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サイトTOP<幕末_WITH_LOVE玄関_<函館戦争の余波<幕軍&松前えとせとらの目次
幕軍&松前えとせとら :Vol.1<・・<Vol.8現在の頁<Vol.9・・・ |
榎本艦隊メンバーの食&生活品を覗き見 |
仙台、松島湾,釜石方面で積み込んだ品 |
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■榎本達の食生活をご紹介した訳、その本文はこちら、■降伏時押収された軍用品一覧他は、この下行 |
- 米・・・1000俵
- 沢庵・・1300樽
- 味噌・・200樽
- 塩・・・150俵
- パン・・100箱
- 卵・・・30,000個
- 大豆・・50俵
- 砂糖・・300貫目
- 醤油・・500樽
- 鱒・・?匹(山盛)
千秋=回春丸と一緒に頂戴。
| からす組の細谷十太夫が貢献
- 灯油・・・70樽
- 蝋燭・・30,000本
- 白木綿・・500反
- 炭・・・100,000俵
- 薪・・・50,000本
左側、卵の数凄い。 仙台方面にこんなに鶏居たか!!
当時総合栄養食、兼、精力の元 と実に重宝されていた。是非、頑張って 欲しい・・の祈りが伝わる。
コレ、まさか貴重だからといって、 食べずに残してたんじゃないでしょうね!
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船も押収している。
- 鳳凰丸
(造った人は中島三郎助
だが、老朽扱いで仙台へ - 千秋=回春丸
幕府が仙台に貸与していた船。
多説有るが、蝦夷残留の仙台人 の引き揚げに向かったところ、
誰も居なかったので、かわりに
鱒を満載していた。 千秋の多説 ←その為、鱒を失敬。
それまで、兵を運んだり大活躍した
大江丸は老朽化のため、蝦夷迄来てるが
後でフランス人のファブルに売って換金。
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榎本軍到来にて逃げた「箱館府_清水谷公考」の置き土産 |
あわてて逃げた清水谷。空の五稜郭、無血占領。この時、置き土産。
◆馬:榎本が一番いい馬頂き!「墨流し」と名付ける。
◆囚人:牢の中に清国のクーリー。土塁工事等に活躍してもらうことになる。
なぜ彼らがここに居たかは、この頁:「アメリカ船カヤルティ号遭難事件&41名の中国人苦人」
◆牢の中に味方数人:新政府に楯突いて牢内に居た蝦夷在住の者。榎本軍に参加してもらう。
(八王子千人同心蝦夷在住隊の飯田氏他。彼についてはこの頁▼
「えとせとらVo.3:徳川か新政府か?蝦夷のドタバタが解る頁」
◆24斤砲、◆米:3000俵、
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開陽積荷リスト「勿体無い品々」 |
- 燻製ベーコン・・46樽
・・2300ポンド - 燻製ソーセージ・・10樽
・・120〃 - 塩漬ソーセージ・・6樽
・・72〃 - ウィンナーソーセージ
・・6樽・・72〃 - 包装紙付きハム・・48包
・・390〃 - 無装ハム・・8包
・・67〃 - バター・・第一タイプ
・・44樽 - バター・・第ニタイプ
・・?樽 - エダムチーズ・・19箱
- ライデンチーズ・?箱
- 士官用パン・・5樽
- 一般用パン・・33樽
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- ブリュッセルビール
50本入×15個=150本 - 赤ボルドー_506本
- ホッペンワイマー
(って何だ?ちょっと妙だ が、当時はこう呼んだか? なんか知らないけどビール 50本入×15個=750本 - ルーデスハイマーベルク
50本入×15個=750本 - シェリー_50本
- ポートワイン
50本入×2個=100本
- 良質ポートワイン
50本入×2個=100本 - シャンペン_30本
- コニャック_30本
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兵器が勿体無いのはそれ以上。
山内六三郎が苦心して、早々に 甲鉄(=当時はまだ、ネーミング されてないからストンウォール号) から、運び出し、開陽に搭載して おいたというのに・・・
ちなみにこのガトリングを 大枚払って2砲購入したのは、 落城の悲劇、長岡城の家臣 河井継之助だった。
宮古海戦で幕軍が蜂の巣、多くが
死亡した理由も、敵艦甲鉄から 撃たれたこの強烈砲のせいだった。
他に、 ◆銃、砲弾 ◆テレグラーフ(無線通信) ◆山内の他にも砲を積み込んでく れた者が居た。赤松大三郎(=則 良)である。 彼の尽力で、ガトリ
ング以外の別タイプ(クルップ社
製)の砲が搭載された。
彼の榎本艦隊入隊は、榎本 が許さなかった。理由は、留学帰 りの者が全滅したら国が困るから であり、また彼は若かった。 榎本は赤松迄犠牲になる可能性を 避けたかった。
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沈んだ後の世発見される。但し、榎本達が使っていた船内家具 (会議テーブル椅子他)のような品物ではないので、添付リストが あっただけで、食品などは朽ちて消滅している物も多いはず。 また、一部は無事降ろされた後とも考えられるが、酒類などは山盛り
見つかった。勿体無い。
しかしながら、一番勿体無くて泣けてくるのが、革靴。 これは、単価の問題じゃない。
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蝦夷の真冬、そこそこコマシな士官達は、土方歳三のようにブーツじゃないにせよ、一応靴を履いている。
制服のある額兵隊等も一応靴。対して、卒達は、雪の中、草鞋も多い。
失うぐらいなら、彼らに与えて欲しかった。
冷たい、寒いより、滑って転んで余計なところで命を落としている。
谷に転落した者。戦闘の時、滑って転んだ者。当然殺られる。
ちなみに、この人(横田豊三郎)、怪僧、三上超順との対決の際、滑って転んだが故、大男の三上が
馬乗りに。堀覚之助と黒澤正介が助けに入り、命は助かったが大怪我。横田の前に、伊那誠一郎も、
同様にやられて大怪我。冬の蝦夷は靴を履いても、普通の靴なら滑ります。だというのに、
草鞋じゃ可愛そうすぎる。
- 開陽が江差で沈没!その後、失意の榎本は・・・
▼(コレ、お気軽系:カタくない系)
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このバナーはお楽しみ系記事(カタイ歴史の話ではありません) ▼
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榎本軍降伏時押収された軍用品(兵器、弾薬等)一覧他 |
■官軍へ引き渡した担当者:【榎本対馬(会計奉行)、川村録四郎(会計係)】 ■官軍側引き受け担当者:前田軍監
- <武器類>
◆元込銃 107挺、◆ピストル48挺、◆二ツバンド、◆三ツバンド◆ミニエー銃:1600挺、
◆大砲:33門 、 ◆長加農(カノン)24斤砲:9門 、◆四斤施条砲:3門、■短忽微砲:2門、 ◆亜ホート忽微砲:三3門、◆十三拇臼砲:16門 、 - <兵糧&雑具>
■米 500俵余 ■外に:味噌、干魚、其他、書籍、蒲団、雑具類
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榎本が開陽引取時、同時留学派遣メンバー15名 |
【1】_内田恒次郎(25歳):船具、運用砲術、【2】_榎本釜次郎(27歳):船具、機関学
【3】_澤太郎左衛門(28歳):船具、鉄砲火薬製造法、【4】_赤松大三郎(22歳):船具、造船学
【5】_田口俊平(45歳):船具、測量学、
【6】_津田真一郎(34歳):法律、国際法、財政学等、【7】_西周助(34歳):法律、国際法、財政学等
【8】_林研海(19歳):医学、【9】_伊東玄伯(31歳):医学、
【10】_古川庄八(28歳):御船付、水夫小頭、【11】_山下岩吉(28歳):御船付、一等水夫、
【12】_上田寅吉(40歳):船大工、【13】_大川喜太郎(31歳):鍛冶師、
【14】_中島兼吉(34歳):鋳物師、【15】_大野弥三郎(43歳):測量機械師、
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箱館戦争、滅んだ幕軍。蝦夷の地に近代的農耕技術を企てた人々が居た。 |
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北国の美景。
白銀の世界、防風林。 たちまち日が暮れる。 長く伸びた木々の陰が 青く雪面に映える。
ここに確かにあるのだが、 見えるだろうか? 小動物の小さな足跡。
しかし、 雪は魔物。 人を苛む。
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永井玄蕃&榎本&中島、対ガルトネル調印 |
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問題のガルトネル99年土地租借契約。しかし、この一件、汚点のみとはいいきれない。
去る二月十九日、中島三郎助は兼ねてからの難題、検討中だった一件の「ガルトネル土地租借契約」 に解決を下した。総裁の榎本はもちろん、永井玄蕃と並んで、花押しを為したのである。
これによって、九十九年間、蝦夷の七重近郊約300万坪はプロシアの租借地となる・・
(・・・ところだった。) MORE:中島三郎助と蝦夷桜内本文へ)
この蝦夷は一般的知識だけでは追いつかない。農業が原点とて、この気候、この地質。 稲作は古くから何回も試みつつ、その度に挫折している。米はもっぱら高価な内地移入品に頼る状態だ。
畑作とて失敗の連続。内地から持ち込んだ種も幼木も、皆枯れ果てる。野菜とて自給自足程度。 実に粗末なできそこないを皆が食しているだけだ。大豆はあるようでいて、まともでない。
低温。日照不足。その昔、松前は、しかたなしに、これを馬大豆と称して偽年貢のごとく徴収した。 馬まで哀れである。糠と、人が食うに食えない不味い大豆を食わされた。
蝦夷の畑の産物で、交易の足しになる物なんぞ、夢の夢だった。
第一、この北の地に最も適した農作物の種別が現状では、定かでない。 農耕手段も根本的に異なる。何もかも、皆知識不足なのだ。
農学といえど、この地のスケールは常識外である。
近代的機械の導入普及が先行なのだ。
伴って機械工学のスペシャリストの養育が必須項目となる。 民の雇用を促進、豊かにする。我々の士官からも担当者を派遣して、知識を集積させる。
農民も同じように、ただ単に労働に強いるでなく、農学を学ばせる。
七飯の地に、海外の農耕技術を!
- 榎本武揚には留学経験から、他にも農耕部門に自信があった。オランダも高緯度の国。
そこで酪農があり、バター、チーズなど生産される。蝦夷も可能と思った。ジャガイモ、
麦も可能&交易材料に使える等。
- 関連:榎本武揚の農耕に係る夢の欠片_榎本公園
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以下、別件▼ |
近藤贔屓の目で、ヒトコマ |
関羽の酒宴と、肩の傷_引き潮の時 |
1_墓穴_指名手配の写真
流山で結局捕縛に繋がった近藤勇。あれこれエピソードは多いが、 近藤の肩の傷を思うと胸が痛い。この人物は、既に己の「引き潮」の期を自覚していたのだろうと思う。
流山に追っ手が出没した訳は、いわば己が作ったも同然。墓穴。
五兵衛新田の宿泊先、金子健重郎邸に入った際、礼と共に、自分の写真を渡してきている。 いうなれば、指名手配の元を自分でばら撒いてきてしまったことになる。
墓穴ながら、全く笑えない。恐らく 己の死を予測しての上、 大久保大和とは、実のところ近藤勇であったこと、後に伝わる事を欲する心の表れではなかろうか。
2_近藤の肩にキズは致命傷。味方にさえ、軽傷を装う。 伊東甲子太郎殺害の油小路事件報復の慶応3年12月18日(1867)「近藤勇襲撃事件」の後、
近藤は軽傷を装っていた。敵を欺くには味方から、完璧に装っていた。
- 怪我の後、近藤勇は土方に任せ、伏見(※)から大阪城へ移動。その際、船で移動するが、
薩摩の密偵が、船頭に状況を確認している。船頭は、「近藤は極めて軽傷」と証言した。 ※王政復古の後、慶応3年12/16から新撰組は伏見奉行所に移っていた。
- 治療した医者は複数。会津藩からも、幕府側からも、複数の医者が派遣されたが、
最終的には、松本良順が診た。その際、宙に浮いたままにふらふら状態の骨を発見。 骨癒合不可能と判断して引き抜いた。その骨が猛烈に長かった話が松本家に残った。
- 一体どこの骨なのでしょうね。まさか鎖骨!なわけはないだろうと思いますから、
多分肋骨なのでしょうが・・・。敵が耳にすれば、まさに骨抜き状態。 - 意見対立でついに永倉新八と袂を分つ件について、説は色々ありますが、なにも今まで耐えた
ものを、今さらここで堪えられなくなってキレるような細い器とは、近藤である以上考え難い。 THE_ENDを意識してなければ、本来の近藤なら、使い方如何で使える者なれば、
手放さずに使う器のはず。近藤は目に映りやすい隊内の指揮能力以上に、離れて動く人の心を よく掴む。あらかじめ放った多くの諜者も、影の協力者、床屋親子など皆心離れしない。 - (これは憶測ですが▼)
晩年の永倉新八、近藤の法要やら墓建立やら。「知」に於いて己に劣ると侮り批判がキツかった 彼ながら、自分が若い時には見えなかった何かを、老齢に達して知ったかもしれない。
近藤は、傷の実態を、心的に距離のある永倉には見せなかったはずだ。傷は傷でも、骨抜きは 恐らく知らなかったところ、晩年知ったかもしれない。
3_軽傷を装う酒宴_関羽と己の姿が重なる時
関羽とは、近藤の尊敬する人物。中国後漢末期に実在。近藤の幼少時、父に読み聞かせられた『三国志』 幼年時代の彼が、猛烈に感動した話は有名。
- その中の一話。_毒矢を腕に受け、負傷している関羽:概略。
関羽は、皆を安心させる為に何食わぬ顔をしている。ところが、痺れが発生。 しまった、毒矢だ!と解った。たちまち浸透して、いよいよ危ない状態だと自覚。 それが、丁度、皆が憩う酒宴の最中だった。
ますます、何食わぬ顔をして、「すまんが、手遅れになってはまずいからのう。ワッハッハ!」 いかにも冗談風に言いつつ、毒が回っている部分を早急に切除させた。 痛みなど全く顔にこれっぽっちも出さず、引き続き酒宴を続け、笑顔で皆と飲み食いしていた。
一方、近藤自身のパターン 甲州鎮撫隊の進軍の際、やたらにモタモタ。途中で若い隊士達の為に派手な宴会。 殿様気分で浮かれていた阿呆なはずはないわけで、兵器や情報の補填をしながらの事は 想定できますが、その際、宴会の最中、皆に解らぬように旨く片手で飲み食いしては、
笑顔を見せている近藤の姿が目に浮かぶ。
純な人物だからこそ、杯を手にしつつ、ふと一瞬、 己の姿に、関羽を折り重ねていた瞬間があったのではあるまいか。
皮肉なことに、関羽の終焉は、敵に退路を完全に遮断されて、無念斬首となりました。 ・・・そして、近藤勇も。
- 無念の最期、近藤だが、せめてもの救いは、斬首決行掛が、横倉喜惣次(備中岡田藩:剣術指南役)。
横倉は、同時に相楽総三の処刑人でもある。腕は一流。剣の達人としては、下手くそに斬首
されるではたまらない。一刀のもとに最期。(これ本当に上手で不幸中の幸い。下手くそに 斬首されると、呻き苦しむ無様を曝したと、死んでからも笑いものにされる。武士のプライドが爆裂。 冥土で彷徨う。時代はもう少し後ながら、実際下手くその犠牲になった人物はこの人。田崎秀親 (秋田県士族
- 横倉喜惣次(備中岡田藩:剣術指南役:神道無念流)補足
◆備中岡田藩の者がなぜ、こんな場所に丁度良く居たか?:岡田藩には飛地有。彼は美濃国揖斐郡在籍。 ◆家禄:70石。 名:以忠。諱:政忠。 号:半来&當無。◆墓:揖斐郡揖斐川町大興寺 ◆文政7年(1824)~明治27(1894)、享年70歳、◆近藤&相楽処刑時(1868)は、44歳。 ◆半来の由来と本人のユニークな性格象徴:私は半人前と惚けるユーモア。
・縁談の際、なかなか嫁がOKせず、半分しか来ないも同然状態の自分を自嘲。物事に頓着せず。善人。 ◆いやな仕事をやらされるハメになったが、そこは淡々と。但し、人柄の良さは近藤も解した描写有り。
■ところで、鳥羽伏見の後、近藤勇は、六連発元込銃を、京都時代守護職の仕事で縁のあった会津藩士、 井深恒五郎に譲り与えています。この銃の行方がなかなかミステリー。
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、近藤勇処刑に絡む黒幕検討
、■_近藤勇の斬首を独断決行したのは、谷干城だとする説について考察
- 本当に谷干城かどうかは、少し慎重を要する。薩摩も、かなりグレーだ。薩摩の配下、
御稜衛士の生き残りが、新撰組への怨念に燃えて、飼い犬状態で奔走している。 - 誰もがそうだと思わざるをえない文章を残したのは、確かに谷。
谷の記としては『東征私記』が有名。しかし、この一件に関する記は、少々呆れる。
「古狸が捕まった!・・・(全文はリンク先)」と実にハイテンション。余程、近藤処刑が嬉しかった様子丸解り。 しかし、心理的に我が身に置き換えて検討(▲上のテキストリンク先へどうぞ)
- 近藤勇処刑決行&否対立について:香川敬三と有馬藤太が対立口論有り。
【反対派】:薩摩:有馬藤太。伊地知正治、 (但し、薩摩内にも分派、反対意見派閥有り) 【決行派】:土佐:谷干城 。 香川敬三(元水戸藩士ながら急進派、土佐の中岡慎太郎の下、 陸援隊の副隊長格。中岡死亡後は、 鷲尾隆聚の率いる鷲尾隊の副隊長格となるが、それまでの 経緯上、上記のとおり、土佐と親密。断行決定権者黒幕TOPは誰なのやら。
- 有馬藤太は真っ先に近藤捕縛の功績者ながら、断固処刑に猛反対。近藤を庇い救命主張。
- その一方、鷲尾にへばりついてる香川もなかなかグレー。新撰組内の水戸派粛清は甚だしかった。
- なんといっても、大久保大和と名をシラ切る近藤勇を、当に近藤勇と断定証人となったは、
薩摩の飼い犬状態にある加納道之助(加納鷲雄)と、武川直枝(清原清)。どちらも御稜衛士の生き残り。
- 平田宗高【薩摩】の記『平田宗高従軍日記』から拾える名前と藩:
◆東山道総督府小監、◆各藩代表(薩、因、土、彦)四藩- 【薩摩】:平田宗高(追従的存在ながら、)、
【土佐】:(立会人:谷干城と安岡亮太郎)、【因&彦】:? - 余と安岡亮太郎行く・・主体は東山道総督府小監。・・応接所長と四藩揃い、
・・余も近藤勇を糾す・・。
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近藤に係るなかなかいい本、この中にあります。 ▼
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英雄が惚れた「そのまた、過去の英雄」の末路 |
■近藤勇編、■中島三郎助編、■榎本武揚編 |
英雄が惚れた「そのまた、過去の英雄」。 不思議なことに、皆、それぞれの「心の主」に本人の終焉が類似している。
- 近藤勇:「三国志」の関羽。:両者共、斬首
- 中島三郎助:三浦義明(=衣笠城主:源頼朝に殉じて、孤軍奮闘して戦死した人物)
:中島も箱館戦争終焉、徳川の殿(しんがり)=孤軍奮闘烈死 - 榎本武揚:ナポレオン:榎本自身、留学中に立ち寄ったセントヘレナ島では、この島に幽閉された
ナポレオンに思いを馳せて、思わず漢詩を詠んだほど、英雄ナポレオンを尊敬している。
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徳川慶喜、二心殿の・・江戸無事ご帰還時の秘話 |
慶応4年1月3日勃発の、鳥羽伏見。家臣達が命がけで闘っている最中、江戸に逃走。 このあたりから、ますます後の世まで、何かと評判の悪いラスト徳川将軍。
しかしながら、彼とて、ここに至る前の段階では、不眠に悩まされ、終いに、蘭医である松本良順を 呼び寄せている。極度の緊張&興奮状態に至ると、人は寝ようとするのに連続2日も3日も不眠になる ことがある。慶喜もそうだった。
松本良順は、このとおり、家茂にはすっかり気に入られていたが、慶喜の代では、松本先生、
ちょっと微妙なラインに移行されていたものの、蘭医の巨峰である以上、呼び出しを食らった。 先生大胆な手段に出た。
漢方の睡眠促進剤だか、なんだか色々既に他の医者に飲まされているが効果ゼロ。 松本先生、なんと「阿片」を飲ました。コレしくじって万が一慶喜が死んだら 普通医者は、他の完全武士と違って大抵の場合、切腹や死刑だけは免れるはずなのだが、 こんな大胆なこと、他の医者なら、まずやらない。
松本良順、大胆な男とは知りつつ、やはり凄い。かなりの量、阿片を服用させた。 この時代、ほんの少しなれば、痛み止めなどの目的で、阿片を使う医者は珍しくないが、 コロッ!と寝れるだけの量、平気で恐れることなく飲ませたらしい。
効果抜群。寝るわ。寝るわ。寝るわ!もうだめか?と皆が蒼ざめる程、丸一日爆睡。 おかげで元気になったはいいが、結果は、後の鳥羽伏見放置逃走へ繋がってしまった。
一方、江戸に到着すると・・・これは、阿片の副作用かもしれない。 恐っそろしい食欲。食うわ、食うわ、食うわ!の兆候発揮。
◆その一、鰻。◆その二はマグロのフルコースのご要望だった。
到着するなり、上記ご要望。被害者は、榊原健吉。
●江戸湾に帰還した将軍を向かえに行ったところ、「どうも体の脂が抜けた。霊岸島の鰻頼む。」 ここまではよかった。流石は殿、たのもしい!ってところだ。しかし、この後、榊原は 変な仕事をやらされる。「マグロ食いたい!料理方法は、刺身の他、味噌煮込み、 アラ炊き汁。」具体的に指示された。なんでこんな事の手配を俺が・・・!!
●榊原健吉:直心影流(男谷精一郎の弟子=勝海舟の姪の夫)剣術指導をやってるところ、14代家茂 に抜擢されて将軍のお側役になった後、成り行き上、15代慶喜の側にも居る・・・そこ までは良いが、このとおり、またしてもしんどい目にあわされている。
慶喜のこの「とんでもない食欲」の犯人は、上記のとおり、松本良順先生の投薬、無関係ではなさそうだ。
つまり、「阿片」の副作用ではあるまいか。 鰻と鮪は、このドタバタの矢先、江戸に帰った途端、慶喜の食うこと、食うこと!!現象を物語る。
しかも、鮪は別名、シビと言われて、普通、死日、負けて死を背負うを意味するとされていた。 (ちなみに、箱館戦争終焉時、榎本武揚達の降伏に際して、酒5樽は有名ながら、もれなく一緒に
鮪5尾が官軍から贈られた。観念せよ。鮪じゃ・・・状態。酒は額兵隊長の星恂太郎を皮切りに 皆が飲んだが、鮪はどうしたのだろう?)
縁起だの、迷信だの、一切気にしないあたりは、慶喜、やはり大物か。自ら、好んで鮪。
しかし、実際、注文したはいいが、本当に予定通り、平らげたかどうかは不明。 小栗上野介忠順が徹底抗戦を唱え、罷免されたのは有名な話だが、他にも密かに抗議切腹を為した者は 複数居る。それでも、平気で、食うわ、食うわ!を実現したのであれば、超大物だが、それは不明。
注文した話はあっても、平らげた話まで存じません。
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ブリュネの描いた絵に感服! |
青い目の衝撃_神秘のJAPAN_ミカドとタイクーン |
ジュール・ブリュネ(1838~1911)。フランス軍事顧問団として来日。榎本武揚らと共に
最終、箱館戦争迄幕軍支援。明治2年5月1日(1869)箱館戦争終焉真近に撤退。 薩摩邸焼き討ち事件概要 |
ブリュネの絵は実に素晴らしい。この時代、西洋の学識豊かな人物の多くは、皆絵が上手い。
敵ながらあっぱれ!と言ってる場合でないが、デュースの絵も素晴らしい。 また、気の毒に、クレイジーな攘夷思想の狂剣に掛かって惜しくも落命した下田のヒュースケン の作品は、温もりがあって、さらにとても素敵。この人物は日本人好きだった。
一味違うのがブリュネである。 風景画などは、誠、見事の一言。この時代、彼ら軍人が描く風景画が上手なのは、
美的要素もあるが、写真の代用効果が要求されていた。写真は高価の上、大掛かり&大道具。 最低でも専任二人必要。その為、いつでもカメラマンを連れ回す事は困難。軍人として、写真同様に 精密に残す必要性が高かった事から、我々素人が見ると、感動する程上手な絵が多いとも言える。 仮にピカソのような才能の持ち主が居たとしても、職業柄、そういう絵は描かない。完全に具象画。
また、彼らの多くは特殊な測量知識を持っている為、精密な立体感のある地図を描くこともできる。 それ故、ますます上手!な具象画になるわけだった。
★そんな中、ブリュネの絵は、 完璧な具象画でありながら、なんと言ったらいいのだろう。
構図の中に、JAPANの魂みたいなものを漂わす不思議なムードを加えている。
■タイクーン慶喜の絵・・・神秘のJAPANとタイクーン。- 慶喜が居る。正面を向いた慶喜の横に、横顔もある。
そして、後方には、ぼんやり霞がかかったような不思議な領域が有り、そこには、一目で
幕府の高官達と解る立派な装束を着込んだ男達がいる。見るからに高い地位にある人物の 集団であることがまず解る。
ところがその「見るからに偉そうな人物達」が、皆、ことごとく、あの「土下座」同様の格好を している。霞かかった空間に在する人物が、いかに高尚な存在であるかを抽象的な技巧で 抽出している。
外人の目から見ると、「土下座」とは、いかに奇異な動作だったのが別件資料で解る。 かの小国に住む小人のように小さい人種の中、大名と名乗る者と幕府の高官達は特に、 傲慢で、雨天の際にも、人民を地べたに座らせるだけでなく、平伏す迄強要する。
実に傲慢以外の何ものでもない。
その「傲慢そのもの!」と伝わる連中さえ、タイクーンには平伏している。 その様子を、語らずして、いかに、このタイクーンが偉い人か、一枚の絵に 巧妙に描き出されているのだから、絶句する。
神秘のJAPANとタイクーン。文章で語るより明確だ。- そのタイクーンでさえ、ミカドには弓引けぬという。
ミカドとタイクーンとは、ブリュネにとって、その衝撃たるや、如何程だったことだろう。
■薩摩邸焼き討ち計画イメージ見取り図=スケッチ(薩摩邸焼き討ち事件概要) ・◇「絶対に勝てる!の構図」・・人を行動に踏み切らせるツボを心得た絵
江戸に逃げ帰ってきた慶喜に噛み付いたのは、罷免された小栗忠順だけではなかった。 ブリュネも大検幕。薩摩邸焼き討ちを自ら上申。箱根の山に官軍を詰め込んで、一気に爆破する との計画も語ったそうだ。ダイナマイトはまだなかったから、地雷か?
この絵は、他の作品に比べると、線も荒く雑に見えるのだが、他の意味で感動してしまう。 恐らく、カッ!カッ!と興奮しながら熱弁を奮いつつ、バサパサと描き足しながら、 言い聞かせたのではなかろうか。
悪く言えば、いつになく雑ですが、凄さとは、「欲求創出型」の絵といえる点。 現代で言うなれば、ポスターやチラシ。募集に思わず応募したくなる効果や、思わず購入したくなる。 それと同様に、「うむ!これならできるかもしれない!よし、実行しよう!」・・・と決断に至らしめる
効果が、よくよく見ると、一枚の絵の中に、一杯ある。勇気付けて、促進して、押さずして、 これなら、きっと勝てる・・・と相手が自動的に思って決心に至る。
慶喜という人物をよく掴んでいる。すっかり恭順ムードの慶喜にも見えるが、腰が重い理由、 つまるところは、成功率。勇気つけても、心身共にすっかり弱っていたら無理だが、まだいける。 (その実、このドタバタの矢先、江戸に帰った途端、慶喜の凄まじい食欲秘話)
この絵の素晴らしさは、絶対に勝てる!の構図 ・絶対に勝てる!と踏めば、ゴーサインが出る。絶対に勝てる!の構図を彼の脳に焼き付けるしかない!
作戦図と聞けば、先入観として、多分、◇現場の見取り図と、◇進行方向を表す矢印マークと、 ◇衝突が予測されるポジションにある×印、 ではないか?とふと、思ってしまうのが普通だが、
彼の描いた図は、図じゃなくて絵。人物の他、馬も樹木、建物、道路もある。 単に存在するのでなく、描き出された人物の姿などは、ものの見事。
どこからともなく、彼の熱弁が、聞こえてきそうな錯覚に陥る。
「これだけ、人が言っても解ってくれないのか!されば、この絵を見ろ!」
「まずだな・・・薩摩は恐らく、・・・どうのこうの。そこで我々は、隙かさずここで・・・」
などと言いながら、バサバサッと凄いスピードで描いたのではあるまいか。 アバウト解ればいいモノと力説したいモノの描き方が違う。アバウトの部分については、
「まる書いてチョン」状態。マンガ状態に近い。対して、ここ一番のモノの描き方は全然違う。
まさに、人を動かす原動力を生み出す絵・・・ 猜疑心の塊状態で対応し始めた人物は、おそらく、この絵が完成した頃には、 完全にイマジネーションができあがってることでしょう。「勝つ!絶対に勝てる!」
これから始めようとする作戦。まず、ざっくりと背景から描き、説明が完了する時点では、
すっかり軍配を得た幕軍の人物。馬にまたがり、兵達が勝っている様を 馬上から堂々と見ている大将らしき人物。 ▲ これは結構線の数が多く、具体的に描かれている。
戦っている最中の兵もあるが、戦っているというより、完全に勝っており、 やっつけてる最中といったイメージ。
その上、つくづく感服させられたのは、アクセントとして、しっかり光っている中央にある 薩摩兵の屍。絵のど真ん中、バタンと地べたにひっくり返っている薩摩兵の姿。 大の字状態。バッタン&キュー!木っ端微塵で、完全にまいって、でんぐり返って死んでいる。 これは、恐らく一番最後の段階でピリオドに描いたのだろうと思う。
・・・(西洋に漫画が発生したのはいつか知らないが、象徴を大袈裟に誇示する技巧は、漫画の 発祥のような・・・ますますブリュネは不思議な人。)
いずれにせよ、この絵は、確実な勝利の象徴だ。 ・・・解説を受けた人物が、思わず、ニタリとした瞬間。その姿が目に浮かぶ。
力説の甲斐あって、すっかりその気になった慶喜。
★ ところで、薩摩江戸藩邸焼き討ちって何?について
- ■幕府の権威失落を狙う意味不明の暴動が全国多発。民衆が、この治安の乱れでは、幕府はもうダメだ
と痛感するように。実は仕掛け人が薩摩。薩摩が放った特別暴動部隊。赤報隊。彼らは、覆面暴動犯で あると当時に、その反面で「新政府なれば、年貢は半額!民は救われるぞ!」と新政府イメージアップ
キャンペーン代行軍もやっている。幕府は、これらの暴動魔の出所が、どうやら薩摩と見破る。そのお手柄 は庄内藩。不逞の輩を手渡せ、ここに駆け込んだのはもう免れない事実として見破っている。と押し掛ける も、薩摩の抵抗が激しく、乱闘となる。そこで、俗に、薩摩江戸藩邸焼き討ちも鳥羽伏見の導火線も庄内藩
という表現がよく使われる。【ここにも関連:相良総三達の赤報隊(相楽総三1,相楽総三2)】
ブリュネさん、もし現代に生きる人なら、ポスター、広告業界で、充分活躍できる。 「是非、そうしたい!是非買いたい!欲しい!・・・」人が即時に行動に出やすいツボ ついています。この人物は、他にも、数多くの作品を残しました。
彼の教え子、田島金太郎の肖像もあります。成長期の少年だった田島は、初めてブリュネが会った頃、
こんなに小さくて可愛いおチビだったのが解ります。 (関連本文はこちら:青い目が「泣けた桜」と「泣かした桜」:ブリュネと中島三郎助)
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