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奇跡を呼ぶボクサー

坂道や悪路を走った後には、

平地では得られないものを手にします。

一歩一歩がチャレンジで、だからこそ人生は面白い

<マイケル・ワトソン(イギリス 元プロボクサー)>

悲運のボクサー 奇跡のマラソン


 2003年4月、ロンドンマラソン。イギリスのポーラ・ラドクリフ選手が、これまでの記録を3分以上も上回る2時間15分25秒という記録でゴールし、世界中をあっと言わせたことは記憶にあるだろう。だがこの大会ではもうひとつ大きな記録が達成されていたことをご存知だろうか。
 1989年ロンドン。マイケル・ワトソン(当時24歳)は、イギリスでは名の知れたプロボクサーだった。パンチ力には定評があり、将来の世界チャンピオンとして大いに期待されていた。有名になってもマイケルは、古くからの親友レナード・バラック(当時28歳)と変わらぬ親交を続けていた。
 1965年、ジャマイカ移民の両親の間に生まれたマイケルが大親友のレナードに出会ったのは、2歳年下の弟ジェフリーがきっかけだった。幼い頃の事故で足に障害を持っていたジェフリーは、ある時から明るくなり障害も快復し始めた。

 その影には、近所に住む年上の少年レナードの支えがあったのだ。二人はそれ以来の大親友だった。
 マイケルがボクシングに出会ったのは14歳の時だった。当時の世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリに夢中になってジムに通い始めたのだ。マイケルの強さは圧倒的で、アマチュアとして輝かしい成績を残した後、19歳でプロデビューを果たした。その後も連戦連勝を重ね、私生活でも妻と二人の娘に恵まれ、充実していた。
 1989年には英連邦ミドル級タイトルを獲得し、アリのようになりたいという夢は一歩ずつ現実のものになっていた。そして1991年9月21日、念願の世界タイトルマッチに挑戦することになった。
 相手は当時最高の人気と実力を誇るクリス・ユーバンク(イギリス)。戦績は28戦全勝という輝かしいものだった。

 実はこの3ヶ月前、マイケルはクリスとすでに世界タイトルをかけて対戦していた。彼は常に試合を優勢に進め判定にもつれこみ、誰もがマイケルの勝ちを疑わなかった。ところが結果はまさかのマイケルの判定負け。この不可解な判定に抗議が殺到し、3ヶ月という異例の速さで再戦が決定したのだ。
 序盤からマイケルは積極的に攻撃し、クリスは防戦するばかりで、試合は前回と同じ展開だった。そして11ラウンド、ついにマイケルはクリスのダウンを奪った。だが、誰もがマイケルの勝利を確信した直後、マイケルはクリスの強烈なアッパーをまともにくらい、ダウンを奪われた。ようやく立ち上がったマイケルは、11ラウンド終了のゴングに救われた形となった。
 だが彼の体には重大な異変が起こっており、12ラウンドが始まると倒れこみ、TKO負けを喫してしまった。

 世界チャンピオンを目前にリングに倒れたマイケルは、試合終了のゴングが鳴っても立ち上がることはなかった。この試合の映像は、英ボクシング史上最も凄惨なシーンとして封印されているほどだ。
 すぐに救急車が呼ばれたが彼は搬送中に呼吸が停止した。また、頭を強く打っていたため一刻も早い治療が必要にも関わらず、救急体制の不備により、脳外科専門医のいない病院に搬送されてしまった。ようやく専門病院に運ばれたのは、試合が終了して1時間後のことだった。
 脳外科医のピーター・ハムリン医師が診断に当たったのだが、取り返しがつかないほど悪化していた。後頭部を強打して脳内出血が起こり、それが凝固してしまっていたのだ。すぐに緊急手術が行われたが意識は戻らず、家族は最悪の場合も覚悟しなければならなかった。

 手術は成功したのだが危篤状態がしばらく続き、家族の必死の祈りが届いたのか、ようやく目を覚ましたのは事故から40日が経ったときだった。
 彼が目を覚ましたのはまさに運が良く奇跡だったのだが、ハムリン医師は家族に辛い宣告をしなくてはならなかった。脳の損傷によりマイケルの左半身は麻痺しており、今後話すことも立ち上がることもできないというのだ。
 レナードは毎日のようにマイケルの見舞いに訪れた。普段はオフィスの内装を手がける会社に勤務し忙しく過ごしていたのだが、それでも仕事が終わると必ずマイケルの病室を毎日訪れた。
 その頃のマイケルは意識を取り戻したものの体はほとんど動かすことができず、かろうじて呼びかけにまばたきで応じるだけだった。さらに事故で記憶の大半を失っており、Tシャツの着方や歯の磨き方なども教えなくてはならなかった。

 事故から4ヶ月経った1992年1月、本格的なリハビリが始まったもののマイケルには生きる気力もなく、さらに妻は娘達を連れて家を出て行ってしまった。
 全てを失ったマイケルがリハビリに力を入れるはずもなく、レナードは彼の気持ちが痛いほどわかった。だが、そんな彼をやる気にさせる奇跡のようなきっかけが5月に訪れた。マイケルが幼い頃から憧れていた伝説のチャンピオン、モハメド・アリが彼の噂を聞きつけてアメリカから見舞いにやってきたのだ。
 マイケルはアリの姿を見ると、事故後初めて笑顔を見せた。さらにそれまで全く動かなかった左腕を持ち上げ、アリの拳に向かって動かしたのだ。
 アリと会ったことで、マイケルの体には確実に変化が起こった。リハビリの最中、あまりの激痛にマイケルはリハビリスタッフの名前を呼んだ。泣きを入れたのだ。

 それからマイケルは少しずつだが回復していった。1993年9月には退院を許され、事故以来2年振りに自宅に戻ることもできた。
 しかし元の生活に戻ると、スターだったかつての自分はもういないという現実を思い知らされた。ある日、マイケルは自分の人生を変えたクリス・ユーバンクの試合をテレビで見た。クリスはその後、14回連続タイトルを防衛し国民的な人気者になっていた。そのあまりの差にマイケルは「なぜ彼は見舞いに来ない」と自暴自棄になった。
 大きな苦悩を抱えたマイケルだったが、しばらく時間が経った時だった。レナードが会社から戻ると、ベッドから起きあがることさえ大変なマイケルが外で帰りを待っていた。そして、「僕を助けてくれ」と言ったのだ。

 レナードは「僕も言おうと思っていたんだ、君を助けたい、って。」と伝えた。そしてマイケル専属のリハビリスタッフになることを決意し、会社を辞めた。障害者援助金から支払われる謝礼はわずかだったが、レナードは構わなかった。
 レナードはリハビリスタッフとして実に優秀だった。いつ支え、いつ自立させるべきかを心得ていた。それはかつて、マイケルの弟の面倒を見ていた時に身に付けたものだった。現在39歳になるマイケルは、当時を思い出してこう話す。自分の現実を知るほどに精神的にも辛かったが、レナードがいつも励ましてくれたので前を向いて歩き出すことができた、と。
 そして事故から6年が経過した1997年、彼は再び奇跡を起こした。自力で立ち上がったのだ。

 着実に回復していく中、マイケルは安全管理が不十分であったとイギリスボクシング協会を訴えた。ハムリン医師は、あの試合の問題点はリングサイドに救命士などが配備されておらず、さらに事故が起きた時の対処もきちんと定められていなかったため、マイケルの救命までに長い時間がかかってしまい後遺症を残す結果になったと話す。
 マイケルはボクシングをもっと安全で夢のあるスポーツにしたいという使命感を持ったのだ。この頃には、クリスの記事を新聞で見ても「あれは事故だった」と言えるほどになっていた。レナードの存在が、彼の心の氷を溶かしていたのだ。
 そして2002年秋、少しずつではあるが自分の足で歩けるようになっていた。ここまでくるのに、実に10年以上の歳月が流れていた。

 マイケルの回復振りに驚いたハムリン医師は、ある提案をした。彼は脳と脊髄に障害のある人のための基金を立ち上げ、チャリティー活動の盛んなロンドンマラソンのレース中に募金活動を行っていた。マイケルがいれば士気が高まるからと、チームリーダーになって練習のメニュー作り手伝って欲しいと提案したのだ。
 ずっとリハビリに打ち込んできたマイケルが、色々な人と接して気分転換になれば、とハムリン医師は思っていた。しかしマイケルは、ただのお飾りでは嫌だから、ロンドンマラソンに自分も参加すると言い始めたのだ。
 走るのは無理だから、歩き通してみせると決心したマイケル。一生歩けないと宣告された人々に、希望を与えられるチャンスだと思ったのだ。同時に、何かをやり遂げて再び輝きを取り戻したいという気持ちも強かった。
 レナードはもちろん彼を支えることになり、トレーニングを開始した。

 一周1700メートルの公園を歩くのに、1時間以上かかった。だがロンドンマラソンまであと半年足らずしか時間はなかった。
 2003年4月13日、ロンドンマラソンが開催された。参加者は32,746名。スタートの喧噪が一段落した頃、マイケルとレナードがスタートし42.195kmの挑戦が始まった。マラソンコースを歩くマイケルの周りには、募金用のバケツを持ったハムリン医師らが同行した。沿道で応援する人々はみな、マイケルの勇気ある姿に心を打たれ、バケツに募金を入れていった。
 マイケルは順調に歩を進めた。障害のある左足を補うために、右足を徹底的に鍛えていたのだ。マイケルの近くには、応援したり握手を求めたり直接募金を渡そうとしたり、多くの人々が寄ってきた。

 彼らの応援はマイケルにとって強い心の支えとなったが、歩みは決して止めなかった。一度止まってしまうと、歩き出すのに大変な体力を必要とするからだ。足を止めて応援に応えるかわりに、マイケルは右手の人差し指を天に向けた。それは、完走への強い意志の表れだったのだ。
 スタートから2時間15分25秒、女子のトップを走っていたラドクリフ選手がゴールした。その頃マイケルは、全体の10分の1にも満たない4km付近を歩いていた。それだけでも相当体力を消耗していることは、誰の目にも明らかだった。
 ところが5km付近で車椅子のランナーが立ち往生しているのを見つけたマイケルは、足を止めて手を差し伸べた。困った人を見るとだまっていられないのだ。

 ゆっくりとマイケルは進んだ。いつゴールできるか、誰にも予想はできなかった。スタートから10時間、マイケルは8km付近にたどり着いていた。この日はゴールはるか手前で無念のドクターストップだった。
 翌日、マイケルは再び歩き始めた。大会はすでに終わり、レース用の設備は撤去されていたので歩道を歩いた。彼が一日に歩くことのできる限界は8kmだった。毎日毎日、マイケルはゆっくりと歩を進めた。長い、孤独な闘いになるはずだった。
 ところが、マイケルの歩みを新聞各社が報道し、連日のようにマスコミが彼の元を訪れた。さらに多くのサポーターもマイケルと一緒に歩いた。著名人達も応援にかけつけた。

 日没後は、近くのホテルで体を休めた。マイケルの右足は、障害のある左足をかばうために負担がかかり、水ぶくれがつぶれて出血し、さらには化膿していた。その痛みから眠れない日もあった。体力は限界に達しつつあった。
 スタートから7日目、彼は39kmを歩いていた。ゴールまであと少しのところで、マイケルがバランスを崩して倒れそうになった時があった。しかしレナードがとっさにマイケルを守って支えた。彼でなければマイケルの異変に気付き、助けることはできなかったであろう。
 ゴールまであと1km。そこで待っていたのはクリス・ユーバンクだった。かつてのライバルであり、マイケルの人生を一変させた人物。彼がマイケルの到着を待っていたのだ。

 実はこの12年間、クリスは片時もマイケルのことを忘れたことはなかった。彼の人生を台無しにした罪悪感を背負っていた。事故の直後には病院を訪れて母親に謝罪をしていた。母親の「事故だったのよ」という慰めにも、涙を流すことしかできなかった。強い罪悪感から、意識の戻ったマイケルに会うことができずにいたクリス。
 だが、マイケルがロンドンマラソンに挑戦していることを知ったクリスは、もう逃げてはいけないと、会うことを決心したのだ。
 クリスの姿にとても驚いたマイケルだが、二人はすぐに固い握手をかわし、その後はマイケル、クリス、レナードの三人で並んでゴールに向かった。それは、苦しみ続けた12年間の集大成にふさわしい光景だった。

 6日2時間27分18秒。マイケルはついにゴールした。6日間で集められた募金総額は25万ポンド(当時5340万円)にものぼった。
 マイケルのマラソンへの挑戦は、かつての自分を取り戻す旅だった。しかし、それは予想をはるかに越える人々の感動を呼び、12年間苦しみ続けてきたクリスの心をも救った。彼は不屈の精神で、再び栄光を掴んだのだ。
 実はレース中、もう一人の伴走者がいた。元バンタム級ボクサーのスペンサー・オリバーだ。彼はマイケルと同じく試合中の事故で生死の境をさまよった経験の持ち主だ。だが彼は、マイケルが起こした訴訟により講じられた安全対策のおかげで的確に救助活動が行われ、命を救われていた。マイケルの勇気ある行動はここでも実を結んでいたのだ。

 さらにマイケルはロンドンマラソンでのたぐい稀な精神力と崇高な行いを認められ、今年4月にイギリス勲章第五位を授与された。
 そして現在、マイケルとレナードは今も二人三脚でリハビリに取り組んでいる。一人での歩行も可能になり、なんと再びボクシングを始めたマイケル。ジムに戻り器具に触れるととても興奮すると話す。グローブをつけて練習するマイケルの顔には、満面の笑みが溢れていた。
 「坂道や悪路を走った後には、平地では得られないものを手にします。一歩一歩がチャレンジで、だからこそ人生は面白い」とマイケルは話してくれた。


フジテレビ 奇跡体験!アンビリバボー:04.10.21放送より



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