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XFROMJAPAN+VIOLET UK

XFROMJAPAN+VIOLET UK

X&X JAPANの軌跡~詳細版

X~X JAPANの軌跡


XandXJAPAN



YOSHIKIとTOSHIの出会い
YOSHIKIとTOSHIは5歳の頃からずーと幼馴染で遊び感覚でやっていました。
当時Xが結成されるまではYOSHIKIとTOSHIの2人で当時中学の1979年に「NOISE」を結成。
その後初ライブを学校の予餞会で行い順調に入ってましたが、通っていた中学校が生徒増加で分割してしまい、当時担当してたヴォーカルが別の中学に編入されてしまい当時ギター担当だったTOSHIがヴォーカルになりました。



1982年伝説のXバンドが誕生
その後2人は中学卒業後、有名な進学校の千葉県立安房高校に進学。
その後もバンドを続けていましたが、進学問題で他のメンバーが脱退し「NOISE」は解散。
しかしその後同級生のユージという人に出会い、ユージと3人で一緒に過激的なことをしようよ!!
そんな事を話しながら、ついに1982年「X」という伝説のバンドはここに結成されました。
活動は、文化祭や各種コンテストへの出場がメインでした。
またこの時期に、「I'LL KILL YOU」等は既にあったという話も。
Xというバンド名は当初「とりあえず正式なバンド名が決まるまでの、仮の名前」であり、「1文字だと、コンテストのパンフレットで目立つから」という、軽い気持ちだったという。
※「X」以外のバンド名「IX」の名前も存在してたらしい~



YOSHIKIの高校時代
高校生当時のYOSHIKIは、「勉強もできてピアノも弾けるが、不良」という、学校にとってはとても厄介な存在でした。
当時の様子をYOSHIKIは「バリカンを持った先生に館山市内を追い掛けられた」と、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に話していました。
その後YOSHIKIは武蔵野音楽大学へ推薦入学に進学するはずでした。
しかし、入試直前の1984年1月に突如入試を断念してしまいます。
理由は「クラシックに対して行き詰まりを感じ進学を断念」
ロックバンドとして成功する道を選び上京。
TOSHIも、都内の調律の専門学校へ進学。



メンバー探し、初シングルリリース
上京後の2人は、何のツテもない状態でメンバーやライブハウスを探し、1年後の1985年頃にはバンドとしての体裁を何とか整えられるようになります。
その年の6月、初のシングル「I'LL KILL YOU」をインディーズレーベルDADA RECORDSからリリース。1000枚即完売。




自身のレーベル「エクスタシーレコード」を設立
YOSHIKIの母親が300万円出資し、有限会社として翌年には自身のレーベル「エクスタシーレコード」を設立。
その後1986年4月にEXTASY RECOREDより2ndシングル「オルガスム」をリリース。2500枚を完売したが、メンバーチェンジのため再プレスを断念。この頃になるとファンも定着。
しかしXのメンバーは常にメンバー交代の連続。
いろんなライブハウスを回り、かっこいい人など気にいった人がいたら、YOSHIKIがうちの「X」に加入しない?って声をかけては、いつも「X」のメンバーを探してたらしい。



TAIJIとの出会い・・そしてユージ脱退

YOSHIKI、TOSHI、ユージの3人でライブハウスなどで活動をしながら、新たなメンバーを探している時にTAIJIというベースシストに出会いました。
バンドを組まないかと何度も話会いをしました。
その後話した結論がユージを取るかTAIJIの選択が迫られたそうです。
YOSHIKIはそこでTAIJIを選択したそうです。
理由は「TAIJIのセンスなど音楽性において凄く憧れた」と語っておりました。
そしてユージはメンバーから外され脱退。
この時のYOSHIKIはTAIJIにするかユージにするか相当悩んだそうです。



音楽業界の批判の嵐
当時の音楽業界は、特にロックのジャンルにおいては凄く批判され、ロックは不良達がやる音楽として扱わされ、ましてテレビに出演するなんてとんでもない、という風潮がありました。
TVに出演し演奏ならともかく、やりたい放題のXは、業界関係者や他のバンドから相当厳しい目で見られてました。
また、ライブではYOSHIKIやメンバーが暴れてセットやライブハウスを壊したり、打ち上げでも暴れまわり、数々のライブハウスや居酒屋から出入禁止と通告されていました。
当時、ロックミュージシャンが居酒屋へ入る時、店員に「YOSHIKIはいないか?」とチェックされていた程その行動は特異なものでありました。
しかし、テレビ出演などがターニングポイントとなり、「X」の知名度は一気に広がっていきました。



HIDE PATAが正式に加入しXメンバーが正式に決定

その後「X」のメンバーもようやく固まって来て、当時1987年サーベルタイガーのバンドに所属していたHIDEが加入。
実は当時HIDEは美容師の専門学校に行っており、将来は美容師の道で行くつもりでした。
そしてサーベルタイガーが解散した時に、もう美容師の道で行こうと決心したそうです。
その後YOSHIKIに電話し、今バンドを組んでいるサーベルタイガーは解散したよって、YOSHIKIに伝えたそうです。
その時にYOSHIKIが、じゃ今組んでいるXのバンドに加入しないかと言ってきたそうです。
HIDEは、いろんなバンドからの誘いを断わって美容師の道で行きたいと語ってたのに、何故か「考えさせて」と言って。
その後飲み屋にXのメンバーと会話しYOSHIKIが加入するの?と聞かれ、hideが「じゃ入るよ」て答えXに加入しました。
その後ビクターから発売されたオムニバスアルバムのレコーディングの時にヘルプで参加したPATAがそのまま加入となり、ついにXのバンドが5人集まり、デビューを果たしました。



インディーズアルバムリリース
1988年4月遂にアルバム「VANISHING VISION」をリリース。
発売1週間で初回プレス1万枚を完売。
新宿エジソンで「VANISHING VISION」発売記念サイン会を行った所、途中800~1000人が集まりパニックとなり中断。



インディーズからメジャー進出
メジャー進出時は、Xとの契約を巡ってレコード会社間は争奪戦となりました。
実は「VANISHING VISION」自体も、メジャーからのオファーがあったものの、YOSHIKIが「Xはインディーズでまだ何も残していない」との判断で、自身のレーベル「エクスタシー」からのリリースとなりました。
その後Xが契約したレコード会社は、1番条件が悪かったとされるCBSソニー。Xがソニーに決めた理由は、他のレコード会社ディレクター達が「BMWを買ってやる」とか「黒髪にしたら売れる」といったような、自分達に対してナメた態度をとっていたからだとされています。
いちなみに交渉は、YOSHIKIが担当したという。



メジャーデビュー
1989年4月21日、CBSソニーからアルバム「BLUE BLOOD」でメジャー・デビュー。オリコン初登場6位を記録する。
また、この年だけで60万枚のセールスを記録。
当時のトップバンドが10万枚の売上だったこの時代、Xのセールス記録は正に驚異的だったと言えます。

また同年9月に『紅』をシングルカット。積極的なメディア露出で、ヴィジュアル系バンドを見た事の無かった多くの人達に強烈なインパクトを与え、また楽曲の良さでも世間の注目を浴びました。まさに元祖ヴィジュアル系と言っても過言ではありません。
この時もXのメディア露出過多について音楽業界から賛否両論を浴びせられましたが、そんな事も吹き飛ばすかの如く、世間の支持を集め瞬く間にトップバンドへと登り詰めました。



YOSHIKIが倒れるそして・・ツアー中止
メジャーシーンを突き進むXでしたが、YOSHIKIの過激すぎるドラムプレイが降霜したか
同年11月、渋谷公会堂でのライブ最中にYOSHIKIが倒れ、以降のツアーが中止されました。
この時から、YOSHIKIは首や腕に「爆弾」を抱えながらバンドを続ける事となりました。しかしXは有線大賞新人賞など数々の賞レースを総なめとして、Xの知名度は全国へと広まって行きました。



YOSHIKI復活&ツアー再開
89年11月の渋谷公会堂で倒れて以来、闘病生活とリハビリに専念したいたYOSHIKIがようやくマスコミの前に姿を見せ、武道館での復活にかける不安と意気込みを語った。
当時の一連のインタビューから、「破滅への美学」などYOSHIKI語録が生まれていく。
その翌年2月の日本武道館ライブからツアーが再開。
5月の大阪城ホールライブ終演後、地下の会議室で記者会見が開かれ
事務所よりツアーが途中中断するに至ったYOSHIKIの病状の説明や今までの経過の説明があり、そのあとメンバーからROSE & BLOOD TOURの感想と、2ndアルバムにかける意気込みの表明が行われた。
言葉を促されて立ち上がったYOSHIKIは、何度もビールを飲み干した
ここまで見守ってくれたファンのみんなに、ありがとう…と何度も言ったYOSHIKIの声は涙で震えていた。続いて立ち上がったTAIJIも何度も言葉を詰まらせていた次のアルバムに期待して下さい。と言って、5人は席を立った


都内スタジオで撮影

都内のスタジオにて、「CELEBRAION」をモチーフに撮影が行われた
9月に発売されるVISUAL SHOCK VOL2.5なのですが、このビデオの草案は
HIDE自身によるもの。撮影が押し、その日VOWWOWのライブをHIDEが楽しみに
していた事を知っていたスタッフが、今出れば間に合うと声をかけたが、
仕事を優先し楽しみにしていたライブを諦めたHIDEは、魔女姿のままでゲリラをやろうと六本木にて撮影を提案。ファンに気付かれつつも、何とか撮影をこなした。



アルバム製作の為渡米

次のアルバムのレコーディングの為に渡米し、しばらくXは舞台から姿を消しました。
しかし本人達が不在の間にも、前代未聞のフィルムコンサート「X FILM GIG~血と薔薇にまみれて~FINAL」東京ベイNKホールにて開催。
本人不在のフィルムコンサートにかからわず、2日間で15,000人を動員しました。
※フィルムコンサートとは
本人達の出演なしでライブ映像だけで行うコンサート。
ライブ映像だけではなく、本格的な照明など仕掛けがあり、実際にライブに言ってる感覚になる。



この頃からVIOLET UKの構想は生まれてた
実は1991年4月LAで2ndアルバム『Jealousy』をレコーディングしている際中にVIOLET UKの構想は生まれていました。
このVIOLET UKはXJAPANとは別でソロとして製作し今現在まで10年というとんでもない時間を費やしたYOSHIKIの究極の作品。
そしてこのVIOLET UKは第二のXJAPANへと繋がっていきました。



長期のレコーディングでYOSHIKIが再び倒れる
アメリカ・ロサンゼルスでの長期レコーディングで、またYOSHIKIが倒れてしまいます。
Xの「STAB ME IN THE BACK」のレコーディング後に頚椎の異常を訴え、以降のレコーディングスケジュールは大幅に延期。
約1ヶ月近ドクターストップのため、YOSHIKIはドラムを叩くことができないでいました。
YOSHIKIが不在ながら、他のメンバーは何とかレコーディングを進行していった。しかし、レコード会社からは1991年7月のリリースをリミットとされた為、他の高速ナンバーや「ART OF LIFE」などのレコーディングを断念。
無念のまま日本へ帰国します・・。



日本へ帰国、アルバムリリース。
同年6月約7ヶ月のレコーディングを終えて帰国
成田国際空港には1万人近いファンが詰めかけ、警察も出動する騒ぎになる。
この日、一部のレコーディングがまだ終わっていなかったTOSHIとYOSHIKIは
他のメンバーと一緒に帰国することが出来なかったが、6月7日に帰国した。
7月1日アルバム「Jealousy」をリリース。
オリコンチャート1位を記録し、ミリオンセラー突破。



全国ツアーがスタート 初の東京ドーム公演
その同年8月8日から新潟産業センターを皮切りに“Violence in Jealousy Tour~夢の中にだけ生きて~の全国ツアーがスタート。
そして翌月、初の東京ドーム公演を果たします。
また新宿の小田急ミロードに「X SHOP JEALOUSIX」を期間限定で出店、日清食品から「カップヌードルX味」が発売。
さらに紅白歌合戦出場など、Xは日本を代表するバンドとなっていきました。



全国ツアーでYOSHIKIまた倒れる。
横浜アリーナで、ドラムソロの最中にYOSHIKIがまた倒れ、コンサートは中断その後の公演は延期されました。
1991年11月から横浜アリーナ公演からツアーが再開。その後12月8日NHKホールにて『X with Orchestra』開催
フルオーケストラとの共演ライヴを実現。
そして12月20日でViolence In Jealousy Tour FINALでは日本武道館でのFILM GIGを開催
8月から全国9カ所15本全てSOLD OUTのツアーの様子が大スクリーンに映し出された。
しかも、2度目のアンコールでスクリーンが落ちると、そこでは実際にメンバーが演奏しているというXならではの「何が起こるか分からない」ハプニングもありました。



前人未到の東京ドーム3DAYS公演
翌年1992年1月5、6、7日には日本人アーティストとして前人未到の東京ドーム3DAYS公演を発表しかし、当時YOSHIKIがコンサートで倒れる事が多く、3日間連続は無理と言われていました。
みんなから心配される中、奇跡的に3日間のコンサートは無事大成功に終わりました。



ベースのTAIJIが脱退
東京ドーム公演大成功など順調に活動していましたが、この時YOSHIKIとTAIJIの間には溝ができていた。
詳しい事はわかりませんが、東京ドームの最終公演でTAIJIが脱退しました。
その後、Xに更なる試練が襲いかかります。



レコード会社「ソニー」との契約解除
同年3月、ソニーミュージックエンタテインメントから「YOSHIKIの我が侭にはこれ以上つき合えない」といった理由で、メジャー契約の更新を拒否され、レコード会社と解約という形になってしまいました。またXは所属レコード会社、所属事務所(マネジメントもソニーが丸抱えだった為)何もかもすべて無くなってしまいました。

解約の理由は、1991年リリースされたアルバム「Jealousy」のレコーディングにおいて、YOSHIKIの頚椎にトラブルが発生して、ロサンゼルスでのレコーディング期間が大幅に伸びた結果、費用が膨大なものとなったことが一番の原因だと思われます。
さらに「Jealousy」に収録される予定だった「Standing Sex」や「ART OF LIFE」などのレコーディングを国内で続行すると共に、世界進出を計画。
費用対効果の面を考慮してもソニーの経営状況はもう限界だったとされます。



新メンバー「HEATH」の加入そして、世界進出
契約が切れてしまったXは、新しいレコード会社と契約と同時に、新たなベースをオーディションをしながら探していきました。
その後1992年夏、世界進出を果たすべくアメリカで「タイム・ワーナー」(当時)の「アトランティックレーベル」、日本では「MMG」「後のイーストウェストジャパン、現在はワーナーミュージック」と契約します。同時に新たなベース「HEATH」の加入も発表されました。
またXをXJAPANに改名。
これはアメリカ・ロサンゼルスに同名の「X」というバンドが存在し、その担当者の弁護士から講義があった為、バンド名をX from Japanとし、その後fromをつけることをやめ現在のXJAPANというバンド名になりました。



長期の地獄レコーディング「ART OF LIFE」
ワーナーとの契約が済んだX JAPANが最初に取り組んだのが、「Jealousy」に収録できなかった「ART OF LIFE」のレコーディング。
1990年夏の時にデモテープは出来上がっていましたが、TOSHIのヴォーカル録りが難航。
3年後の1993年8月にリリースされました。



X FILM GIGS 1993~VISUAL SHOCK 攻撃再開~全国開催
その同年1993年7月から調布グリーンホールを皮切りにフィルムコンサート「X FILM GIGS 1993~VISUAL SHOCK 攻撃再開」が全国で開催。
本人不在のフィルムコンサートにかからわず、チケットが次々とソールドアルトとなり、全国で何万人も動員したフィルムイベントとなった。



国内初!カウントダウンコンサート公演
日本のアーティストとしては初めて、大晦日カウントダウンコンサート
東京ドームにて『新型エックス第一弾 日本直撃カウントダウン X JAPAN RETURNS』開催!



世界進出アルバムのリリースを断念
実は「Jealousy」に続くアルバムは世界進出アルバムとしてリリースされるはずでした。
しかし、TOSHIの英語発音の問題など、他のメンバーがあまり乗り気でなかった理由で、YOSHIKIは「DAHLIA」での全世界リリース(「DAHLIA」英語盤の製作)を断念しました。
またその長期にわたるレコーディングはワーナーとの関係をも悪化させ、アルバムレコーディングで経費がかかりすぎるとして、レコーディング費用捻出の為に、仕上った楽曲を片っ端からシングルとしてリリース。
それでも費用が掛る為、YOSHIKIはフェラーリを売却し自腹でX JAPANのレコーディングを続行しました。

それとは反対に、フィルムコンサートが開かれたり、X JAPANブランドのコンドーム発売、UFOキャッチャー人形のキャラクター化
セガサターン用ゲーム発売、フォーミュラ・ニッポンへの参戦、ユネスコ主催の奈良東大寺ライブへの参加
年末の東京ドームライブ青い夜、白い夜公演では、ライブハウス時代の何百倍という入場者にも関わらず、入場者全員に新曲デモテ-プ『Longing ~跡切れたmelody~』をプレゼントするなど、紅白への連続出場等々
アルバムがリリースされない状況下でも様々な活動がありました。



DAHLIA TOUR全国的にスタート。しかしまた
3ndアルバム「DAHLIA」のレコーディングが終わらぬまま、1995年11月、アルバムが未発表にもかかわらず全国ツアー「DAHLIA TOUR1995-1996」をスタートします。
YOSHIKIの体調を考慮して、基本的に1~2週間に1個所で2daysという日程だったにもかかわらず1995年12月、仙台公演2daysが中止。
翌年1996年3月14日、名古屋レインボーホールでYOSHIKIが紅の演奏後倒れて、診断の結果、頸椎間板ヘルニアと診断されこの公演は中止。
その後の公演も中止され、18公演中7公演が中止という最悪な結果となってしまいました。



長期のレコーディング終了しアルバムリリース
約5年に渡るレコーディングが終了し、1996年11月4日オリジナルアルバム「DAHLIA」がリリース。
しかし全10曲中7曲までがシングル、そして結果的にこれが最後のアルバムとなりました。
多分YOSHIKIはこのアルバムに収録されている曲をシングルでリリースしないでそのままリリースしたかっただと思います。
結局世界進出のアルバムはリリースできませんでした。



東京ドーム復活の夜 無謀な夜
その翌年1996年12月30日31日東京ドームで復活しました。YOSHIKIの容態が心配されましたが、首にコルセットを巻きながらも圧倒的なテンションで復活。
この時楽屋では、TOSHIとYOSHIKIがいろいろと話し合ったそうです。
詳細はわかりませんが、この時にはもうTOSHIは脱退を考えてたんだと思います。


TOSHIが脱退
1997年4月20日にボーカルTOSHIが脱退しました。
脱退の理由は、いろんな事が言われていますが
僕が思うには、相当自分に無理をしていたのだと思います。
本当の自分を見つけた時には、ここが自分の居場所じゃないと思ったのだと思います。

メンバーはかなり辛く、TOSHIのボーカル抜きではとてもじゃないけど、続けられなかったそうです。
そしてメンバーで何度も話し合った結果、解散をする事を決めました。



1997年9月22日XJAPAN解散
そして緊急記者会見が行なわれ、XJAPANは解散しました。
この事は衝撃的で社会現象にもなりました。



1997年12月31日最後の夜
XJAPAN最後のライブ。
本来はTOSHIは参加せず4人で行う予定だったらしく、でもHIDEがYOSHIKIを説得させて5人で行う事になったみたいです。
またメンバー全員でのリハーサルはしなかったそうです。
またリハーサルでは、YOSHIKIとTOSHIは一言も交わさなかったそうです。
そして最後にYOSHIKIがTOSHIに一言、今凄くムカツいているけど、明日は綺麗に終わろうねと言ったそうです。



1998年5月2日HIDEの新たな旅立ち
午前7時頃に、HIDEが天国に行きました。
警察の発表では自殺となっていますが、事故死以外では考えられません。
また何処かで会いましょう。HIDE。



2000年XJAPANは再結成するはずだった!?
1997年にHIDEの提案で一時解散して2000年までに新たなボーカルを入れて
XJAPANを再結成しようと決めてたそうです。
しかし1998年にHIDEの急死で再結成は幻となりました。



X~XJAPANの軌跡そして第二のXJAPAN~VIOLETUKへ
TOSHIの脱退,XJAPANの解散、HIDEの他界
この事に、本当にYOSHIKIは相当辛かったと思います。
もしHIDEを誘ってなかったら、Xが存在しなかったらとか
などなど、いろいろ考えたそうです。

約2年間のブランクを得た結果が、過去は未来でも変えられる。
たとえ辛い過去があっても新しい未来で変えられる。
X~XJAPANがあるからこそ次の未来があるんだと語っていました。

そしてXJAPANではできなかった世界進出。
YOSHIKIの最大プロジェクト第二のXJAPAN~VIOLETUK
新たな始まりと歴史が始まろうとしています。
新たな未来で過去を変える為に・・・・


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