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津川喜代美,白虎隊士,津川喜代美資料版

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津川喜代美,白虎隊士

白虎隊士_津川喜代美






関連

白虎隊悲劇の裏事情

こちらのバナーは「喜代美のエピソードと心」

津川喜代美,白虎隊

幕末関連玄関白虎隊士中二番隊37人の行く末と岐路:飯盛山の悲劇、その裏事情
津川喜代美資料版(現在頁)
津川喜代美_資料版

現在頁ガイド

A_津川喜代美_一般事項
  1. 本人概略
  2. 容姿性格特徴
  3. 逸話&ルーツ影響
  4. 日新館での姿(学業他
  5. 戊辰時の砲術訓練と隊
  6. 参戦と死亡情報&戒名
  7. 辞世の句に転じた
    出陣の決意詠歌
  8. 居住地家

B_津川喜代美 の家族事情
  1. 実父:高橋誠八重固
  2. 実兄:金吾と八郎
  3. 実母:高橋えつ子
  4. えつ子の実弟:有賀惣左衛門
  5. 養父:津川瀬兵衛
  6. 喜代美が津川家へ養子に
    入った訳
C_ルーツと参戦意欲の関係

  1. 高橋家バージョン
  2. 津川家バージョン
  3. 喜代美が感動した津川家の
    先祖達の忠誠
    (加藤清正の忠臣津川家


18.高橋外記重完(猪苗代城代)
と、津川喜代美の実父=高橋
誠八重固について考察
  • 高橋外記重完の四男
    =津川喜代美の実父
  • 【18_A】
    高橋外記重完(猪苗代城代期
  • 【18_B】_終焉時城代
    高橋権太夫と、倅:高橋数馬
D_津川喜代美 が兄に贈った手紙
・手遅れだった弟の手紙

E_20_津川喜代美
戊辰後の家族と、死亡家族
A_津川喜代美_一般事項
1津川喜代美

・本人概略

津川喜代美の家族事情

■1853(嘉永6)年~1868(慶応4年8月23日)、■享年16歳
■高橋誠八重固(100石)の三男。■母は有賀惣左衛門三女「えつ子」。
■喜代美の幼名:八三郎、(喜代美≒清美、潔美)
■津川瀬兵衛(150石)の養子として津川家に入った為、津川喜代美と名乗る。
■朱雀士中四番隊士である長兄金吾、次兄八郎
2容姿性格特徴 仁慈勇敢。髪:総髪。背丈:高い。(生みの母も背が高い)
顔:面長&色白、眉濃、眼丸く、眼光鋭く、鼻高く通る。
性格:温厚、謙虚、人に譲る。情深く勇気あり。
3 性格逸話他

ルーツの影響
■優しさ&慈愛「無駄な殺生を嫌う
◇哀れな捨て犬の話、◇喜代美に救われた蛇の話、◇兄への手紙

■自己犠牲
優しさばかりでなく、勇敢で男児らしい強さが感じられる一件
・◇上記「犬の話」の決着
■親孝行:実家も養家の親、双方に謙虚&親孝行
(天性温良、恭謙能ク人ニ遜リ、二親ニ事エテ孝也。
■素直&己の信念完遂
・忠義に生きた先祖のルーツに感動。先祖の生き方を見習い結果実行。
・これは、上記「兄への手紙」の項目にも滲み出ています。
■ルーツの影響
・◇歌詠みの才能(「出陣の詠=辞世の句」項ご参照、
・◇書を極める。(お習字上手=・・・ルーツの影響多大
4日新館での姿
(学業他
■十歳:藩校日新館入学(尚書塾一番組)■在学中度々、表彰された。
お習字が素晴らしい
将来を見込まれて、褒賞として「良硯」を学校から授けられた。
5戊辰時の
砲術訓練と隊
■慶応4年(1868)3月:白虎士中二番隊に編入される。
■フランス 式調練法を受講。(フランス式軍術の師匠について
6参戦と死亡情報&戒名
(この場合は法名
慶応4年(1868)8月22日、戸 ノ口原へ出陣
翌日8/23:飯盛山散華。法名:清進院良誉英忠居士
7辞世の句に
なってしまった
出陣の決意詠歌
かねてより親の教えのときはきて
けふのかとてそ我はうれしき
親の教え:
「我が家は、代々忠義の家です。ご先祖様を見習って育つのですよ!」
8居住地家
(養家の津川家
郭内米代二之丁 
B_津川喜代美 の家族事情
9実父:
高橋誠八重固

重固(=しげかた
高橋誠八重固(=津川喜代美の実父)とは:
  • 父は高橋外記重完の四男
  • その養父(※)高橋某氏死亡の際、子の金吾は幼少の為、
    家が絶える危険性を回避する為に、この家では、取り急ぎ、
    誠八重固を養嗣子として迎え入れた。その際の条件は、
    金吾を誠八の世継ぎとすること。
    • その養父(※)とは:
      誠八重固の前代=誠八重固の義理父:残念ながら「某」
10





高橋金吾■長兄金吾:とは、
  • 上記のとおり、形式上、金吾は誠八の長男扱い。
    つまり、喜代美にとって、長兄の金吾は同腹同種ではないが長兄。
    金吾は、なりゆき長兄だが、血の上では、喜代美の叔父。
  • 戊辰を生きて謹慎:高田の神宮寺謹慎(朱雀隊士分
  • 次兄八郎とは:死亡時19歳
高橋八郎高橋八郎:とは、
  • 高橋八郎=誠八重固の二男
    (長兄の金吾と異なり、喜代美と同腹同種
  • 朱雀士中四番「町野主水」隊
  • 8月11日越後石間口小松関門戦死。奮闘烈死。享年19歳
手遅れだった弟の手紙
弟の津川喜代美は、長兄の金吾および、この八郎に対して、
安否を気使い、心のこもった優しい手紙を送った。
悲しいことに、その発信日はなんと!8/11付
生き残った金吾は読めただろうが、八郎はこの日に死んでしまった
  • (略意味)
    :兄上、困難極まる任務ながら、どうかご自愛下さいませ。
(手紙については、追記=手紙項目ご参照
11母:
高橋えつ子

・旧姓:有賀
(産みの母)
■有賀氏の「有賀惣左衛門」の三女
■幼名:あぐり子、■改名後:えつ子
■身体強健で身の丈高く、志操堅実で侵すことの出来がたい威望があった。
(有賀氏とは:諏訪氏縁の士族(先祖は信州方面))
■父の名前も「有賀惣左衛門」ながら、弟がその名を襲名した為、
弟の名も「有賀惣左衛門」
12母の家族
高橋えつ子の弟

有賀惣左衛門
  • 有賀惣左衛門(250石:戊辰時「青龍一番士中隊の中隊頭」)
    慶応4年9月14日諏方社付近における大激戦で討死。
    勇戦英雄として有名。享年31歳。
  • 妻子の悲劇も!(現在頁下側にバナー有)
    赤ん坊は暫し生きたのに!有賀惣左衛門の妻子
  • (注)上枠のとおり、有賀惣左衛門の名は襲名してるため、
    えつ子の父も、この弟と同名。
13養父
津川瀬兵衛(150石)
■津川瀬兵衛は、喜代美の養父
■津川瀬兵衛(玄武伊与田図書隊)、
■戊辰:9/17一堰にて戦死(63歳)
・(玄武士中隊(隊長:「伊与田図書」))
14養子事情
■高橋家から喜代美を
養子に入れた訳
■津川瀬兵衛には男子がなく、高橋誠八重固から、その4男の
高橋喜代美(幼名八三郎)を養子として貰いうけた。
■その為、津川喜代美は、津川瀬兵衛の長男の扱いとなる。
C_ルーツと参戦に係る意欲の関係
津川喜代美は、先祖のルーツを読み知り、深く感動。我も見習いたいと意欲を。
◆高橋家バージョン、◆津川家バージョン、
15高橋家バージョン
(津川喜代美の生家)
◆「我が家は代々忠義の家です。」母に聞かされて育った。
◆津川喜代美の実父=高橋誠八重固。
◆高橋誠八重固=高橋外記重完の四男
(重元と記載されてる古資料もあるが多分、重完)
■関連:高橋外記重完(猪苗代城代)と、
津川喜代美の実父=高橋誠八重固について考察

16 津川家バージョン
(津川喜代美の養家)
(養父:津川瀬兵衛(150石外様士):郭内米代二之丁在住)
津川家ルーツは、肥後の地。
その昔、加藤清正の忠臣「津川茂兵衛」発祥

かつて喜代美は、家の系譜を見て慨然として言うに、
「嗚呼、我が祖先は明主の重臣で、忠節を尽くし、遂に武名を海の
内外に輝かせた人であった!!」


海の内外とは、先祖の代で、朝鮮征伐の際、加藤清正に追従して、
戦功を挙げた事柄を指す。(詳しくは以下文章)
17_■ルーツ_津川家と加藤清正&その子「加藤忠廣」

津川家バージョン補足

■ルーツ_津川家と加藤清正&その子「加藤忠廣」
・津川茂兵衛(肥後)
<津川勘右衛門勝生(肥後から出羽)(読み:かつなり:茂兵衛の子)
<津川文左衛門勝尚(勝生の子)
(出羽にお預けになった主君の加藤忠廣死亡後、失業して会津へ。しかし、ここで会津藩に抱えられる)

<会津藩に於ける津川家の始まり>

(1代目)文左衛門勝尚 、(2代目)五助勝美(婿養子)、(3代目)四郎左衛門勝治
(4代目)七左衛門勝興、(5代目)七左衛門勝休、(6代目)権次郎
(7代目)瀬兵衛(?次代襲名か)、(8代目)瀬兵衛=津川喜代美の養父、

1_肥後時代:祖先:加藤清正の忠臣「津川茂兵衛」&「津川勘右衛門勝生」
  • 肥後の地、津川茂兵衛は加藤清正に仕え、使番在勤。当時(1000石!!)
    朝鮮征伐の役に従い、戦功を挙げた。
  • その子、津川勘右衛門勝生も、清正に仕えた。父とは別途、抜擢されて
    普請奉行となり、(800石!)を領した。
    ・・・注)父の代より転落でなくて、親子合計1800石
  • 津川勘右衛門勝生は、加藤清正の家老加藤右馬之丞が、八代城を預かる際に
    追従。その際、総奉行に任じられた。その上、加藤清正の命により
    加藤右馬之丞の妹を娶った。稀に見る大栄誉。
  • 1611年:加藤清正が死亡
  • 同年:加藤忠廣(忠広)が後を継ぐ(清正の三男。継承時11歳):11歳の熊本藩主
  • 加藤忠廣_転落の坂道へ=出羽お預けの身=改易
    1632年(寛永9年5月22日)、江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、
    池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰。そのまま出羽庄内藩主酒井忠勝に
    お預けとなった。
    この事件原因については、諸説有り。徳川初期特有の胡散臭い事件。陰謀罠的要素絶大。
    とはいえ、忠廣は、やはり、父「清正」程強くなかった事の立証ともいえる。
    この頃、かつて、豊臣秀吉べったり家系には、何かと災難時期:MORE
2_出羽丸岡時代:流人同然:「加藤忠廣」
・・にも追従した忠臣「津川勘右衛門勝生」時代

<加藤忠廣お預けの身詳細>
  • 出羽庄内藩主「酒井忠勝」にお預けの身
  • 出羽丸岡に(1万石!1代限り!)の所領
    ・・▲父の清正時代は肥後52万石。その御曹司の行く末
  • 文学や音曲に親しみ、書をしたり、和歌を詠んだり、諦め人。世捨て人。
  • この時、約20人の家臣家系が、この加藤忠廣に追従して出羽の地へ。その1人が、津川勘右衛門勝生。
  • だが、「加藤忠廣」1653年に死亡。
  • ここでひとつPOINT
    家来達は、この哀れな藩主に従って我が身、我家の絶望を覚悟追従。
    ところが、藩主の影響。皆、書と歌詠みに秀でる。
  • 【幕末の津川喜代美(白虎隊悲劇の本人)影響】
    ・・・そして幕末、この家系の8代目:津川瀬兵衛の代。
    養子に入った津川喜代美(白虎隊悲劇の本人)はお習字上手で表彰度々。歌も詠む。
    (▲先祖を見習い努力する子との評価は的を突いている)

  • <失業の家臣達>
    • この時:家臣のうち6人が庄内藩に召抱えられた。
    • 他14家系詳細不明ながら、津川家は明らかに会津へ移動。
3_会津藩に抱えられた「会津の津川家」の始まり
1662年(寛文2年)津川文左衛門勝尚の時に、北原采女(会津九大名家)
の組与力として、会津藩に抱えられた。

津川喜代美の養父、津川瀬兵衛とは、会津藩に於ける津川家の8代目。




【胡散臭い事件!「加藤忠廣」が配流された事件について】

この頃、かつて、豊臣秀吉べったり家系には、何かと災難時期。徳川初期の典型。
家康は、災いの芽を摘み取る特有の手法を用いる。不満分子の早期撲滅の為なれば、時に難癖。
家康の完璧マニュアル:「禁中並公家諸法度」他、根絶やしの術
現藩主は大丈夫でも、かつて豊臣の者なれば、いつか謀反の可能性も。災いを恐れるよりは、
早期に抹消。手段を選ばない。お家存続の為なれば。

【この事件】加藤忠廣_転落の坂道へ=出羽お預けの身=改易
1632年(寛永9年5月22日)、忠廣は、江戸参府途上、品川宿で、突如入府を止められる。
池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰。そのまま出羽庄内藩主酒井忠勝にお預け。
理由は、身に覚えの無い謀反の角。おとり捜査兼、罠。「謀反があるらしい。」と、変な沙汰が、
各大名にばらまかれる。皆は大慌てで幕府に知らせるが、なぜか、加藤だけは知らぬふり。
だから怪しい!そこで改易に持ち込むという完全シナリオどおり。ついでに、加藤の配下の低侍が、
それに絡まってた証拠とばかり、下っ端を下手人として台本できている。真相はハテナ。
詳細はもっとありますが、つまるところ、難癖。

不満分子は、加藤の名なればを御大将に担げる。ついでに誰か一人ミカド公家系を神輿に乗せれば、
謀反ならずや、聖戦の名目が成り立つ。いやな予感の種は根こそぎ根絶やし。徳川初期は、戦国
の続きだから、こんな事件沢山あります。

18_高橋外記重完(猪苗代城代)と、津川喜代美の実父=高橋誠八重固について考察

★【18_A】_■高橋外記重完は、かつての猪苗代城代

何回も猪苗代城代に任命されている人物。依頼御免しても、
時勢柄、何回も復帰。ちなみに重完重弘(=重考)
・・・となると、津川喜代美の実父=高橋誠八重固は、かつての猪苗代城代の倅。
重弘の弟となるのだが、それについて書かれた資料不詳。

猪苗代城代の近年

猪苗代城は会津の支城。長年、「城代」交代制派遣型。
戊辰時は目まぐるしい展開に至り、従前と異なり、担当者が短期入れ替わるが、
高橋外記重完と、高橋外記重弘(=重考)期は、辞めたり復帰したりだが、それに
比較すると若干長い。その後、暫し別姓が続く。
  • 丸山五太夫→田中源之進
    →高橋権太夫 (500石:物頭)慶応4年(1868)5月~慶応4年8月:【僅か3ヶ月】

★【18_B】_高橋権太夫 と、哀れ倅僅か14歳「高橋数馬 」の勇戦

高橋姓再登場。しかし高橋権太夫と高橋外記との血縁不詳。
高橋権太夫というと、マイナス要因ばかり有名でその後状態情報欠落。
猪苗代城を焼き払って退却。16橋を落とす前に敵乱入。そこで白虎隊悲劇も当然影響。
なんとも不憫なこの名将は、上記高橋一家との紐付け判然としない。
戊辰の際、高橋某の猛烈散華は、この人物の無念に一族が影響している
のだろうとは想定されますが、納得ゆくほど書き綴られた資料存じません。

ちなみにこの人物は、
慶応4年(1868)5月4日:須賀川に於けるで奥羽列藩会議出席して以来、
上小屋方面、大平方面に始まり、5/29:白河城総攻撃、6/12白河城奪還戦
・・・歴々戦い続け、7/29:二本松城が落とされた後、8/21:母成峠の激戦。
そしてついに自ら猪苗代城(亀ヶ城)と、土津神社にに火を放って会津へ退却。
この後、十六橋破壊前に、新政府軍が橋を渡り乱入の発端となる。
城代は名ばかり。城に座っていた期間ゼロ。延々戦闘移動。城代様の実は、まるごと兵士同然。

この落ち度、責めは確かに相当重い。だが、ぼろぼろになるまで延々戦い続けた男。
だが、最後の失策故か、武勇談はどこへ行ったのでしょうか。



はっきりしているのは、高橋権太夫の倅、僅か14歳「高橋数馬」が
「8/23、若松甲賀町通」戦死一覧にあるだけ。

kan.jpgこの子の勇戦は
語り継がれただろうか?
父の名誉挽回に14歳が
戦い散華しているというのに・・・。

数馬君に、お花を手向けたい。


D_津川喜代美 が兄に贈った手紙
19_手遅れだった弟の手紙

兄への手紙_慶応4年8月11日付手紙

■手紙には二つの要素が漂う■
・【1】_兄の安否を気使う優しさ、
(津川家のほうがほんの少し上家格。しかし実家の兄達への思いやり
・【2】_忠義に戦いに挑む他隊士に羨望の眼差しと、
・今すぐ忠義を実行できずに見ているだけの今の自分に焦燥感

■手紙を書いた日の背景■
同じく白虎隊ながら他隊は勇ましく、出陣して行った。それを見送る自分が悲しいし、焦りを
感じる旨を兄に書き送った。出陣先は、兄達と同じ越後方面。
・◇白虎一番士中隊(春日和泉隊長)、◇白虎一番寄合組隊(原早太隊長)

■手紙内容概略■



兄上、私は本日見送っておりました。
それは、兄上と同じく越後方面で戦うべく出陣した白虎一番士中隊、
白虎一番寄合組隊でありました。
彼らは私と同じ白虎隊ながら、勇ましく忠義の為に出陣です。

私は今、黙って見送る我が身が辛いです。
こんな時勢だというのに、私は、こうして、じっとしていていいのでしょうか!
私も忠義を全うしたいのです。

どうか、兄上、くれぐれもご自愛下さいませ。


因みに、喜代美は達筆。学校で表彰されている。長兄は生きたから、
その美しい字体と優しい文章、戦場できっと心に染み入る思いだったことだろう。

そう語った喜代美の「出陣の詠歌」は、なんと!辞世の句になってしまった。


かねてより親の教えのときはきて
けふのかとてそ我はうれしき


【E_20】_津川喜代美 :戊辰後の家族と、死亡家族
実際はもっと沢山。ここには一部
E

20
生存
&?
高橋誠八重固実父喜代美の実父
高橋えつ子実母喜代美の実母:有賀惣左衛門三女
生存高橋金吾戊辰を生きて謹慎
:高田の神宮寺謹慎(朱雀隊士分
喜代美の実家長兄(1番目の兄
血の上では叔父:父の養父の子
死亡
8/23高橋喜代美(16歳 飯盛山自刃喜代美本人
8/11高橋八郎(19歳朱雀士中四番「町野主水」隊
越後石間口小松関門戦死。
喜代美の実兄(二番目の兄
9月高橋某実父:高橋誠八重固の実母 喜代美の実父方祖母
9/17津川瀬兵衛(63歳一堰にて戦死
・玄武伊与田図書隊
喜代美の養父
9/14有賀惣左衛門(31歳諏訪社付近戦闘にて戦死
(250石
【実母えつ子の有賀関係】
有賀惣左衛門とは襲名につき
喜代美の母の父と弟双方同名。
これは弟側
関連:有賀惣左衛門と妻子短編
8/23有賀ヒデ(27歳上記有賀惣左衛門(31歳)の妻
有賀ウラ(1歳上記有賀惣左衛門(31歳)の子

有賀惣左衛門と妻子

赤ん坊は暫し生きたのに!有賀惣左衛門の妻子


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