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人と地球にやさしい生活

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4.落花生





房総をしらべる


4. 落 花 生


  千葉から手土産を持って行くとしたら、まず落花生が思い浮かびます。ちょっとつまむのにも良いし、値段も手頃で、文句なしの千葉の特産品です。初めての訪問先でも、薀蓄を傾ければ話題に事欠くことはないでしょう。  平成17年の収穫量を見ると、千葉県は全国の75%を占め、2位の茨城県の5.5倍もあってダントツです。代表的な産地である八街市のホームページを見ると、トップページに「ピーちゃん、ナッちゃん」というかわいいキャラクターが登場します。八街市が力を入れている様子が見てとれますが、実は、日本での落花生栽培の発祥地は八街ではなく九十九里平野地域でした。

  落花生は、「南京豆」と呼ばれるように、南米原産の南蛮渡来の作物です。南京豆の名称は江戸時代からあったようですが、国内で一般に栽培されるようになったのは、明治に入ってからのことです。

  明治9年2月、山武郡南郷村(現在の山武市成東)の地主総代になった牧野万右衛門は、商用で横浜へ出かけたときに、落花生の情報を耳にしました。気候さえ暖かければ地味がやせていても育つこと、栽培に手間がかからないことなど、落花生が南郷村の風土に適した作物であることをさとった万右衛門は、横浜の中国商館主・羅謙帝氏を訪ね、落花生の種子を分けてくれるよう申し入れました。

  運悪く現品の手持ちはありませんでしたが、その前年に相州三浦郡中里村(現在の神奈川県逗子市)の人に分けたと聞きました。万右衛門は、その日のうちに横浜から汽船で中里村へ向かい、二日がかりで目的の人物をさがし当てたそうです。万右衛門は、大枚1円を支払って二升五合の落花生の種子を手に入れることができました。

  故郷に帰った万右衛門は村民に落花生づくりを勧めましたが、縁起の悪い作物だとして、誰一人手を出そうとする者はいません。地上に咲いた花が、あたかも死人のように地中に入り、暗闇で実を結ぶから、と言うのです。人々は、ただ顔を見合わせているばかり。

  万右衛門は、ただ一人、種子を畑におろしました。その年は気候も順調で、落花生の試作は成功しました。これが千葉県における落花生栽培の始まりであり、南郷村は落花生栽培の適地であることが示されました。

  明治政府の殖産興業政策に応じて、千葉県令柴原和が落花生栽培の奨励に乗り出したのは、その翌年の明治10年のことでした。万右衛門の成功をふまえてのことだったと思われます。

  千葉県は明治10年4月、区長・戸長宛てに、次のような内容の通達、「落花生貸渡培養方」を出しました。

「落花生は他の作物より成熟の期間は長いが、粗悪の土地でもよく生育し、一作で他の作物の2倍の利益があがるため、開墾新畑などに試作したい。ことに落花生油は西洋人の好むイワシの油漬に適するので、有利な輸出品になる。当県のように沿海でイワシが多くとれる地において、イワシの油漬の生産をひらくならば、落花生の需要は大となり、その栽培によって、これまでになかった利を収めるであろう。このように落花生は、県下において最も有利な作物である。希望する者には種子を貸し渡すから氏名、希望数量を報告せられたい。なお、貸し渡した種子の収穫の終わった後、その数量に2割を加えて11月までに返納するように」

  しかし、落花生の貸付けを始めた明治11年の10月に、県は次のような通達を出すことになりました。

「希望者に落花生を貸し渡し、いま収穫の季節を迎えたが、落花生は、これまでなかった作物であるため、食用にする方法もわからず、販売することもできず、腐らせてしまった者の多いのは、惜しいことである。本年に限り、粒実1斗につき50銭で買い入れるので、売却を希望する者は12月10日までに、千葉勧業試験場へ持参するように」

  千葉県の施策は、イワシの油漬の生産が抜け、片手落ちだったようです。

  ここで、落花生栽培の先覚者として、もう一人の人物、匝瑳郡鎌数村(現在の旭市)の戸長、金谷総蔵が登場します。

  総蔵が県から種子の貸し渡しを受けて自分の畑で試作したところ、予想以上の収穫がありました。

  鎌数村は、江戸時代から始まった椿の海の干拓事業にもかかわらず、作物といえばサツマイモが主で、農民の貧困は南郷村と変わりませんでした。これを救うには落花生が良いと総蔵も考えました。

  総蔵は、椿新田の琴田、入野、米込、小川、春海などの村々をまわって農民に落花生の収益の良さを説き、「落花生蒔付連名簿」を作りました。この名簿には、種子と肥料(干鰯)とを無利子で貸し付け、収穫の時に返す旨の約束が書かれていました。しかし、「連名簿」に署名した農民の中にも、肥料を他の作物に使ってしまうなど、落花生の栽培にまともに取り組む者は少なかったといいます。

  秋になり、総蔵は、前もって落花生の引き取りを約束していた東京市神田区田町の穀物問屋、田中重兵衛に落花生を届けました。この売買で、総蔵は他の雑穀類の数倍の利益を上げることができました。

  落花生が儲かった、といううわさは、たちまち広がり、農民たちは争って、その種子を求めるようになりました。明治15年11月に東京で開かれた農産物共進会に、この地方から落花生が出品されました。これを機に、落花生づくりは九十九里平野に急速に広がり、その土台を固めたのです。

  明治17年、金谷総蔵の功績をたたえて、鎌数村の人々によって石碑「干潟郷落花生記」、通称「落花生記念碑」が鎌数伊勢大神宮の境内に建てられました。

  明治22年7月、千葉県落花生商業組合が設立され、初代組合長に牧野万右衛門を選出しました。万右衛門は、落花生だけでなく、養蚕・製糸業など地元産業の発達にも尽くし、千葉県蚕糸業組合や千葉県山武郡肥料商組合を結成して、その組合長にもなりました。万右衛門は成東で「農業の父」と呼ばれています。

  二人の先覚者の努力によって、海上・匝瑳・山武各郡の砂地畑の多い九十九里平野地域が、初めに落花生の主産地となりました。

  明治20年代になると、落花生は下総台地の開墾畑に導入され、未熟土によく育つことから栽培が広まりました。明治期の後半から落花生の主産地は八街、富里へと移っていきました。

  印旛郡の開墾畑地帯は、明治初年の小金・佐倉両牧の開墾事業によって、大半が大地主の所有となり、小作地率は県下最高でした。畑地の小作料は、水田と異なり金納だったので、畑作は換金作物が中心となりました。そのため、栽培に手がかからず、保存がきいて、加工のできる落花生が定着、拡大したのです。

  第二次大戦中、落花生は不急作物として栽培が抑えられましたが、昭和26年に雑穀類の作付統制が解除されると、落花生の作付面積は急速に広がり、毎年増え続けました。

  中でも八街での発展は著しく、落花生の中心地としての地位を不動のものとしました。その原動力のひとつに優良品種、「千葉半立」の登場があげられます。

  干葉半立は、昭和21年に千葉県農業試験場が印旛郡八街町と千葉郡誉田村で従来品種と草型の違った半立種を収集し、その純系分離によって育成したもので、昭和28年に千葉県の奨励品種になりました。千葉半立は中耕・培土や収穫が容易で、収穫時期が遅いものの、風味・こく・味が優れるため、県内はもとより全国に広がりました。

  千葉県農業試験場落花生研究室は、県農事試験場のひとつで、昭和33年に現在地(八街市八街へ199)に移転しました。同研究室は、農林水産省指定試験事業として、落花生遺伝資源の収集・保存、及び全国を対象に優良品種の育成を行い、落花生の生産安定や品質・食味の向上などの研究を行っています。

  有名ブランド「八街落花生」を支える三本柱は、千葉半立と落花生研究室と地元の人々の熱意であると言えるでしょう。

  このように、戦後から拡大の一途をたどっていた落花生の生産も昭和36年をピークとして、昭和40年以降は衰退期を迎えます。高度経済成長期になり工業用地化・都市化が進むと、農家も、より収益の高い野菜類の栽培や兼業へ移行する者が多くなったからです。また、外国産の安価な落花生が多く流通するようになり、国内の落花生づくりを圧迫しています。

  落花生栽培には、野菜の連作障害の防止や地力保持などの効果があります。今後は、野菜との輪作や商品性の高い品種の栽培といった、特色ある落花生づくりが求められているようです。

  八街高校には「落花生讃詩碑」があります(昭和37年建立)。校歌を作詞した詩人白鳥省吾が、同校を訪れたとき、落花生の豊穣を讃えて即興で作った詩が刻まれています。

落花生讃
いつ知らず
葉は繁り
花咲きて
人知れず
土に稔りぬ



(参考)
・北野道彦,「落花生の話」,崙書房,1979.
・川名登編,「郷土千葉の歴史」,ぎょうせい,1984.
・荒川法勝編,「千葉県歴史人物」,暁印書館,1988.
・八街市ホームページ, http://www.city.yachimata.lg.jp/ .
・農林水産省統計資料.







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