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梶原平馬のもう一人の妻と倅,明治根室の教育者母子,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES資料編,根室の梶原平馬一家,梶原平馬と二つの家,山川家と水野家考察おまとめ表,梶原平馬と根室の教育者、水野貞&水野文雄の家,山川双葉,幕末WITH LOVE |
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TOP(犬猫サイト)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話
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会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_資料編 |
梶原平馬と二つの家,山川家(前妻家)と、水野家(後妻家)考察おまとめ表 |
梶原平馬SERIES:No.1<No.2<・・・<考察おまとめ表(現在頁)<考察おまとめ表2<考察おまとめ表3 |
昭和63年まで、歴史上、梶原平馬は、「明治8年をもって行方不明の男」となされてきた。
同上63年、歴史好きさんは皆、湧きに湧いた。根室で、平馬の墓が発見されたぞ!
・・とはいえ、まだまだ発掘途上、知りたかった謎が、てんこもり湧いたわけでない。
気分は不完全燃焼。根室に於ける死亡年月日が判然とした程度ともいえる段階。
まだまだこれからの段階だ。
ところが、逆掘りの形で、根室生まれのもう一人の倅、水野文雄から遡って考察してみました。
二つの家庭と、頑なに沈黙が押し通されていた訳のレイアウトが少しだけ見えてきました。
それに関しては、SERIES文章中心編の梶原平馬SERIES:No.1<No.2<・・・にて。
前妻も後妻も学識高い教育者。見た目も行動も気丈なタイプ。されど、女性は女性。
しかも明治という時期にあって、歯を食い縛って、耐えて堪えているのが伝わってきます。
現在頁の表から初にご覧になりますと、淡々と事象の羅列に見えて味気ないですが、
表にしないとピンとこなかった事、実はかなり多いです。
一番最後に、ちょっと、ほっこりする談話を追加してあります。
ニ葉は、最終的には、立ち去った夫を恨んではいなかった!(真下バナーからどうぞ。)
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こうしてみると、幕末とは、歴史じゃなくて、すぐ手が伸びて握手できそうな距離に
あるんだな・・・つくづく痛感します。
尚、私はダメですが、明治時代の法律推移、詳細内容にお強いお方、別の角度からも、なかなか
ボリュームありそうですよ。気にはなりつつ、誤記するといけないので、私は、その点に
ついては、素人の領域の枠を出ずに、難解な話は無しで書き進めます。
下枠内のピンクの太字=調べてみた結果と考察への要リンク部分は、
No.3以後に順次ソース明かしてゆきます。
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梶原平馬「根室に於ける第二の家庭」 |
■梶原平馬 (天保13年?月?日(1842)~ 明治22年3月23日(1889))会津藩家老。享年47歳。
・・正しくは梶原平馬景武。梶原景雄ととは、明治以降の改名。
■水野貞(【嘉永2年(1849)】~【昭和2年2月20日(1927)】:享年79歳:死亡時根室)- 江戸生まれ。水野謙吉の三女。水野家は能楽を教える家。
- 少女時代の学問:■和漢学:宮原青雪師に学ぶ。
■数学:神田小川町の集天舎にて学ぶ。(この塾は大きい:慶応3年時、生徒は男200名、女子30名その一人。 - 明治32年:初に梶原姓を名乗る。夫の死(明治23年)から約10年近い後
- 明治初期から東京で教鞭を執る。函館、根室と再び教育者。天涯教育者。
- 梶原平馬との間に生まれた3人の子(長女:シツエ。長男:篤:夭逝。二男:水野文雄)
■水野文雄(貞の子)(【明治18/06/06(1885)】~【明治41/01/29(1908)】:享年22歳。根室生まれ、根室の教師。
■水野貞と、倅、水野文雄の『像と輪郭』
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注):年齢は目安:誕生日前か後かで1歳程多少誤差有り。資料に記載された数値が満か数えか不明なものもあるが大体。
また、前後の事象から当該年に推量年齢記載枠も有り。複数の資料から繋ぐと、前後になにやら矛盾を感じる点も
ありますが、なんといっても、実は今日に至っても梶原平馬の「離婚期日」とは存在しない!=不明なのです。
不思議&変!は「だんまり攻撃、ひたすらの沈黙維持」が最大の原因と思われます。
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梶原平馬と二つの家,山川家(前妻家)と、水野家(後妻家)考察おまとめ表 |
・・注▼=( 問題期間、在住、戸籍に係る事象他の略記) |
事
象
番
号 | 注 | 年齢 | 水野貞 | 水野文雄 | 約年齢:前後事象から推察した年齢を含む
色分けは各人物ごとの色。色枠内の数字は当該者の年齢
家族概要:
■前妻家時代:妻_双葉+倅_景清&妻系家族(山川家)
■後妻家時代:妻_水野貞+娘_シツエ+水野篤:夭逝。+倅_文雄 |
梶原平馬 | 水野シツエ |
山川ニ葉と山川家 |
▲事象番号の枠内に◆印があるところは、追記有り。 |
梶原平馬の戊辰暦過多につき、この表には略 |
二人の妻概略 | 山川ニ葉
(前妻) | 1844/9/30(弘化元年8/19)~ 1909(明治42)11/14)
■教師期間:明治10年(1877)~28年間(明治38年(1905)
■「景清」慶応2年(1866)、■孫:景浩(明治34生(1901)=景清が36歳の時の子 |
水野貞
(後妻) | 嘉永2年(1849)~昭和2年2月20日(1927):享年79歳:死亡時根室
■教師期間:明治8(1875)~- 東京)明治8(1875)~11/1/28(1878):東京桜川女学校・約3年間
- 函館)明治14(1881):「女紅場」
- 根室)■明治14/11(1881):「花咲尋常高等小学校」他。根室計は約20年
夫介護の為ひとたび退職、介護中私塾、夫死亡後、私立学校開始他
断続経緯有りながら約。最終の定年、または正式退職資料調べ中。
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■セルの色は当該者「例:緑=平馬、二葉と山川系=オレンジ・・」現在表の上側に色が示唆する人物一覧
■色付セルの数値は当該者年齢、■年月日:和暦記載略=明治 |
1 | ・ | 0 | 天保13(1842) | 梶原平馬誕生 | 生年月日詳細なぜか不明:天保13年?月?日 |
2 | 0 | 天保15(1844) | 山川双葉誕生
(会津にて生) | ※父=重固について謎多い。万延元年(1860)死亡:双葉16歳の時
とされるが、重固現職期間が曖昧。祖父の重英がなりゆき長期在職。 |
3 | 0 | 嘉永2(1849) | 水野貞誕生 | 江戸に誕生。少女時代、和漢学、数学を習得 |
4 | 24 | 慶応2(1866) | ニ葉:景清を出産 | 景清=軍医医学校教授、(更にその子:景浩(明治34生(1901) |
5 | . | 慶応4(1868) | 会津戦争時の年齢 | ■平馬(26)、
■二葉(=山川大蔵の姉25歳)は一子景清(3歳)を伴て入城
とある。大体一致。 |
6 | 26 | 明治3(1870) | +ニ葉+子の景清 | 斗南へ(現在の青森)。上市川村住。 |
7 | 28 | 平馬 |
8 | . | 4(1871) | 山川家兄弟留学 | 明治4年:廃藩置県=藩消滅。
■山川健次郎(双葉の弟)はアメリカ留学。
■山川捨松も岩倉使節女子留学:彼女の帰国は明治14年 |
9 | 明治4年8月 | 弟の山川浩一家(= ニ葉の弟 ) 東京に移住 。 |
10 | 30 | 5/11/3(1872) | 平馬出仕暦有が
明治6年免職 | 青森県歴史に官員履歴に名有。青森県庁に庶務課長勤務。 |
11 | 31 | 6/1/8(1873) | 平馬免職 | 廃藩置県により、弘前県、ついで青森県となった後、青森県庁に
庶務課長として勤めているが、故に出仕期間:2ヶ月のみ。免職。 |
12 | 別居
開始
と想
定さ
れる
期間 | 29 | ニ葉改姓&上京 | 山川ニ葉は、山川姓にて上京。浩一家と暮らす。 |
13 | 26 | 8年(1875) | 水野貞教職就任 | 明治8年から、東京桜川女学校の二等授業生として教鞭を。
明治11年良縁有。青森県士族梶原景雄氏に配しとある。
(これは教職者としての水野貞に係る資料表記。結婚近辺の
描写が婉曲的。婉曲的のソース関連は「No.5」) |
14 | 33 | 平馬行方不明
状態の開始
※ | その後、平馬は書面上会津に戻っている。「旧斗南士族名籍便覧」
明治8年4月若松県下大町一ノ丁□上市川村」にあり。この後
消息不明。※昭和63年初に根室に平馬軌跡発見迄長年、
明治8年を最後に行方不明となっていた。
しかし明治8年の会津に於ける目撃情報不詳。 |
15 | 33 | 10年(1877) | 山川二葉
教職就任 | 山川二葉は、姓も明らかに山川の上教職就任。
二葉は明治10年、東京女子師範学校に就職、勤続28年、
高等官に任じ従五位に叙せられた。(双葉に係る表記) |
16 | 東京
から
函館
へ
移動
関連
期間 | 29 | 11年(1878) | 水野貞退職
11/1/28 | 梶原平馬との結婚期日は不明だが、子の出生日から、この段階
妊娠明確。「慢性肺炎症」の為という退職理由で、桜川女子校
(東京)を依願退職。 |
17 | 11/?/? | 東京から函館へ移動したと考えられる時期 |
18 | 11/5/2(1878) | 貞シツエ出産 | この時、平馬36歳。シツエは函館生まれ。東京で産み落とすわけ
にはいかなかったのではないか?女子の身を糾し指導の教職業。 |
0 | 水野シツエ誕生 |
19 | 注 | 貞の勤務の軌跡では明治14年に函館に発生。しかし、シツエは函館生まれの様子からして、明治11年
身篭って、移住と考えるが自然だが正しくは立証書面無し。教職につくまで三年間函館に居た可能性大
ながら立証紙面無し。 |
20 | 函館 | * | 14(1881) | 山川捨松帰国 | 山川捨松(双葉の末妹)(岩倉使節女子留学)約10年満了の上帰国 |
21 | 貞
32 | 水野貞函館再就職
函館の「女紅場」
で教鞭を。 | 函館の「女紅場」とは、明治5年芸娼妓の解放に伴い、自立支援教育
目的施設。指導科目:洗濯、裁縫、紡績、学問も若干。北海道は
函館と根室の2箇所。 |
22 |
根
室 | . | 14/11:貞
根室再就職 | 花咲尋常高等小学校に就職の上、明治20年退職とされているが、
この11月とは、上記「根室女紅場」を第一ステップにして
いないだろうか?要検討。或いは函館在住時の根室決定の内辞 |
23 | 33 | 15/2月(1882) | 水野貞
小学校教諭就職 | 花咲尋常高等小学校に就職。根室へ移住の上、再び教鞭を。 |
24 | ? | ?
12年~17年位の間 | 水野貞が篤
出生&夭逝 | 長男・水野篤:夭逝。函館なのか根室なのか年月日&
出生地不明ながら。 |
25 | 41 | 16(1883) | 平馬就業暦多少 | 12/20付:根室県職員録「庶務課勤務者」に梶原景雄名有り。
就任開始など詳細不明。(そのうち解明されてゆくと思います。 |
26 | 0 | 18/06/06(1885) | 貞は文雄出産 | 二男水野文雄誕生 |
36 |
27
◆ | * | 19/06/?(1886) | 山川ニ葉の妹夫妻
及び家族が根室へ
入植 | 山川三和(ミワ)と夫「桜井弥一右衛門政衛 」
■ニ葉は長女、三和は次女。この場合、入植名義は長男の
山川保彦で屯田応募。追記27ご参照。 |
28 | 38
~
40 | 20(1887)年頃 | 貞は一旦退職
私塾開始 | 平馬病に倒れる。20年、花咲尋常高等小学校を退職。
夫の介護の為 |
29 | 22(1889) | 介護しながら状態と想定されるが、私塾開始(開始期日不詳 |
30 | 46 | 夫景雄氏(平馬)不幸止んで又起つ能はず。 |
31 | 47 | 平馬死亡
3月23日 | 平馬死亡。享年47歳 |
32 | * | 双葉の母死亡 | 22(1889/4/22):山川唐衣(1817-)=山川双葉の母死亡。78歳
山川唐衣=本名は艶:1860年から勝聖院称する。 夫の尚江が同年
(万延元年)死亡時に、剃髪して勝聖院名乗っていた。 |
33A | 40 | 6月 | 私塾を私立女子小学校として改称、開校。自ら校長。※ |
33B | ・ | * | 12月:桜井胖
花咲小学校卒 | 桜井弥一右衛門政衛の三男:胖:明治22年12月、
花咲小学校尋常科卒。尚、この人物も長生きできなかった。
追記27 |
34
| 戸
籍
1 | 注 | 23(1890)
| 明治23年9月9日
この時
シツエ12歳
文雄5歳 | 不穏か協力協調かは不明ながら、平馬死亡後、戸籍移動早速。
・・・ふたりとも水野家を除籍。 |
12 | ■「水野シツエは梶原景清の妹につき引き上」とある。 |
5 | ■「梶原景清弟を水野シツエ実弟に突き引き上」とある。
=文雄のこと |
35 | . | 19 | 30(1897) | 水野シツエ
就労軌跡有 | シツエも教師として名有:明治30年市立根室女子小学校助手
これが初教師仕事かどうかは不明。恐らく母の助手経験有。 |
36
◆ | * | 桜井弥一右衛門政衛
が「別当賀特別教育
所」を開設。 | まず、事象27ご参照。次に、追記27ご参照。 |
37 | 戸
籍
2? | 49 | 31(1898)
「一夫一婦制」
法改正 | この項目は私の独自考察の為に、彼らの資料に関係なく、
持ち込んだ法に係る枠です。32年に梶原を語り出した理由について、水野家にも、
勿論山川家にも資料はありません。しかし、教育者の立場、正式な妻の地位を、
これは絶対獲得したいはず。
この年、日本で初に「一夫一婦制」確立。長年、貞を苦しめていたのは、
「一夫一婦制」が日本に存在してなかったからではないのか? |
38 | 50 | 32(1899) | 貞は梶原姓名乗 | 貞本人は32年に梶原を名乗る。戸籍自体が正式な妻の座勝ち取り
になったか否か不明だが名乗ったのは事実。ご参考。法律事務
所や役所の証拠書物が見つかれば嬉しいところ。 |
39 | 夫の兄
内藤信節介右衛門
死亡 | 内藤信節介右衛門は、斗南移住後五戸に留まる。享年60歳死亡。
この人物のご子孫宅から昭和63年の大発見=平馬の根室軌跡。
これがなければ、今だ平馬は行方不明の男のままだった。
内藤信節介右衛門追記 |
40
◆ | 14 | 33(1900) | 文雄 | 機関誌「北友」を発行。根室郷友会(朋友会)を作る。
文雄考察については追記45 |
41 | . | 34(1901) | 山川景浩誕生 | 景浩はニ葉の孫:後に祖母の思い出文章残す=手掛材料のひとつ |
42 | 53 | 35(1902) | 貞、根室内の転任 | 根室女子尋常高等小学校(弥生小学校)へ転任。 |
43
◆ | . | 15 | 34(1901) | 文雄中学校入学 | 文雄15歳、東京の日本中学校入学。この時彼の住所は、父の
前妻山川家。山川浩なのか、双葉なのか宅まで不明だが、大体
この一家はほぼ同居
▼ |
44
◆ | * | 文雄は機関紙「朋友会」発行。住所は東京市小石川区久堅町37番地山川方日本中学卒業生水野文雄 |
45
◆ | 約
18
~
21
| ?
~40(1907) | 文雄
花咲小学校代用教員
| 中学卒業後、根室に戻り花咲小学校代用教員
死の直前の明治40年まで小学校の代用教員として花咲小学校に
勤務していた。明治40年限界まで根室の代用教員。
※追記45ご参照:左枠に「病に倒」と記入してますが死因厳密には
不明。要検討価値有。世は戦争だらけ。 |
46
◆ | 21 | 40(1907) | 文雄病に倒退職
※追記45 |
47 | 22 | 41/1/29(1908) | 文雄死亡 | 東京赤十字病院にて死去。満22歳死亡。 |
48 | 65 | 42(1909)11/14 | ニ葉死亡 | 65歳。 |
49 | * | * | * | *(この行は予備枠にて意味無し) |
50 | 戸
籍
3 | 死
者 | 44/6月(1911) | 死者文雄は
水野姓に | 死者文雄の養子縁組?根室の青柳家からクラを迎えている。
目的を語る史実はないが、クラが将来産む子の内、誰かに梶原、
及び水野姓を継がせる為か? |
51 | . | 77 | 昭和2年2月20日
(1927) | 水野貞死亡 | 根室にて77歳死去。 |
52 | * | 昭和63年:平馬の根室軌跡が初に判明_内藤信節介右衛門のメモが鍵 - 発見の重要キーは、平馬の実家の内藤家。(平馬は養子、旧姓は内藤)
内藤系ご子孫の内藤信俊家(青森県三戸郡五戸町)からメモが見つかった。 - 戊辰時の内藤家は悲痛。一言に尽くせない。一族郎党自刃。その上、末弟の武川信臣
(武川兵部)は官軍に捕まり、拷問されてさらに斬首曝し首。これは兄が平馬と見破られた為。
数少ない生き残りは兄、内藤介右衛門信節。その兄がメモを密かに残していた。
『明治廿二(22)年3月23日、北海道において病身、根室に墓有り。』=平馬のこと。
平馬死亡段階で、信節は存命していた為、後妻の水野貞から悲報が送られたのだろう。 - 内藤信節介右衛門は、斗南移住後再婚。(前妻子は一族総自刃)。五戸に留まり開拓&
漢学教授で凌ぎ生きる。教授といいつつこれはかなり辛苦。最終的には、明治32年享年60歳死亡。 - この人物は頑強な体ではない。幕末、弟の平馬と同じく家老だが、病気で暫し休養時期有り。
その為、弟の出世のほうが若干早い。その体で、五戸暮らしは教授といえど自給自足。その上、
新しい家族に古い話は酷。黙ってメモをしまいこんでいた心が解る。 - 小さい側の弟「武川信臣」の無残な死を悼んで後に弔い、最期の肉親、上の弟「平馬」の死は
さぞ、辛かったことだろう。
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▲各セル内の数値の意味と、色分け基準については、こちら。 |
貞が開校した「私立根室女子小学校」について
貞が開校した「私立根室女子小学校」は、生徒増加。後に、明治32年、花咲小学校(男子)と弥生小学校(女子)の二校に
分けてさらに発展をとげる。貞本人は初め花咲小学校側勤務だったが、明治35年に、根室女子尋常高等小学校
(弥生小学校)へ転任。この時、名前は「梶原」だった。追記:貞が必死で女子教育に命をかけた訳
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上記の縦に長い表の結果、 重要人物の死亡の後、翌年もしくは翌々年、必ず戸籍上、何かが動いているのが解る。
▼
その要約についてはこちらのMINIおまとめ表「戸籍の移動と、死者発生の絡み」 |
梶原平馬SERIES:No.1<No.2<No.3・・・<考察おまとめ表(現在頁)<考察おまとめ表2<考察おまとめ表3 |
上記各枠の追記 |
◆追記27、◆追記44 |
追記27:桜井弥一右衛門政衛
根室に入植してきた「山川双葉(前妻)の妹「三和」夫妻とその家族」
山川家と水野貞+梶原平馬は、山川家と交流断絶ではない様子が解る。
同じ根室管内に、山川ニ葉の妹夫妻がやってきている。
三和(ミワ・三和子・三輪)と夫「桜井弥一右衛門政衛 」:■山川双葉は長女、三和は次女。
この場合、入植名義は長男の桜井保彦で屯田応募。実質の家父長は、桜井弥一右衛門政衛だが、
家督を長男の保彦に譲り、保彦名義、明治19年6月、和田屯田として根室に入植。
6月に根室郡和田村157番地入植。
■桜井弥一右衛門政衛- 弘化元年(1844)9月3日~大正元年(1912)8月(3日or5日):本国は尾張。
- 死亡:根室、埋葬:会津の盛道山高厳寺
- 明治6年、三本木へ転居。同年青森師範学校に入学、11年に卒業。卒業後には主に青森県で教職。
その後の軌跡の中、函館県勤務時代有り。根室に入植が19年であることから、函館在住想定されるは、
明治11~18年位の間のいずれか。梶原平馬と二番目の妻貞を函館へ無事リードしてやったキーマンである
可能性は高いが、裏付資料無し。 - 桜井弥一右衛門政衛 も教育者として活躍
根室の開拓村時代の先生状態=山深い辺鄙な場所=貧乏先生の実態
開墾村から、休日温根沼まで酒を買いに行った姿を、伊藤初太郎が昭和31年8月の
北海道新聞に談話として紙面上語る。村から温根沼まで10キロ以上ある。徳利背負って
衣服は貧乏姿。あだ名は大砲先生。
学制は明治6年といえど、べつに国が無償の義務教育を施したでなく、全国に学校建てて
くれたわけでない。僅か7~8人の生徒の為に教育を。 ■桜井弥一右衛門政衛の「根室に於ける教育者軌跡」(こちらにも桜井の追記:考察おまとめ表2- 明治30年10月1日:別当賀特別教育所は、根室郡和田村大学厚別村字別当賀一番沢に開校。
=初代校長。 - 明治36,37年:厚別村簡易教育所勤務
明治38年:穂香簡易教育所勤務
明治39年:別当賀特別教育所勤務 - 妻のミワも教育指導着手。女子生徒に裁縫を指導。
- 桜井弥一右衛門政衛、大正元年(1912)8月(3日or5日)根室で死亡。
■桜井弥一右衛門政衛の子 :男子5人(1人早世) 女子6人(養女1人)- 長男:
桜井保彦(明治19年6月、父より家督を受け継ぎ和田屯田として根室の和田村(東和田)入植 - 三男:胖:明治22年12月、花咲小学校尋常科卒。その後山川大蔵(浩)家で養育されるが、
病死。白河桜山の別荘にて死亡。 - 四男:懋:著書有。(山川浩の編者)
- 五男:幹久:旧名潔。操の世話で東京農業大学林学実科卒業
- 長女:やす:山川家から東京の師範学校へ通う)
- 二女:八重:後に、山川操の養女となる
- 三女:松枝:山川操宅から小学校へ通う
- 他:不詳
尚、これは、あくまで推測だが、平馬+第二の妻貞の函館+根室軌跡のキーマンが、
桜井弥一右衛門政衛である可能性は考えられる。彼は上記のとおり、函館にも軌跡有り。
子も平馬の子と同じ小学校を卒業した胖の名前は判然と花咲の地記録に残る。
また、山川家は皆教育に関わる。桜井も同様。その為、平馬は戊辰経歴から明治の青森免職経歴と、
マイナス要因が多い為、高い地位に名を残す形で登場できないだけで、実はなんらかの教育部門にも
携わっていたのではないかと思う。
表に出る名前は妻の貞ばかりの為、まるでヒモみたいだが、生計を得るなんらかの仕事に限らず、
教育部門の着手可能性は高い。
そもそも、妻が教育者として土俵に挙がる以前に、第二の妻貞は先に東京の教育者として活躍中。
その貞と平馬の関係が、生じたのはいつだか知らないが、やはり、平馬は、青森の後、
東京の教育関係セクションに居たのではないか?
明治8年に会津に平馬の名前があるが、さて?暫し居たのか、「名置き目的」も幾つか考えられぬでもない。
羽ばたく路線に乗りつつある妻(山川二葉)に別居立証がメリット有りだったことも推察のひとつ、
また、この頃から既に貞との間柄が少々煙立っていたのかは知らないが・・・幾つも仮説をたてて、
発掘方向を複数にしないと、なかなか平馬の痕跡は見つからない。
恐らく平馬は、会津に大人しくひっこんでいたでなく、東京に居たと思われる。それでなければ、
明治11年、貞が子を産むわけはない。
桜井弥一右衛門政衛は梶原平馬の良き理解者、応援者であったのではなかろうか。
その妻は、山川双葉の妹だが、平馬のふたつの家庭が最悪険悪にならずに運べたのは、ここに妹が絡む点、
無視できない。山川兄弟は皆、華麗に羽ばたくが、この三和だけは地味で、情報が少ない。
それもそのはず、夫について、未開の根室開墾村に入っている。山川兄弟の中、一番貧乏暮らし。
夫亡き後、生き残りの子は、妹の操が養育しているのが解る。操も夫を佐賀の乱で失い苦労人だが、
三和と異なり、留学チャンスにも恵まれ、自立経済力がある。
梶原平馬紐解くキーーとして、この夫妻の存在は、今後の時代、何か手掛かりを発するのではないかと、
私は思っています。
桜井の戊辰時活躍を少々
- 注)戊辰時の参戦情報では「桜井弥一右衛門政衛」の名が殆ど拾えない。
- 北海道開拓使側から調べてみたところ、ひとつ。
彼は、会津末期の最終段階に於ける再編成「白虎隊中合同隊長」として、隊長になっている。
・・・(白虎隊歴史から調べると、本来この名前はあんまり出てこない。末期のことだろう。白虎隊悲劇の裏事情) - 類似名「桜井弥右衛門」で下記。本人なのか親族なのか?だが一応参考迄。
桜井弥右衛門は「二本松藩」応援に駆けつけた隊に名がある。
会津藩から応援に入ったのが、桜井弥右衛門率いる朱雀二番隊足軽組。
この組は、日光口から援兵に駆けつけた。また、井深守之進率いる猪苗代隊も駆けつけた。
皆で、正法寺方面、大壇の街道沿いに大奮戦したが、小笠原主膳(小隊頭)他、死亡者は約30名。
血涙の敗退となった。
尚、この藩、二本松も悲惨。青年兵は援兵に出て壊滅。生き残りも退路を塞がれ、城下戦闘時には、
老人と子供しか居ないも同様。少年とよべぬ10代半ばの子供ばかり。参戦散華は11歳から居る。
判明してるだけで、十代半ばの子供の死者は22名。(関連:二本松少年隊の悲劇)
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追記44
当該事象番号▼
40~46及び34 | 【水野文雄考察:人物像と軌跡】
■彼は年齢的に若く偉人的実績を残せなかった人物であったことから発掘困難な点多。
・しかしここに文才のある若い代用教員としての姿
・33(1900)年に、機関誌「北友」を発行。根室郷友会(朋友会)を作っている。 |
水野文雄死因について:・水野文雄考察
▼- ここから考察するなれば、『事象34』のとおり、僅か5歳程度で姓が梶原に
変更になってはいるものの、幼少から少年時代は東京の山川家ではなく、根室の
水野家で母_貞と一緒に暮らしたことが解る。(=根室の朋友有り)
父死亡早々、姓変更されている。 - 彼が児童に読み聞かせた自作の作品など是非見たいところだが、情報皆無。
しかし、上記の機関誌「北友」から、根室の朋友の誰かから手繰れる可能性有。 【水野文雄死因考察】
・明治41年に東京赤十字病院死亡。死因が一般的な疾病か否か厳密には不明。
因みに日露戦争は、1904(明治37)年2月8日~ 1905(明治38)年9月5。
明治40年、根室の代用教員であったことから上記日露戦争には関係ないが、時代的に
徴兵影響も一応考察対象。 日露国交断絶、宣戦布告。号外が平和な根室町を震撼。明治37年根室の青年達に
赤紙到着例有り。尚、北海道は開拓急務地であったことから、本土では1873年(明治6年)から早速徴兵だが、
北海道では1887年(明治20年)が初の赤紙。明治の徴兵に係る小情報】 |
その他の追記 |
【以下追記は、本件の究明に直接関係ない談話など】 |
/ | 上記についても、後日順次書き足してゆく予定です。 |
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