犬の洋服、ペットと快適に暮らす

2012/11/28(水)00:34

歴史探訪グルメ!「箱館」と「長崎の五島」,五島出身謎のミステリーBOY,五島英吉,「五島軒」,初代シェフ:謎の元通詞「五島英吉」の話,

歴史の偉人と食&現代グルメ絡み(71)

五島出身謎のミステリーBOY,五島英吉,「箱館」と「長崎の五島」,「五島軒」初代シェフ:謎の元通詞「五島英吉」歴史探訪グルメ!「箱館」時代から今日の「五島軒」_No.3初代シェフ:謎の元通詞「五島英吉」の話No.1グルメ料理系、■No.2ケーキとお菓子、■No.3:謎の男「五島英吉」(現在頁)初代シェフは、なんと!箱館戦争(1868~1869)で負けた幕軍側の通詞だった!!自称、「五島英吉」。ところが、本名は不明。箱戦争終焉時、ロシア教会に逃げ込んできた。彼らは、捉えられたら、間違いなく斬首の宿命。実は、その犠牲者の数たるや、半端でない。大勢が、官軍に捉えられて、命を落とした。そんな中、「五島英吉」は神父に巡りあって、まさに天に救われた身。彼は、神父に守られて、長らく潜伏。何年もの間。明治の世、この教会に縁のあった現在の「五島軒」の初代オーナーさんが彼をスカウト。料理の腕は、外国人さん仕込みで一流だった。そろそろ斬首はあるまい・・・とはいえど、やはり、本州では、釈放された幕軍出身者が謎の死を遂げる状態は各地。初代オーナーさんは、彼、五島氏を保護。幕軍出身者だった事を完全に隠して、シェフとして採用。箱館の地にレストランを開店。当時、このレストランは、大評判。新聞を騒がせた。五島軒のその前の姿:江戸時代五島軒のその前の姿:江戸時代当時はこの名「五島軒」でなく、レストランでなく、外国人さん相手に、パン屋さんだった。いち早くパンの技術を持っていた。技術は奥さんが、この店に持ち込んだ。奥さんの出自は、長崎か、韮山の江川の手元でパン製造に拘わる者か、横浜近郊で技術を持つ者か?、定かでないが、技術が有った。オーナーさんが、ひっぱってきて嫁にした!他の商売を手掛ける手腕の持ち主だったが、直近時代、この特殊技能=「パン屋さん」として名高い。明治の五島英吉:その後五島英吉は、長崎の五島出身。晩年、横浜で暮らしたようだが、ついに、本名と出自は、現在の五島軒にも、その秘密は残されてない。後に東京の一流ホテルに勤め、ホテルのノウハウを箱館の恩人、「五島軒」のオーナーにも伝授&貢献。晩年、横浜で暮らした様子ながら、死亡に関しては、横浜らしき。ついに、出身の五島には帰れなかったようだ。ところが、この人物の本名は、一応「宗近治」と言うことだけは残った。五島出身の「宗」さんとは、実のところ、江戸時代全体なれば、複数あって手繰れない。多くは、清国からやってきた人に縁がある。しかもこの苗字、清国では、珍しくないから、尚鍵は拾えない。もうひとつの説がある。榎本武揚軍に居たのではなくて、箱館奉行の配下の通詞だったという説。その説では、彼は通詞でなく、通司。清国の言葉が達者。■五島といえば、こんな記事もあります。季節柄、商品画像は売切エラー出るかも!・・・生涯、五島に帰れず天昇した「五島英吉」を偲んで、話題は別ですが、五島の話。五島英吉の考察(関連:上枠のA~E)注:上枠と異なり、以下は多少調べた結果の考察明治の五島英吉:その後(DとEの記号は上枠に付随します。・・自力で生きてる間に一人で解決できそうもありませんので、ご参考に皆様のご研究期待します!五島出身の「宗」さんについて:多くは、唐【清国】出身の人に縁がある。船乗りさんや商人などの唐【清国】の人が、そのまま定住していた例は江戸時代稀ではない様子。船で遭難して帰国を諦めた人も、ビジネスに意欲を持った人も、例は複数あるようです。私的に気になる話が記憶の欠片:判然としませんから、あくまでもご参考。【記憶話】唐(清国)出身で、五島からやっ来た英語の達者な者が長崎で通辞でなくて、通詞として活躍してた。幕府か、韮山の江川がヘッドハンティング。しかし、出自に問題があるため、歴代長崎で有力な通辞の「宗」さん(=東海さん)の養子にして体裁を整えてから横浜に勤務させた青年が居た。これが、彼か否か不明。掘ってみましたが、挫折。この彼とは唐(清国)の人。この場合だと、この人物の本名は、養子として「宗」と名乗るが、本来母国で名乗っていた本当の苗字は別となる。「榎本武揚軍ではなくて、箱館奉行の配下の通詞説」についてこの説では、その人物は、清国の言葉が達者。ところが、五島英吉は明らかに英語を話す。母国が唐(清国)なれば、当然唐語を話すから、この説も一理有。蝦夷ラスト奉行、杉浦誠は恭順派。無血で五稜郭を新政府に引き渡した。(維新前の蝦夷パニックが解る頁)しかし、これを不服として、辞職表を叩く者、一度上司に従ったものの、新政府の方針にキレて反乱を起こした者など、実際は裏幕で騒然としていた。黙って行方不明になった者が、どのような経路を描いたかいつの間にか、榎本軍に合流した者もいる。その場合、江戸幕府、箱館奉行所時代の者で、心は左幕派の者。また、運上所などで勤務していた地元下級役人は、そのまま新政府(※)に抱えられている。ところが、その後、榎本軍が到来した途端、さっそく榎本加担が明確な者発生。 戦後、地元で裁きを受けて、斬首になった者も多い。その為逃走するは自然。※ここで言う新政府とは:開拓使はなく、榎本軍到来前に存在した極めて短期の「清水公考」達による箱館府のこと。榎本武揚軍の通辞&通詞達アラカルトから、「五島英吉」のルート考察榎本の側近型:これは知名度の高い人物が多く、明治に出仕してる率も高く、確率的に低い。10人のフランス人に付随型通詞。この内、ニコールとコラッシュは当初、ロシアの神父に世話になっている。中島三郎助チーム付随型の洋語可能者:中島チームはほとんど全滅終焉。関与した者が逃亡する率は否定できない。彼らは浦賀。洋語可能者も、通詞にも縁がある。伊庭八郎と本山小太郎らと一緒に後からやってきた者伊庭は、座礁した美賀保丸に乗船しており、逃亡の後、横浜の尺振八(英語塾営)の元に潜伏、身柄を暫し保護してもらっている。蝦夷にこの時やってきたのは、伊庭と本山ばかり有名だが、他にも誰か居たは事実。名不詳。尚、美賀保丸に乗船していたメンバーの内訳には、長崎出身が原因で、土地柄、自然榎本軍に加担した左幕派の通詞が乗船していたのが判明している。他、一般戦士の中にも、英語可能者は居るが、通詞として名乗るは、戦闘部隊内の一般兵とは考え難い。尚、現代の世、ついに「五島英吉」とは謎に包まれた男ながら、初代、「五島軒」社長は、知っていたのではなかろうか。幕軍加担者の裁きは熾烈を極めた為。記録も残さなければ、子孫にさえ、彼にかかる本当の出自を語らなかった。一応、本名は「宗近治」の記録はあるようだが、上記推移が仮に実だとして、清国人だった場合、真実の本名(旧名)は全くにして謎だ。彼を守る為、かつ、彼を守る為に黙した要人に憚る為に・・・。そんな気がします。上記の1~5番について、追記:五島英吉2箱館奉行とコーヒー現代と異なり、昔は、「ビタミン」の存在が発見されていなかった為、日本国内全体に脚気が多かった。(関連:ビタミンの発見の話:果物価値と人の体健康)特に、蝦夷の場合、まるごと半年が雪で閉ざされ農業は不可。いわゆる脚気症状に留まらず、冬場の野菜不足が原因で、当時としては「得体の知れない蝦夷病」状態の発疹奇病患者が多かった。発疹ならいいが、悪化して命を落とす率も高かった。箱館奉行は頭を痛めていた。原因がまさか野菜とは、全然発想的に結びつかないから。そんな矢先、箱館奉行は、山盛コーヒーを外国人から買い込んだ。薬と思い込んだのか、思い込まされたのか。「皮膚の病気はコーヒー飲んだら治ります!」どなたか存じませんが、達者なお方がいらっしゃったようです。良薬口に苦しの法則。確かにコーヒーは苦い。「この味ならなるほど効く!かも・・・。」確かに血行促進など、多少関係する成分もあるけど・・・ほとんどハメられています!五島軒のグルメ&スイーツTOP

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る