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日本は変われない

◆日本は変われない 知日派米国人からの直言


日米関係にすきま風が吹いている。

安全保障面はもちろん、経済面でも強く結びついてきた両国関係は、今後どうあるべきか。日米関係に詳しい識者、財界人に聞いた。

5回目は、ニューヨーク大学のエドワード・リンカーン教授。日米関係を安全保障ではなくビジネスの視点で語れる知日派の重鎮に、その日本観を聞いた。

(聞き手は、ニューヨーク支局=水野 博泰)

エドワード・リンカーン氏
米ニューヨーク大学日本経営経済研究所長
米エール大学で経済学および東アジア研究で修士号、同大で経済学博士号(PhD)を取得。1990年代半ばにはウォルター・モンデール大使の特別経済アドバイザーとして駐日米国大使館に勤務。中道系シンクタンクであるブルッキングス研究所、国際問題評議会(CFR)を経て2006年から現職。

── 日米関係の状態をどう見ていますか。

リンカーン まず、プラス面、少なくともマイナスではないところから。

私は日本財団の米国側顧問を務めていて、米国の大学から日本財団に提出される補助金申請の審査をする立場にあるのですが、申請数の多さに驚いています、去年は60以上の申請がありました。どの申請にも学部学生を対象とした日本語クラスを増やす計画が盛り込まれていて、教員を増やすための予算を求めているのです。

つまり、日本について学びたいという興味は依然としてあるということです。中国への興味はもっと急速に高まっているのかもしれません。だからといって、日本への興味が著しく低下しているわけではないのです。もちろん、高校によっては日本語クラスの数を減らしているところもあるようですから、一概には言えません。

30~40年前に比べて、日本は目立つ存在になっています。15年前よりは落ち着いたかもしれませんが、誰も日本のことなど気にかけていなかった1970年代に比べれば全く違います。

次は悪い面。それは、日本が退屈な国になったことです。

日本にはニュースがなく、退屈なのです

1970年代後半から80年代にかけて、米国にとって日本は「脅威」であり、学ぶべき「お手本」でした。「日本車を米国から締め出せ!」と叫ぶ人もいれば、「ワオ、産業政策は素晴らしい、米国も産業政策を打ち出すべきだ」と言う人もいました。極端でしたね。日本は「狡い」か「凄い」かでした。たくさんの議論が巻き起こり、新聞やテレビもたくさん取り上げました。

80年代後半には日本はバブル経済の絶頂を迎えました。皇居の敷地が、カリフォルニア州の不動産全部よりも価値が大きいなどということが真顔で語られていましたよね。皆が驚きました。「どうなってるんだ!」とね。日本経済は年5%も成長し、不動産や株式市場は30%という高成長を続けていました。「ワオ!」と叫びたくなりますよ。

そして90年代の「失われた10年」──。ニュースは一転して、日本の失敗を報じました。ビル・クリントン政権との間で緊迫化していた貿易摩擦問題に火がつき、一連の交渉を重ねる中で緊張が高まり、それがまた大きなニュースになりました。

さて、1997年以降、何か起きたでしょうか。ずばり言えば、何もありません。日本に関するニュースは米国でほとんど報じられなくなりました。景気が回復したと思ったら、また後退し、また回復したと思ったら、デフレに突入…。政治も揺れ動きました。米国の新聞に載る日本の話題はめっきり減り、米メディアの東京支局は記者を減らして、中国に移しました。ますます、日本のニュースが米国に伝わらなくなりました。日本では素晴らしいことも、とんでもなく悲惨なことも起きない。ニュースがなく、退屈なのです。

── トヨタ自動車のリコール問題は久々の…。

リンカーン そう、そう、そう、やっと日本の大ニュースが戻ってきた。私の所にもテレビや新聞の記者が来てインタビューをしていきました。残念ながら、また悪いニュースでしたが、米国人の多くが、「トヨタの品質をずっと信頼していたのに。いったい、どうなってしまったんだ」と驚き、戸惑ったのです。

分野にもよりますが、日本は米国内で「インビジブル(見えない)」になっているように感じます。携帯電話のような製品では全く存在感がありません。最近話題になり始めている電子ブックでもそうです。日本メーカーで製品を投入しているのはソニーくらいで、ほかのメーカーの姿は全く見えない。テレビや「ウォークマン」を売りまくった輝く日本はどこにも見あたらないのです。公聴会に出席したトヨタの社長の姿は痛々しいだけでした。

イノベーション(技術革新)や画期的な製品作りの面で、米企業は自信を取り戻し始めています。1980年代の米国人は、ソニーのウオークマンに驚愕し、「新奇で、素晴らしいアイデアを持っているのは日本人であって、米国人ではない」と意気消沈していました。

でも、電子ブックを見てください。新しい行動スタイル、新しい読書の形を提案して、革新を先導しているのは米アマゾンや米アップルなどの米国企業です。

── 米国企業の復活もそうですが、韓国企業や中国企業の成長の勢いに日本のビジネスマンは面食らっています。10年前には韓国や中国の企業がこれほどうまくやるとは思わなかった。彼らは日本を真似しているだけだから追いつくはずがないと。技術の核心のところは真似できるはずがないと。

リンカーン それはまさに、50~60年代に米国人が日本に対して抱いていた考えと同じです。日本は米国の真似はできるが、発明はできないと。ところが70~80年代には明らかにそうした考えが間違いだったことに気づきます。「ワオッ!ソニーのウォークマンはすごいぞ」と心底驚いた。

そして、80年代の米国人は自分自身に対して疑問を持つようになりました。今の日本人のようにです。我々のビジネスモデルは正しいのか。日本に追い越されて没落していくだけのかと自問自答を繰り返します。

その結果80~90年代を通して起きたのは、米国のビジネス構造の再編・再構築でした。例えば、組織階層を大幅に減らしました。中間管理職をなくして、組織をフラットにしました。経営学者もこぞって理論的な後押しをしました。

日本企業が大変身しつつあるとは思えない

米IBMは「メーンフレーム」と呼ばれた大型汎用コンピューターで成功した企業でしたが、もうそのビジネスから利益は生まれないと見切りをつけた。ハードウエアを捨てて、ソフトウェアとサービスに徹するという方向転換を断行したのです。パソコン事業も中国企業に売却してしまいました。

シスコシステムズもそうですね。シスコはネットワーク機器の最大手ですが、彼らは「製造」はやりません。最先端技術の開発、製品設計、他社との協力関係の構築、ブランド力の維持と強化に特化しているからです。

日本の製造業には依然として“ケイレツ”があり、企業と企業の長期的な関係を大切にしますが、シスコはその逆を行きました。

「2時間の会議で条件をクリアできるかを確かめて、契約書にサインすれば、直ちにスタートできる。5年も10年もかけて“カンケイ”を作る必要はないし、そもそも、そんな悠長なことはやっていられない。我々の品質基準をクリアできなければ、ほかの業者を探すまでだ」

シスコはそう割り切ったわけです。

日本の勃興を前にして愕然とした米国人は、「他国の企業にできることは彼らに任せて、我々はもっと付加価値の高いビジネスをやるべきだ」と悟り、それを実行しました。

ところが、中国や韓国の急成長を前にして、日本企業が大変身しつつあるかというと、そうは思えないのです。

── 「韓国企業に学べ」という謙虚な声は聞こえてきます…。

リンカーン ですが、かつての日本のように下から追い上げてくる韓国や中国を知恵を使って突き放そうという気概に欠けています。

日本の役人や企業人に日本の強みは何かと聞くと、いまだに「モノ作り」という答えが返ってきます。日本は何が得意ですか?モノ作りです──とね。

でも、モノを製造するのが得意なのは日本だけではありません。そろそろ現実を直視したほうがいい。日本人だけがモノ作りの特殊な才能と技能を持っているわけではありません。韓国や中国、それに米国にだって良いモノは作れます。人件費の安い国に移っていくのは製造業の宿命です。設計やデザインに技術者をシフトさせるべきなのに、そういう声はほとんど聞こえてきません。

もう1つ心配なのは、日本の国際化が足踏みしているように見えることです。1985年以降に円が急騰したことで、多くの製造企業が海外に工場を移しました。海外工場を立ち上げて、軌道に乗せるために、多くの日本人マネジャーが海外に散りました。あれが日本の国際化への第一歩でした。

同時に海外で学ぶ日本人学生が急増しました。円はたった2年で1ドル260円から130円に上がりました。つまり米国の学費が半分になったのです。しかも、留学すれば日本企業が必要としているスキルを身につけることができて就職にも断然有利でした。85年に米国で学ぶ日本人留学生は約1万2000人でしたが、2000年には約4万7000人にも増えました。

教室で一度も発言しなかった日本人学生

ところが、今年は約2万9000人にまで減りました。ニューヨーク大学のスターンスクール(経営学修士コース)には、15年前は年間40~50人の日本人学生が留学していましたが、今では4~6人しかいません。10分の1です。その代わりにインド人学生と中国人学生が急増しました。

中国、韓国、インドからの学生は大変社交的で、積極的です。学生どうしの友達ネットワークを作って、自分たちの国に帰っていきます。

日本人はとても“静か”です。私は過去3~4年、学部と大学院で数人の日本人学生を教えましたが、学期を通して、教室で一度も発言をしませんでした。

── すみません…。

リンカーン 私がわざと日本に関わることを話したり、議論を吹っかけたり、「サトウさんはどう思う?」と指名しても、ダメです。完全な沈黙です。インド人学生なら次から次へと質問を投げかけてきます。

── それは英語での会話能力の問題でしょうか。

リンカーン 英語力はもちろんですが、教育システムの違いも大きいと思います。日本人学生は、発言すること、質問すること、議論すること、教授が話していることを疑うことに慣れていません。

ビジネスとは社会的な相互作用の上に成り立っています。その成功は管理職や社員がチームとしてうまく動けるかにかかっています。ですから、米国のビジネススクールでは、誰とチームを組んでもうまくやれるように鍛え上げます。クラスごとにメンバーを入れ替えてグループを作って議論をする。よく知らない相手とも、気楽に、力まず、社交的に、それでいて結果を出せるように訓練している。

日本は違います。長期間にわたる徒弟関係が規範です。大学を出てすぐに企業に就職すると、まず1年かけて新人研修です。社内の各部署を回り、講義を受け、業務紹介のビデオを観て、郊外の研修所に何カ月も送り込まれたりする。その後、専門部署に配属され、そこから35年間という長期にわたる関係作りが始まります。

顔をよく知った人たちとの相互関係を持ち続けることによって信頼が作られ、会社や組織への忠誠心が養われます。飲み会などを含めて付き合いの幅が広がり、だんだんと心を開くようになり、情報を共有し、自分の考えを皆に話すようになる。そういうプロセスがありますよね。

日本人留学生が“米国流”を身につけて帰国しても、会社では「うちは日本企業だから日本流でやる」と言われて終わりです。日本の金融機関から企業派遣で留学してくる日本人学生は、「帰国後3年以内に自己都合で退職したら、留学費用は返済する」と約束させられるようです。

彼らは帰国後、3年間一所懸命働きます。でも米国で身につけたスキルを生かせる機会がない。少しずつ不幸になっていき、3年後には会社を辞めて外資系に転職してしまう。

企業派遣のMBA(経営学修士)留学生が減っているのは、そうした事情もあるかもしれません。日本企業は、米国の大学に社員を送り出しておきながら、米国流に育って戻ってきた社員を受け入れられないのです。社員は会社に縛られているように思えてしまい、結局、お互いにすれ違ってしまう。

── ところで、以前、ワシントンにある中道シンクタンクであるブルッキングス研究所で日本研究の部長を務めていましたね。

リンカーン ええ。2002年までです。日本研究はもう不要だという判断が下されたのです。腹立たしいことだったし、間違った決定だと思いました。ただ、ワシントンの人々の世界観を反映しているのだなと思いました。結局のところ、大西洋の対岸と安全保障問題しか関心がないのだと。

2000年の「9.11テロ」の後、ワシントンのシンクタンクの多くが、アンチテロリズムやイラク、アフガニスタン問題に研究の重点をシフトさせました。私はそちらの方面には全く関与していなかったし、ブルッキングスは「日本経済には興味がない。北東アジアの安全保障問題には注目する」という姿勢を明確にしたのです。

私はブルッキングスを去った後、外交問題評議会(CFR)のワシントン事務所に移籍しましたが、そこでも全く同じことが起こりました。「日本の専門家は要らない」と。ニューヨーク大学に移ったのはその後です。

9.11、イラク…が日本の存在感を希薄にした

振り返ってみれば、「9.11テロ」「イラク侵攻」「アフガニスタン侵攻」がワシントンにおける日本の存在感を一気に希薄にしてしまったのだと思います。日本はプレーヤーではなかったからです。中国はキルギスタンに基地を設置することを認めました。ロシアはアフガンに兵力を送るために領空を通過することを認めました。英国はイラクへの大量派兵に同意した数少ない国でした。北大西洋条約機構(NATO)はアフガニスタン戦線の多国籍軍の公式な組織として極めて重要でした。

日本は? 何もありません。このことはワシントンで日本の影が薄くなっていくことに、いっそう拍車をかけました。日本は“ゲーム”から勝手に降りてしまったのです。

試しにブルッキングス研究所で開かれているイラク問題に関するカンファレンスに参加してみてください。「日本」という言葉は1回たりとも出てきません。イラクやアフガンで起こっていることに対して、日本は何の重要性も持たないのです。

日本人は「自衛隊がインド用で給油活動をしたじゃないか」「イラクにも駐留したぞ」と言うかもしれませんが、少なくともワシントンの人々の視界にはほとんど写り込んでいませんでした。だから、誰も日本人に話しかけない。何も話すことがないからです。日本はワシントンの視界から自ら消えていったのです。

── 日米関係に限らず、国際社会の中で、日本は変われるでしょうか。

リンカーン 多分、ダメでしょう。それほどの危機感は今の日本にはありません。そもそも日本人の多くが、現状に満足してしまっているか、未来を諦めてしまっているかのどちらかでしょう。この先、日本がガラリと変わるかと問われれば、私は「疑わしい」と答えざるを得ません。

気候変動問題を取ってもそうです。過去2年間、日本政府の役人や、日本のビジネスマンが、「日本は環境先進国なので、世界に対して教えることがたくさんあります。なにしろ過去30年間、温暖化ガスの排出を減らすために様々な努力をしてきましたから」と話すのを何回も聞きました。

しかし、だから何なのか。だから、どうしたいのか。具体的な未来の話が聞こえてこないのです。

昨年12月にデンマークのコペンハーゲンで開催されたCOP15(第15回気候変動枠組条約締約国会議)でも、日本はほとんど存在感がありませんでした。米国、欧州、中国、アフリカは、時には国益を剥き出しにして激しく議論をしました。日本はどこにいましたか? 後ろのほうに静かに座っていて、何らかの合意が見えそうになった段階で、ようやく声を上げ、「途上国を援助するための基金に1兆円出しましょう」と言った。タフな政策協議には関わらないけれどもカネは出す。日本とはそういう国なのだと見られても仕方がないと思います。

その時、日本人は何と言うのでしょうか

40年以上続いている日米財界人会議も、意義が薄れているようです。1990年代後半には米国側からの参加者は本当に“うんざり”していました。「意味がない」「時間の無駄」「同じ事の繰り返し」「ダイナミックに何かを変えようという意欲がない」「要するに何がしたいんだ?」という不平不満ばかりが聞こえていました。

ただ会って、寿司を食べて、酒を飲んで、ゴルフをして、親交を深めていればよかった時代は、少なくとも日米関係においてはとっくに終わったのです。我々には、ぜひ一緒に取り組もうという気にさせる具体的なテーマが必要なのです。

来年の2月初め頃、新聞やテレビは「中国の2010年のGDP(国内総生産)が、とうとう日本のそれを超えた」というニュースを盛んに報じることになるでしょう。その時、日本人は何と言うのでしょうか。まさか、「よし、モノ作りで頑張るぞ!」ではないでしょうね。

過去60年、米国も様々な危機に陥りましたが、そのたびに、いつも自分たちが大きく変わることで乗り越えてきました。

1957年にソ連がスプートニクを打ち上げた時、米国人は宇宙開発競争に負けると震え上がりました。そして、技術者と科学者の教育を猛烈な勢いで推進しました。その結果、技術だけでなく、組織力という副産物も獲得しました。

80年代の後半には、「米国の経済力は地に落ち、日本にやっつけられるのを待つのみ」という危機感が国中を覆い、当時の米国人の多くが自信を喪失していました。我々は追い込まれていたのです。しかし、米国の実業界は諦めて降参することはしなかった。「我々は日本とは違うことをやるべきだ」と決断し、90年代に実行しました。

日本は今、当時の米国と同じような壁にぶち当たり、それを突破しようともがいているのかもしれません。それは日本人自身の意志で突破するしかありません。

(出典:日経ビジネスオンライン 2010年5月27日)


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