、■榎本武揚編

英雄が惚れた「そのまた、過去の英雄」。
不思議なことに、皆、それぞれの「心の主」に本人の終焉が類似している。
  • 近藤勇:「三国志」の関羽。:両者共、斬首
  • 中島三郎助:三浦義明(=衣笠城主:源頼朝に殉じて、孤軍奮闘して戦死した人物)
    :中島も箱館戦争終焉、徳川の殿(しんがり)=孤軍奮闘烈死
  • 榎本武揚:ナポレオン:榎本自身、留学中に立ち寄ったセントヘレナ島では、この島に幽閉された
    ナポレオンに思いを馳せて、思わず漢詩を詠んだほど、英雄ナポレオンを尊敬している。
    • 五稜郭引渡しの前、榎本が皆の前語ったスピーチは、セントヘレナ島流刑直前に、兵に別れ
      を告げるナポレオンの姿が、きっと、脳裏に浮かんでいたことだろう。
      言ってる内容、大意は同じだ。
      どうか、諸君、世の身を案じてくれるな。世が欲するものは、自由と平和のみなのだから。
      諸君の勇気と忠誠は永久に忘れはしない。諸君は皆、堂々と栄光への道のりを歩んでくれ。
      青天白日のもと、皆の再会の期を希す。
      (▲上記は大意であって、実際榎本が、こんなキザなセリフを吐いたわけではありません。


徳川慶喜、二心殿の・・江戸無事ご帰還時の秘話


慶応4年1月3日勃発の、鳥羽伏見。家臣達が命がけで闘っている最中、江戸に逃走。
このあたりから、ますます後の世まで、何かと評判の悪いラスト徳川将軍。

しかしながら、彼とて、ここに至る前の段階では、不眠に悩まされ、終いに、蘭医である松本良順を
呼び寄せている。極度の緊張&興奮状態に至ると、人は寝ようとするのに連続2日も3日も不眠になる
ことがある。慶喜もそうだった。

松本良順は、このとおり、家茂にはすっかり気に入られていたが、慶喜の代では、松本先生、
ちょっと微妙なラインに移行されていたものの、蘭医の巨峰である以上、呼び出しを食らった。
先生大胆な手段に出た。

漢方の睡眠促進剤だか、なんだか色々既に他の医者に飲まされているが効果ゼロ。
松本先生、なんと「阿片」を飲ました。コレしくじって万が一慶喜が死んだら
普通医者は、他の完全武士と違って大抵の場合、切腹や死刑だけは免れるはずなのだが、
こんな大胆なこと、他の医者なら、まずやらない。

松本良順、大胆な男とは知りつつ、やはり凄い。かなりの量、阿片を服用させた。
この時代、ほんの少しなれば、痛み止めなどの目的で、阿片を使う医者は珍しくないが、
コロッ!と寝れるだけの量、平気で恐れることなく飲ませたらしい。

効果抜群。寝るわ。寝るわ。寝るわ!もうだめか?と皆が蒼ざめる程、丸一日爆睡。
おかげで元気になったはいいが、結果は、後の鳥羽伏見放置逃走へ繋がってしまった。


一方、江戸に到着すると・・・これは、阿片の副作用かもしれない。
恐っそろしい食欲。食うわ、食うわ、食うわ!の兆候発揮。

◆その一、鰻。◆その二はマグロのフルコースのご要望だった。

到着するなり、上記ご要望。被害者は、榊原健吉

●江戸湾に帰還した将軍を向かえに行ったところ、「どうも体の脂が抜けた。霊岸島の鰻頼む。」
ここまではよかった。流石は殿、たのもしい!ってところだ。しかし、この後、榊原は
変な仕事をやらされる。「マグロ食いたい!料理方法は、刺身の他、味噌煮込み、
アラ炊き汁。」具体的に指示された。なんでこんな事の手配を俺が・・・!!

●榊原健吉:直心影流(男谷精一郎の弟子=勝海舟の姪の夫)剣術指導をやってるところ、14代家茂
に抜擢されて将軍のお側役になった後、成り行き上、15代慶喜の側にも居る・・・そこ
までは良いが、このとおり、またしてもしんどい目にあわされている。

慶喜のこの「とんでもない食欲」の犯人は、上記のとおり、松本良順先生の投薬、無関係ではなさそうだ。
つまり、「阿片」の副作用ではあるまいか。
鰻と鮪は、このドタバタの矢先、江戸に帰った途端、慶喜の食うこと、食うこと!!現象を物語る。

しかも、鮪は別名、シビと言われて、普通、死日、負けて死を背負うを意味するとされていた。
(ちなみに、箱館戦争終焉時、榎本武揚達の降伏に際して、酒5樽は有名ながら、もれなく一緒に
鮪5尾が官軍から贈られた。観念せよ。鮪じゃ・・・状態。酒は額兵隊長の星恂太郎を皮切りに
皆が飲んだが、鮪はどうしたのだろう?)

縁起だの、迷信だの、一切気にしないあたりは、慶喜、やはり大物か。自ら、好んで鮪。

しかし、実際、注文したはいいが、本当に予定通り、平らげたかどうかは不明。
小栗上野介忠順が徹底抗戦を唱え、罷免されたのは有名な話だが、他にも密かに抗議切腹を為した者は
複数居る。それでも、平気で、食うわ、食うわ!を実現したのであれば、超大物だが、それは不明。
注文した話はあっても、平らげた話まで存じません。

徳川慶喜,気になる謎を読む心殿の写真集

ブリュネの描いた絵に感服!
青い目の衝撃_神秘のJAPAN_ミカドとタイクーン
ジュール・ブリュネ(1838~1911)。フランス軍事顧問団として来日。榎本武揚らと共に
最終、箱館戦争迄幕軍支援。明治2年5月1日(1869)箱館戦争終焉真近に撤退。
薩摩邸焼き討ち事件概要


ブリュネの絵は実に素晴らしい。この時代、西洋の学識豊かな人物の多くは、皆絵が上手い。
敵ながらあっぱれ!と言ってる場合でないが、デュースの絵も素晴らしい。
また、気の毒に、クレイジーな攘夷思想の狂剣に掛かって惜しくも落命した下田のヒュースケン
の作品は、温もりがあって、さらにとても素敵。この人物は日本人好きだった。

一味違うのがブリュネである。
風景画などは、誠、見事の一言。この時代、彼ら軍人が描く風景画が上手なのは、
美的要素もあるが、写真の代用効果が要求されていた。写真は高価の上、大掛かり&大道具。
最低でも専任二人必要。その為、いつでもカメラマンを連れ回す事は困難。軍人として、写真同様に
精密に残す必要性が高かった事から、我々素人が見ると、感動する程上手な絵が多いとも言える。
仮にピカソのような才能の持ち主が居たとしても、職業柄、そういう絵は描かない。完全に具象画。

また、彼らの多くは特殊な測量知識を持っている為、精密な立体感のある地図を描くこともできる。
それ故、ますます上手!な具象画になるわけだった。

★そんな中、ブリュネの絵は、
完璧な具象画でありながら、なんと言ったらいいのだろう。
構図の中に、JAPANの魂みたいなものを漂わす不思議なムードを加えている。

■タイクーン慶喜の絵・・・神秘のJAPANとタイクーン。
  • 慶喜が居る。正面を向いた慶喜の横に、横顔もある。
    そして、後方には、ぼんやり霞がかかったような不思議な領域が有り、そこには、一目で
    幕府の高官達と解る立派な装束を着込んだ男達がいる。見るからに高い地位にある人物の
    集団であることがまず解る。

    ところがその「見るからに偉そうな人物達」が、皆、ことごとく、あの「土下座」同様の格好を
    している。霞かかった空間に在する人物が、いかに高尚な存在であるかを抽象的な技巧で
    抽出している。

    外人の目から見ると、「土下座」とは、いかに奇異な動作だったのが別件資料で解る。
    かの小国に住む小人のように小さい人種の中、大名と名乗る者と幕府の高官達は特に、
    傲慢で、雨天の際にも、人民を地べたに座らせるだけでなく、平伏す迄強要する。
    実に傲慢以外の何ものでもない。

    その「傲慢そのもの!」と伝わる連中さえ、タイクーンには平伏している。
    その様子を、語らずして、いかに、このタイクーンが偉い人か、一枚の絵に
    巧妙に描き出されているのだから、絶句する。

    神秘のJAPANとタイクーン。文章で語るより明確だ。
    • そのタイクーンでさえ、ミカドには弓引けぬという。
      ミカドとタイクーンとは、ブリュネにとって、その衝撃たるや、如何程だったことだろう。

■薩摩邸焼き討ち計画イメージ見取り図=スケッチ(薩摩邸焼き討ち事件概要)
◇「絶対に勝てる!の構図」・・人を行動に踏み切らせるツボを心得た絵

江戸に逃げ帰ってきた慶喜に噛み付いたのは、罷免された小栗忠順だけではなかった。
ブリュネも大検幕。薩摩邸焼き討ちを自ら上申。箱根の山に官軍を詰め込んで、一気に爆破する
との計画も語ったそうだ。ダイナマイトはまだなかったから、地雷か?

この絵は、他の作品に比べると、線も荒く雑に見えるのだが、他の意味で感動してしまう。
恐らく、カッ!カッ!と興奮しながら熱弁を奮いつつ、バサパサと描き足しながら、
言い聞かせたのではなかろうか。

悪く言えば、いつになく雑ですが、凄さとは、「欲求創出型」の絵といえる点。
現代で言うなれば、ポスターやチラシ。募集に思わず応募したくなる効果や、思わず購入したくなる。
それと同様に、「うむ!これならできるかもしれない!よし、実行しよう!」・・・と決断に至らしめる
効果が、よくよく見ると、一枚の絵の中に、一杯ある。勇気付けて、促進して、押さずして、
これなら、きっと勝てる・・・と相手が自動的に思って決心に至る。

慶喜という人物をよく掴んでいる。すっかり恭順ムードの慶喜にも見えるが、腰が重い理由、
つまるところは、成功率。勇気つけても、心身共にすっかり弱っていたら無理だが、まだいける。
(その実、このドタバタの矢先、江戸に帰った途端、慶喜の凄まじい食欲秘話

この絵の素晴らしさは、絶対に勝てる!の構図
・絶対に勝てる!と踏めば、ゴーサインが出る。絶対に勝てる!の構図を彼の脳に焼き付けるしかない!


作戦図と聞けば、先入観として、多分、◇現場の見取り図と、◇進行方向を表す矢印マークと、
◇衝突が予測されるポジションにある×印、 ではないか?とふと、思ってしまうのが普通だが、
彼の描いた図は、図じゃなくて絵。人物の他、馬も樹木、建物、道路もある。
単に存在するのでなく、描き出された人物の姿などは、ものの見事。

どこからともなく、彼の熱弁が、聞こえてきそうな錯覚に陥る。

「これだけ、人が言っても解ってくれないのか!されば、この絵を見ろ!」
「まずだな・・・薩摩は恐らく、・・・どうのこうの。そこで我々は、隙かさずここで・・・」


などと言いながら、バサバサッと凄いスピードで描いたのではあるまいか。
アバウト解ればいいモノと力説したいモノの描き方が違う。アバウトの部分については、
「まる書いてチョン」状態。マンガ状態に近い。対して、ここ一番のモノの描き方は全然違う。

まさに、人を動かす原動力を生み出す絵・・・
猜疑心の塊状態で対応し始めた人物は、おそらく、この絵が完成した頃には、
完全にイマジネーションができあがってることでしょう。「勝つ!絶対に勝てる!」

これから始めようとする作戦。まず、ざっくりと背景から描き、説明が完了する時点では、

すっかり軍配を得た幕軍の人物。馬にまたがり、兵達が勝っている様を
馬上から堂々と見ている大将らしき人物。


これは結構線の数が多く、具体的に描かれている。


戦っている最中の兵もあるが、戦っているというより、完全に勝っており、
やっつけてる最中といったイメージ。


その上、つくづく感服させられたのは、アクセントとして、しっかり光っている中央にある
薩摩兵の屍。
絵のど真ん中、バタンと地べたにひっくり返っている薩摩兵の姿。
大の字状態。バッタン&キュー!木っ端微塵で、完全にまいって、でんぐり返って死んでいる。
これは、恐らく一番最後の段階でピリオドに描いたのだろうと思う。
・・・(西洋に漫画が発生したのはいつか知らないが、象徴を大袈裟に誇示する技巧は、漫画の
発祥のような・・・ますますブリュネは不思議な人。)

いずれにせよ、この絵は、確実な勝利の象徴だ。
・・・解説を受けた人物が、思わず、ニタリとした瞬間。その姿が目に浮かぶ。

力説の甲斐あって、すっかりその気になった慶喜。

ところで、薩摩江戸藩邸焼き討ちって何?について
  • ■幕府の権威失落を狙う意味不明の暴動が全国多発。民衆が、この治安の乱れでは、幕府はもうダメだ
    と痛感するように。実は仕掛け人が薩摩。薩摩が放った特別暴動部隊。赤報隊。彼らは、覆面暴動犯で
    あると当時に、その反面で「新政府なれば、年貢は半額!民は救われるぞ!」と新政府イメージアップ
    キャンペーン代行軍もやっている。幕府は、これらの暴動魔の出所が、どうやら薩摩と見破る。そのお手柄
    は庄内藩。不逞の輩を手渡せ、ここに駆け込んだのはもう免れない事実として見破っている。と押し掛ける
    も、薩摩の抵抗が激しく、乱闘となる。そこで、俗に、薩摩江戸藩邸焼き討ちも鳥羽伏見の導火線も庄内藩
    という表現がよく使われる。【ここにも関連:相良総三達の赤報隊(相楽総三1,相楽総三2)】


ブリュネさん、もし現代に生きる人なら、ポスター、広告業界で、充分活躍できる。
「是非、そうしたい!是非買いたい!欲しい!・・・」人が即時に行動に出やすいツボ
ついています。
この人物は、他にも、数多くの作品を残しました。

彼の教え子、田島金太郎の肖像もあります。成長期の少年だった田島は、初めてブリュネが会った頃、
こんなに小さくて可愛いおチビだったのが解ります。
(関連本文はこちら:青い目が「泣けた桜」と「泣かした桜」:ブリュネ中島三郎助



ブリュネと中島三郎助

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文章解説(c)by rankten_@piyo、


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