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人と地球にやさしい生活

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1.醤油のまち、野田





房総をしらべる


1. 醤油のまち、野田


  東武野田線野田市駅のホームに降り立つと、醤油の香りが風に乗ってくることに気がつきます。駅前は、普通の駅で見られるような商店街がなく、少し殺風景な印象さえ受けます。

  野田市市民会館は、一見旧いお屋敷で、市民会館とは気がつかずに通り過ぎてしまう建物です。この市民会館は、キッコーマンの始祖の一つである茂木(もぎ)家の茂木佐平治邸として大正13年に建てられたものです。昭和31年に当時の野田醤油(株)を経て市に寄付され、開館しました。国の登録文化財となっており、緑の多い庭園に囲まれた純和風の建築物で、庭園には茶室もあります。

  同じ敷地内に野田市郷土博物館があります。昭和34年に開館した県内で最初の本格的な博物館です。主な展示・収蔵品は、醤油関係資料、郷土に関する歴史資料や民俗資料、市内遺跡から出土した考古資料などです。なかでも、醤油関係資料の豊富さは他に例がありません。

  あらためて、野田はキッコーマンの企業城下町、「醤油のまち」だと実感します。


  伝承によれば、野田で醤油が初めて造られたのは永禄年間(1558~1569)と言われ、飯田市郎兵衛が醤(なめ味噌)の豆油を清澄する方法を発見しました。川中島合戦に際し、武田方に溜(たまり)醤油を納め、その味が兵の士気を奮い立たせたので、「川中島御用溜醤油」と称したということです。

  愛宕駅の近く、天正年間(1573~1592)に飯田家の工場「亀屋蔵」があった跡に「野田の醤油発祥地」の記念碑が建てられています。

  しかし、房総の醤油の歴史は、すなわち江戸への醤油供給の歴史であり、記録では野田よりも銚子の方が早く始まりました。飯沼村の名主田中玄蕃が元和2年(1616)、摂津国西宮の商人、真宜(さなぎ)九郎右衛門の勧めで溜醤油を醸造し、江戸でヒゲタ印の販売を始めました。

  一方、野田では、寛文元年(1661)、上花輪村の名主高梨兵左衛門が造り始めたのが最初で、続いて翌年に茂木七左衛門が味噌醸造に着手した後、宝暦3年(1753)醤油に転業ました。

  1650年頃までに利根川を中心とする河川水路が整備され、銚子の醤油樽を積んだ高瀬舟が利根川・江戸川を行き来するのを指をくわえて見ている手はないと思ったのでしょう。

  天明元年(1781)に、高梨家と茂木・大塚・柏屋・杉崎・竹本・亀屋の六家が野田醤油仲間を結成しました。翌年、茂木七左衛門の分家茂木佐平治が穀商から醤油醸造に転業し、後に埼玉県二郷半領皿沼村の油屋鈴木万平の考案と伝えられるキッコーマン印を出しました。

  文政7年(1824)には、関東八組造醤油仲間の一つである野田組は19軒を数え、野田郷周辺の富農層も加わっています。この背景には江戸の隆盛があり、それまでの京・大阪からの下り醤油に替わって地廻醤油が消費されるようになりました。

  醤油の原料は大豆と小麦です。これに、塩・糀・仕込みの水、燃料の薪炭や樽の材料などが必要です。野田では常州霞ケ浦周辺の大豆と、小麦は主に相州産のものを用い、塩は良質な行徳塩を使用したといいます。これらの原料を買い集め、醤油を江戸に送るために、河川水運は不可欠でした。利根川、江戸川沿いの銚子や野田がその生産の中心地となったのはこのためです。

  また、小麦を多用した香り高い濃口醤油は、新鮮な江戸前の魚介類と相性が良く、「江戸前の味」に欠かせないものとなりました。上方文化を離れて独自の食文化を形成しつつあった、江戸っ子の支持を得たことが地廻醤油発展の要因となったのです。

  しかし、順調に発展したかに見える醤油醸造家も、原料の高騰、問屋の一方的な見込仕切等が経営を不安定にし、経営者がたびたび交代しました。江戸期の醸造業も現在同様に浮き沈みが激しいものでした。その中で高梨・茂木一族は血縁関係を結び資本や経営を援助しあって三百有余年間連綿と続いています。


  上花輪歴史館は、高梨本家の屋敷全体を博物館としたもので、次のような挨拶文があります。

  「上花輪歴史館は、上花輪村に古くから居住した江戸時代には当村の名主であり、また醤油醸造を家業としていた高梨兵左衛門(ひょうざえもん)家が、永年に渡って保存してきた歴史的価値の高い居宅・庭園・土蔵・屋敷林・社祀等と、その中に収蔵されていた生活用具・醸造用具・地方文書・醸造文書等を一般に公開して、郷土の歴史と文化を研究する一助にしていただきたく、平成6年に開設いたしました。(後略)」

  同館は平成6年に千葉県の文化財(名勝)に指定され、平成13年には国の文化財(名勝)の指定を受けました。

  明治に入ってからは、高梨・茂木両家の醤油醸造はますます盛大となり、明治14年に茂木佐平治の主唱によって、醤油販売を目的とする東京醤油会社が設立されました。明治20年(1887)には野田醤油醸造組合を結成しました。また、資力を活用して地域社会の発展にも寄与し、野田商誘銀行や野田人車鉄道、野田病院の設立、水道施設の敷設などを行いました。

  大正期には、第一次世界大戦による大戦景気の中で醤油業界も好況に恵まれ、大正6年には、茂木・高梨一族八家合同による野田醤油(株)(キッコーマンの前身)が誕生しました。キッコーマン以外でも、天保期に創業したキノエネ醤油(株)をはじめ、各醸造企業が順調に発展しました。

  野田醤油(株)の往時を偲ぶものとして「興風会館」が健在です。流山街道沿いに建つ同館は、その凛とした風格のあるたたずまいから、訪れる者の目を引きます。地下1階、地上4階の建物は、醤油醸造家の資産保全会社千秋社が昭和4年、総工費15万円をかけて竣工したものです。ロマネスクを加味したルネッサンス風の建築様式で、国の登録文化財に指定されています。

  当時、第一次大戦後の恐慌のさなか、野田醤油(株)では218日にわたる大争議が起こり、社内はもとより町中も騒然となっていました。この労働争議では、殺人未遂1件、傷害20件を含む42件の事件が発生しました。

  会社側はこれを機に、地域社会に利益の一部を還元して社会事業を展開しようと、昭和3年、財団法人興風会を設立。その活動の拠点となったのが、翌年竣工した興風会館です。

  会の活動は、教化(講演会、映画会など)・図書館・救済保護(貧困罹病者救済、少年少女職業紹介など)・保健・民衆娯楽・育英事業を中心に行われました。


  野田醤油(株)がキッコーマン醤油(株)と社名を変えたのは昭和39年のことです。遅いように感じられますが、これには逸話があります。社長茂木啓三郎の日経版「私の履歴書」によると、「昭和35年渡米の際ある人が『なるほどキッコーマンが大きな醤油メーカーだということはわかったが、お前の会社は株式上場してないじゃないか』という。『上場している』と言っても信用しない。『日本には、もうひとつ大きな醤油メーカーで上場しているのがある』『なんだ』と聞くと『野田醤油だ』という。野田醤油とキッコーマンが一致しないのである。私が社名改正を決意したのは実はそのときである」と書かれています。

  野田の主な見所にふれてきましたが、もっと醤油のことを知りたいという方には、野田市駅近くキッコーマン工場内に「もの知りしょうゆ館」があります。平成3年に開設され、工場見学もできます(要予約)。

  また、平成11年には、同社創立80周年の記念事業の一環として「キッコーマン国際食文化研究センター」が興風会館の隣に設立されました。展示内容は、醤油造りの技術、世界の家庭料理、醤油の輸出の歴史のほか、醤油の容器について大変充実しています。


(参考)
・市山盛雄,「野田の醤油史」,崙書房,1980.
・川名登,「郷土千葉の歴史」,ぎょうせい,1984.
・小出博,「利根川と淀川」,中公新書,1975.
・野田商工会議所ホームページ( http://nodacci.or.jp/ )
・キッコーマンホームページ( http://www.kikkoman.co.jp/soyworld/museum/ )







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