3645772 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

林忠崇,幕末戊辰,脱藩大名_林忠崇(1編

幕末,箱館戦争,脱藩大名_上総請西藩主_林忠崇,若き純情:青いりんごとフランス人形_No.1,昭和16年迄生きた戊辰戦争参戦者,運命の時:遊撃隊、人見勝太郎と伊庭八郎、突如現れる!,請西藩内の蠢動,【楽天市場】

林忠崇,脱藩大名_上総請西藩主_林忠崇

 

脱藩大名:上総請西藩主:林忠崇






サイトTOP幕末_WITH_LOVE玄関_<箱館戦争の余波<箱館戦争脇役者達SERIES< 林忠崇

幕末の・・・若き純情_上総請西藩主_林忠崇 _No.1
箱館戦争脇役者達SERIES 脱藩大名の青いりんごとフランス人形
林忠崇 SEIRES:No.1(現在の頁)<No.2No.3No.4No.5


戊辰の嵐に飲み込まれ、生きて耐え続けた男がいた。
そして、終に死んだ。

昭和16年(1941)5月、豊島区高田南町1丁目1番地のアパートで、一人の老人が死んだ。
随分生きた。考えようによっては、誰よりも一番生きた。なんといっても、時代は昭和。
しかも一桁でない。その名は、林忠崇という。93歳だった。

江戸時代の男といっても、末期に生まれた者なれば、当然、明治、大正を生きるから、
珍しくない。しかし、この男は、赤ん坊、幼児ではなかった。即ち、一人の成人が
その目であの時代を見て、憤りを感じ、己の判断で行動をした。

江戸時代に於いて、既に成人男子となり、
自ら戦った男が、第二次世界大戦時代まで生きた!


東条英機のスピーチ、生き恥曝さず、皇国に散華を!その数日後、林忠崇は逝った。

林忠崇 とは、堂々一国の主、請西藩の藩主であった。


上総請西藩主_林忠崇に係る「おまとめ年表、関連資料」を作りました。■参戦経緯他、■林家及び林忠崇人物について_

(ところで、林忠崇ってどんなお顔?)

昭和16年(1941)といえば、岩下志麻さんの生まれた年。即ち現在(2010)年でいえば、69歳。
この年齢層は、現役で働いている人も多い。元気ハツラツ
スポーツに燃えてる人もいれば、PC噛り付きタイプも身近に居る。

戊辰戦争で実際戦った男が、その時代まで、一人生き延びていたのだった。
つまり、林忠崇という名の人物はニつも三つも、時代を乗り越えて
そんな時代まで、生きてきた。



明治維新は1868年。函館戦争終焉で幕を閉じたのは、その翌年、1869年5月(旧暦)。
1873年(明治6)1月1日から、新暦に入れ替わっている。
明治も大正も終わり、昭和に突入。

この時期、その時代背景といえば、途端に、イコール戦争でしかない。
しかし、文化的な場面を拾ってみると、世界では、グレンミラーオーケストラが
一世風靡。って何?知らない!・・・とて、今日、そこらじゅうで聴こえる音楽だ。
ドイツでは、1933年、アドルフ・ヒトラーの「ナチス党」が政権を奪取。
日本は、1937年に日中戦争が始まった。政府は国民精神総動員を打ち出し。
国民は何から、何まで抑圧された。1939年には第二次世界大戦突入。

英語使うな!洋語は全て無理やり日本語に訂正。生活に浸透している言語が、あっちこっちで
困った。たとえばサイダー。当時、ソーダー水というより、サイダーが皆に浸透。
そこで、うっかり、サイダー、そう呼ぶと怒られる。「噴出水と呼べ!」
「噴出水!噴出水!噴出水!」・・3回続けて早口言葉のごとく、とっても言えない。舌噛む!
水泳選手も困った。背泳ぎは困らないが、うっかりクロールと言えば怒鳴られる。
「早泳」と言わされた。お金持ちじゃなくて最下層の国民生活にも、この時代、洋物、洋語が
そこらじゅうにある。ちょっとそこのコップ取ってとか、カップ一杯なんていう事さえダメ。

これじゃあ、ごく普通の日本人が、日常的会話にしても、頭の中で一回、変換、翻訳してから
でなきゃ、しゃべれないではないか!
新聞に、たとえば、『紐育及び華府に於いて、寿府の・・・』という文章が仮にあったとする。
これ、知らなきゃ、読みようがない。
『ニューヨーク及びワシントンに於いて、ジュネーブの・・・』という意味らしい。

chikuonki.gif外人みたいな芸名使ってる俳優や芸能人、
みんな改名を強要された。ディックミネは、
なんだか三根耕一だかにさせられた。
1930年代、藤山 一郎が出てきて、
空前の大ヒットの『青い山脈』
しかし、戦意を高揚させる曲と異なる分野、
惚れた晴れた、悲しい、寂しい、
辛い・・・そうゆう曲は全部ぶっ飛ばされて潰された。

つまり恋愛・感傷系はご法度の時勢。藤山も戦争ガンバレソングを歌わされた。
また、こんなこともあった。1947年(昭和22)、「星の流れに」というタイトルの歌がヒット。
歌手は「菊池章子」。歌詞フレーズの「こんな女に誰がした」がヤマ場。これは、作詞家の清水みのるが、
或る実在の女性の話に感動、戦争に怒りをぶっつけて書いた詩。

戦争への怒りを訴えた歌は、
規制&発禁=受難時代。抹殺さ
れた「憲法音頭」他について、
時代背景の本

_
「こんな女に誰がした!」:パンパン女と
後ろ指される哀れ女性の姿=犯人は戦争だ!


その女性とは、元従軍看護婦。国に戻れば、焼け野原。
家族の情報はなしのつぶて。生きるために身を落とす。
哀れパンパン。だから、歌詞のヤマ場がこれ。
「こんな女に誰がした!」皆の涙をさそった。
本来、この歌のタイトルは「こんな女に誰がした」
だったのだが、GHQからクレーム。そこで、
タイトル変更にて、「星の流れに」ということに
なった経緯がある。

だが、少し、腑に落ちない。1947年(昭和22)は戦後。この歌は、無事抹殺されずにヒット。
実は、気になることがある。それよりも、少し早い時期に、抹殺されたらしき別件の痕跡。

幻の禁断ソングとはこれか?「こんな妾に誰がした」太平レコード、
新橋喜代丸(三)メカケと発音せず、オンナと発音して歌う。戦争のせいで、そんな形!の犠牲に
なった悲しい娼の歌。世が世だけに、発禁&しょっぴかれた事件・・・があるようだ。
(▲これ、必死で調べたが、ちょっと自信ないが、なんか埋もれているぞ!人の命じゃなくても、抹殺とは怖い。)


【話が脱線しましたが、モトに戻します。】


現代に生きる我々から見ると、その時代の人が昔の人なのだが、
上記の『林忠崇』とは、その人物から見ると、それらの人々は完全に新人類だ。
その新人類にまみれて、江戸時代の男が生き続けていた。

この人物が亡くなったのは1941年だから、もう少しで終焉の日本がそこにあった。
第二次世界大戦終戦は1945年(昭和20)。
戊辰で敗れた男が、今度は日本ごと敗れる惨めさを体験するところだった。
その意味では、むしろ幸いだったかもしれない。終戦の4年前に死んだ。

戊辰に散った者、犠牲者達は皆、哀れだ。
為せぬ絶望感と屈辱に耐え、負け人のまま生きた者も同様。

しかし、林忠崇だけは、皆と異なる。
共に戦い、共に犠牲を払った仲間、その世界から、切り離され、
生きて境地は孤島を彷徨った。

傷を嘗めあう負け人、賊仲間(幕軍)にさえ
見捨てられた男と嘲笑された。




瞬時のミステイク!暗転した請西藩の宿命
あの時代、その男、林忠崇 とは・・・


徳川泰平二百六十余年。戊辰の嵐が、何もかも掻き乱していた。
幕府は屋台骨がぐらついて、もはや行く末は見えている。
不服ながら、次から次へと、他藩も順次恭順になびいてゆく。

syakuyaku05.jpg志と現実の狭間。如何に20歳の独身若い藩主とて、
それは理解できた。本音は『徳川報恩』を全うしたい。
されど、己一人ではない。一族郎党、領民。
皆の存続がかかっている。

いかなる場合にも、判断ミスは許されないのだった。

林忠崇 とは、堂々一国の主、請西藩の藩主であった。

慶応3(1867)年10月14日、大政奉還が為された。
請西藩では、同年、6月、20歳の忠崇が藩主になったばかりだ。前藩主、忠交は伏見奉行在職中、
惜しくも若くして急死した。林忠崇 は、藩主の座について僅か4ヶ月後に、この衝撃を受けた。

しかし、この忠崇には人望が厚かった。若くして文武両道。和歌、狩野派の画法等学に秀で、
江戸城に登城した際には、作法も万全で、若年寄の評判良く太鼓判を押された。
たちまち、その話は領内くまなく、聞こえ広がった。

また、なんといっても容姿のインパクトが強い。
身長5尺6寸とかなりの長身。剣道で鍛えたその姿は背筋がシャキッ!と伸び、
顔立ちは面長、鼻筋通り、気品高く、瞳の光強く・・・の有様。

この人物の写真は、一二枚程度であれば、辞典サイト等で簡単に見ることが
できます。出陣時の写真では、比較的簡単に見れる一枚の他、表情が全く異なる
もう一枚も本等ではご覧頂ける場合があります。口元をギュッ!と引き締め、
まさに決心の塊!!状態の迫力が伝わってきます。晩年90歳の写真はWEBで発見
できるか不明ですが、90歳でも背筋伸びきり!顔もシワシワになっていません。

この時代、藩によっては人形同然の藩主も居れば、絶望的な存在も少なくはない。
永年の徳川平穏に腐敗、勝海舟の言葉を借りれば、世襲馬鹿も実は居た。
そんな中、請西藩の民は、鼻高らかであった。待ちに待った若きホープ到来と、沸いた。

暗夜に光とはまさに、このことだ。二百六十余年の平穏徳川が今や瓦解の一途。
そんな中、誰もが、忠崇に輝きを見い出していた。


1_待望の藩主出現に舞い上がった 請西藩



領内の不穏、若き藩主、みごと!徹底対処


林忠崇の請西藩に於いて、揺れに揺れた暁、藩論は結果として、恭順姿勢を示していた。
もともと、請西藩は、好き好んで、官軍ごときの尻に敷かれたのではない。
されど、肝心要の徳川家が示した結論が現状である以上、従ったまでのこと。
これが、彼ら請西藩の選択結果だった。


この頃、領内では、官軍ごときに屈するものか!とばかり、暴動が多発していた。
気持ちは解るが、多くの場合、それらの人々を見る限り、とても頂けない。

老中の北爪貢が、言った。
「殿、どうか、けっして、惑わされてはなりませぬぞ。
申す事は最もなれど、所詮、不貞の輩、烏合の衆でござりまする。」


対して、藩主、忠崇は笑って、余裕で答えた。

「なに、案ずるな。世のこの目玉は節穴ではないぞ。為して為せる者か否か、見れば解る。
近頃、領内を荒らしまわる連中などに、惑わされるようでは、世は、のうのうと、この藩主
の座に胡坐をかいている身ではなかろう。世は、あの連中には失望じゃ。
それどころか、もはや、このまま放置は許さぬ!」


とても20歳そこそこの青年とは思い難い思慮深さに、家臣は、すっかり安堵の胸を
撫で下ろした。

その実、忠崇は口先だけの男ではなかった。徳川報恩、再起を口で豪語しつつ、
狼藉行為を続ける連中の捕縛処分を徹底させたのだった。
その結果、なんと逮捕された男は19人にも及んだ。

悲しきかな、その多くが、旧幕府撤兵隊(隊長、福田八郎右衛門=福田義軍)出身者だった。
おかげで、福田義軍の清い英士達は余計な連中のおかげで、後々汚名イメージを背負い込む
羽目になった。
清いアスリートが居た事忘れられることが多い。しかし、ちゃんと居る。
遊撃隊が、佐貫藩内にて活動中、同藩の兵の他、別途一部の撤兵隊も合流している。

この隊は、鳥羽伏見に破れた後、血眼になって、このまま屈してなるものかと諸藩に呼びかけ、
独断、個別に駆けずり回っていた。つまり、後立てとなる力もないままに、正義感が爆裂して
走り回っていた・・・というのが発祥だ。

見も心もすっかり荒んで、浪人同然の体。目を血走らせ、飢えた狼のごとく
身をやつした男が、領内を駆け巡る。
「援軍に入るか、支援金を出すか、どっちかにせい!」
兵の強奪か、焦って軍用金を要求する。理解が得られなければ、暴力に出る。
・・・もともと、このタイプは、徳川原理主義者とでも呼べばよいだろうか?
誰が見ても、どう良いように考えてやりたくても、勝って頂けそうな人望は
どこにもない。当然、無視されるから、カッ!となって暴力に出て強奪となる。

しかし、世の中、実に悲しいことに、上記タイプはまだマシなのだ。
そのどさくさに紛れて、徳川の為!などと口でぬかしては、金を脅し取るは、暴行に出るは
の不貞の輩が混入していた。幕府は苦しまみれ、撤兵隊の頭数増員の為、従来とは異なる
大分ややっこしい連中を、なんでもかんでも拾い込んでいた。そのツケが回ってきたはいいが、
とばっちりは実に迷惑な話だった。


ところが、慶応4(1868)年3月28日、木更津にあらわれた江戸脱走部隊、約30人。
なぜか彼らだけは上品だった。伊庭八郎と人見勝太郎の手勢である。
もともとこのチーム、390人いたらしい。多くが犠牲となり、また散り々になって、
この有様。ここに現れたのは僅か30人。されど、エリートの武芸者である。
当然暴力もなければ、見るからに、それまでの連中とは違っていた。


しかし、運命の歯車がここに狂いだすことになろうとは、
この時、誰しも予測できなかった。


2_運命:遊撃隊、人見勝太郎と伊庭八郎、突如現れる!


林忠崇本人にとっての最大の苦渋の思い出は、奥羽参戦の後、仙台に於ける自首出頭決断の後、
江戸護送の瞬間だったという。きっと、そうなのだろう。

まさか、見苦しくも彼らを恨んだり、後悔するわけにはいかない。
しかし、客観的に見るなれば、運命の瞬間とは、それ以前に、
やはり、この瞬間だったのではなかろうか。


遊撃隊、人見勝太郎と伊庭八郎、突如現れる!

前述のとおり、藩論は恭順姿勢である。
しかし、そこへ、突然の来客がやってきた。
慶応4(1868)年4月17日のことである。いうなれば、この瞬間こそ、運命の時。

客人とは、上記の慶応4(1868)年3月28日、木更津にあらわれた江戸脱走部隊、約30人。
遊撃隊の伊庭八郎と人見勝太郎は、藩主、忠崇との謁見を申し出た。

老中達は心配したが、独断で追い返すわけにはいかない。
しかも、この二人の若者、その清い瞳と、律儀な振る舞いに心が揺れた。

いかに若い藩主様といえど、年齢不相応な程しっかり者の藩主のことだ。
判断は、藩主に仰ぐこととした。結果、丁寧に扱われ、奥の間に通された二人、
深夜まで、膝を突き合わせ、若い藩主と若者二人の熱い対談となった。

若く正義感に満ちた若い藩主は、すっかり、
この爽やかな好青年二人組に、心動かされてしまった。


遠い過去になった事、しかも江戸時代の事、今後悔しても話にならない。
しかし、つくづく思う。殿を慕うが故、死の瞬間まで殿=林忠崇 の為に生きた家老、
北爪貢よ!どうせ死なねばならぬ宿命だったのなれば、ここで若い殿に説得の意で
切腹抗議自殺を諮るべきだった・・・。きっと本人も悔いたのではなかろうか?
(彼の死については、後述)


徳川報恩の為、命を捨ててでも、不義への戦いに挑もうとするこの二人組。
当初、藩主、林忠崇は、この二人には、極めて丁寧に扱い、その上、己が可能な範囲、
最大限、兵や金を援助しようと考えていた。参戦など思いもしなかったのである。
しかし、20歳の藩主なのだ。胸の高鳴りが、もはや抑えられない。

二人のうち、伊庭八郎は、実は25歳だが、見た目は20歳前後にしか見えない。
色白な美青年である。しかし、話を聞いて驚いた。この若さで伊庭道場の主である。
その剣の凄まじさは、江戸中に聞こえ渡っていた。

その伊庭が言う。己は名誉も地位も何ら要らぬ。不義への戦闘一色なのである。
しかし、話せば、話す程、心が揺れてゆく。

鳥羽伏見参戦で遅れについて本人の記録:口惜しさと憮然たる胸中。
この日、空かき曇り、北風もっとも烈しく、夜半に到り白雪粉々たり。
林忠崇 は、心で己を恥じた。いかに経験不足が原因の失策といえど、実は鳥羽伏見参戦が遅れ、
間に合わなかった。いざ!とばかり向かったところ、なぜか引き返してくる船に海上で
すれ違った。何を隠そう、それは、兵を置き去りにさっさと退散した将軍、徳川慶喜だった。
出遅れた己、対してこの二人は徳川の為に、死闘を潜りぬけ、今ここに居る。

もう一方の男、人見勝太郎は、伊庭とは対照的に、比較的がっちりとした体系の男。
話してみなければ、可愛いだけの男に見えてしまう。しかし、中身に重みがあった。
しかも、鳥羽伏見の際、彼が属する遊撃隊の上司達は、死にかけの仲間を置き去りに
江戸へ撤退した際、人見は、上司を無視して、彼らの救済にあたったという。
しかも、江戸に着くなり、上司を平気で罵倒したというではないか。
当初隊頭は、今掘登代太郎と駒井馬(たけし)である。

「いかに、将軍殿のご意思に沿った撤退と言われようが、
何がどうあれ、人の道にあらぬ事は悪しき事也!俺を斬るなら斬れ!」


その人見勝太郎とは、京都出身である。
人見は己の父親から、この前藩主の事を聞いたことがある。
慶応3(1867)年:6月、請西藩前藩主_忠交は、伏見奉行在職中、無念の急死だった。

そんな経緯から、人見が、こう言い出した。

「私が申すは誠、不束ながら、私の父は、京都で、伏見奉行の前藩主様を
存じて上げておりました。私のような者には詳しい事は解りかねますが、
お若い御身で、実にご無念で・・・」

前藩主は、血筋の上では、忠崇の父_忠旭の弟である。つまり忠崇の叔父。
しかし、忠旭は、忠崇の前に生まれた子を早世されてしまったことから、急ぎ弟を
養子に入れている。その関係で、忠崇は、兄上と称した時代もある。込み入って複雑だ。
人見は恐らく事情はよく把握していないながら、接点を模索したのだろう。

忠崇は冷静に、少し言葉選びに躊躇しながらも、むしろ微笑んで答えた。

「ああ、嬉しいことじゃ。前藩主は京都で、世話になったのじゃな。
されば、我らの縁も今宵が初に始まったものにはなるまい。
いわば、今宵の縁は既に前世より授かっていたようなものじゃ。礼を申し上げたい。」


何事も正直な忠崇は、言わなくてもよいものを、わざわざ、自分から告白してしまった。

鳥羽伏見の参戦が遅れた己の失態、その事の始終を語った。
このまま語らずしていたのでは、己が卑怯に思えてならなかったからだった。

互いに、若く澱みなき心の持ち主たちは、これで完全に意気投合した。
本人の記録も残っている。

我、誓いて、同心すべきの旨を答う。

夜を徹して、若い三人が作戦会議。藩主自ら脱藩の決心をしてしまった



請西藩内の蠢動


泣いて諫め糺そうとする家臣達。しかし、忠崇の決意は固かった。
彼は笑顔でこう言った。

「安堵せい!藩主は、忠弘に継いで頂こう。表向き、世は病気に倒れたことにせい。
それゆえ、再起不能との由縁もしっかと含め、忠弘に継ぐ旨、届け出るのじゃ。
我に付き従う手勢のことも案ずるな。この際、あの連中の世話になろうではないか。」


あっけにとられた家臣達。
「はて?あの連中とは?」・・・・忠崇の頭の回転にはついてゆけなかった。

対して、再び、忠崇が言う。

「手勢の兵はのう、あの連中よ、撤兵隊に拉致されたことにすれば良い。
充分まかりたつ話ではないか!!」

「しかし、それは、いかように?」


若手の家臣が問いただした。彼はすでに内心、この勇敢な藩主に付き従いたい、
そう思い始めていたのだった。

忠崇が笑った。
「簡単なことじゃ。けっして、申してくれるなと、申せばよい。
たちまち、広がるわ!民など、そうゆうものじゃ。」




この地域は、昔から小粒の譜代藩が、処狭しとひしめいている。
元を糺せば、左幕の風土一色なのだ。領民達にも、それが浸透している。
世が世だけあって、表面上は皆屈して従った姿を見せているもの、内心は爆裂寸前だ。

前年慶応3年(1867)暮までに、世は、10月14日: 大政奉還、12月9日:王政復古の大号令と
引き続いた。官軍は、卑劣にも力づくで、何から何まで奪い倒そうとする。

肝心の徳川御三家、和歌山の紀州も、名古屋も早々に新政府に靡いている。
徳川の先頭に立っていた彦根藩も転んだ。なんたることぞ!次から次へと皆よく転ぶ。
腹の虫が収まらない。

明けて、3月20日:慶喜は江戸城を明け渡し、家督は田安亀之助に譲り、
4月11日には、水戸へ落ちた。

すでに、将軍は、富も地位も捨てたのだ。
勝海舟らの奔走で、どうにか命は取り留めたものの、退去後も、
慶喜には自刃説、流刑説が、沸いて出た。
全財産を取り上げ、どうやって徳川一族及び、家臣一同が食ってゆけようものか!!

若い藩主は怒りに震えていた。


「よし、新政府の奸賊と対決しようではないか!我に付き従うが恐ろしいのなれば、
今のうちじゃ!逃げるなり、隠れるなり、好きにするが良い!」


眼光を滾らせ、突如、彼はそう言うなり、立ち上がった。
背筋の伸びた凛々しい長身の彼の姿。

家臣達の腹も決まった。
最後の最後まで、一人藩主を諫め続けた65歳の家老北爪貢も、ついに折れた。

損得よりも義に生きようとする清い藩主の志に泣けたのだった。
林家は歴代、徳川にひたすら忠義に生きた藩である。
若い藩主はその教えを守り、立派に成長した。

近年の北爪は、年の功で、物事を丸く片付ける為には、都合よく、自ら、この老いぼれと
称しては、穏便に済ませて、さっさと先へ進める老獪戦術である。
とはいえ、彼の体内を流れる赤い血は、典型的な古武士。それ以外の何ものでもない。
御年、65歳の男、されど男!今、彼の血は脳内に熱く噴き上げてきた。

けっして口外はせぬものの、心ではいつも、こう思っていた。
何を隠そう、天下の林忠崇を育てたのは、他の誰でもなく、己なのだ!!
論より証拠、藩主の忠崇は、他に誰も居ない時には、今だ、己を『爺や』と呼んでくれる。

ついに北爪は、密かに己自身の決心を固めていた。


藩主は、けっして、清く勇ましいだけの若い藩主ではない。
今、あらためて、それを痛感したのだった。

家督継承のシナリオといい、撤兵隊に拉致されたとの風説の流布策といい、
20歳の青年とは思えぬ。なかなか逞しい外交戦術ではないか!!



そんな中、城中では、俄かに戸口が騒がしくなった。
なにごとぞと皆が振り返るなり、仰天した。

なんと、杖をつきつつ、現れた男、それは、同藩の家臣、諏訪数馬だった。

藩主の突然の決断。考えようによっては、選ばれた藩士達は、脱藩大名に随従して、
錦の御旗に反旗を翻し、自ら「賊軍!」に加担せねばならないのだ。

日々、逃亡するもの、仮病の者が発生してゆく中、突如、泣かせる男の登場だ。

諏訪数馬、この男は、年齢はまだ30歳と若いが、結核で三年間寝たきりである。
それが今、なんと驚いたことに、床から跳ね起きた。
厳しい出陣の体を整え、同行を願い出たのだった。

この瞬間、狼狽する者も、内心困惑していた者も、皆、一気に目が覚めた!!


その晩、『爺や』と藩主
usagi.jpg

その晩のことだった。

藩主、林忠崇が、夜遅く迄、
書き物をしていたところ、
襖の向こう側、誰かが己の名を呼ぶ。

忠弘への藩主籍の移行に係る原案とでもいおうか、
機密のシナリオをせっせと書いているところだった。
声の主はといえば、長年聞きなれたこの声。すぐに解った。
「なんじゃ、北爪か?他に、誰かおるのか?」

他に誰も居ない気配が伝わるなり、呼び方が変わった。

「爺いっ!なんじゃ?仰々しいのう。早う入らぬか!
爺いっ!丁度良い。ひとまず、
目を通してくれぬか?念のためじゃ。」

そう言って、北爪の顔を見るなり、驚いた。眉間に皺を寄せ、只ならぬ気配である。

「殿っ!留守居役なれば、他に手配はお任せ下され。
この老いぼれ、足手まといなれば、どこぞ野の果てなり、
海の底なり、かまわず捨て置き下され!
戦場にあっても、爺いには爺いの出幕もござりまする。
死に役なれば、心してお受け致すまでのこと。」

なんと!65歳の家老が、随行を願い出てきたのであった。


なんと言い含めようが、どれだけ拝み倒そうが、無駄だった。
北爪の決心は固い。ならぬなれば、今この場で首を撃て!と言って引かない。

実際、北爪にしてみれば、殿を見送り、それがもし、死に繋がろうものなれば、
今直ぐに、己が死んでしまったほうが余程良かった。
usagi.jpg
北爪の脳裏には今だ、あの頃が消えていない。

今は亡き、先々代、忠英と、林忠崇 の父、忠旭、そして、十歳を
超えたばかりの忠崇が揃って、伝統の行事、年末に行った兎狩。

歴代、徳川の正月は兎の吸い物と決まっていた。
この林家からの届け物である。かつて大層お褒めに預かり、
それ以来、欠かす事なく、毎年、その伝統が続けられてきた。

徳川にお褒めに預かったことから、林家の兜は、仁王顔の兎を家紋のごとく、堂々と
正面に大きく飾ったものを特注して作らせた。

あの頃、巨大な兎の兜に今にも押し潰されてしまいそうだった小さな少年。
それが、どうだろう。今では五尺六寸。威風堂々の男ぶりである。
北爪などは 、仰ぎ見ぬ限り、忠崇の顔をまともに見ることができぬ大男になった。


ついに、忠崇は、根負けした。

「爺いっ!そなたの勝ちじゃ。世は負けたぞ。
・・・誠、そなたは、頑固爺いじゃ!!」

軍配は北爪に上がった。

この時、彼は完全に腹を括っていた。たとえ、どんだけ運が良かったとしても、
とても、生きて帰れる年齢ではない。初めから、そのつもりの従軍だった。



幕末玄関林忠崇 SEIRES:No.1(現在の頁)<No.2No.3No.4No.5
next_car脱藩大名、いざ出陣!
文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示

こちらは、林忠崇のショートコラムお気軽短編。(歴史としての資料は添付してませんが本等ご紹介)

林忠崇,冥土の狂歌は励ましの言葉


楽天市場ペットホットスクープ

li3.gif
薫風館:和風壁紙&イラスト;
蓄音機,馬の絵除く


© Rakuten Group, Inc.