おいおい。
と書いて 追々 とかくのだけども、今日の自分を追っておって打つ日記。比較的余裕の出勤だったにもかかわらずなれない理解の十分でない仕事でややしくじり、しょうがない よなあと自分に言い聞かせつつがっくりしてしまった子供加減、プチ席替えに当たってしまい移動のタイミングをはやまり またがっくり。なんだかこういうことが顔に出すぎる。一方でひとの話にこころを寄せたアクションつうか思いやり行動ができない相変わらず器の狭いかんじの行動をしている自分にきづいて いやあうんあ、ちょっと落ち込み気味の退勤後、建物ヨコの車の出入り口のあたりにすずめがちちんと死んでいた。まいった。ふだんなら「ああかわいそうに!」と足早に去っているところなのだが、なにかさみしかったのだろうか、轢々としてつぶされた小鳥をおもうと ならば 、。 試みはそこいらに飛ばされてあった大きめのレシートを鳥のしたにすべらせてみたが うまくいかない。首のあたりが くん、となってしまうので ああこれは、ここで手間どうとかえってこの鳥をはずかしめることになるんだぞ!ばさばさとティッシュを取り出し足のほうをつかんでなんとか紙の上に乗せみちの脇・街路の低木が植わっていたかというような土のむき出しているあたりに紙ごと置いて すまん!とあやまり立ち去った。当方のような 自分のやれることがあまり多くないと思っているものにとって 親切、というか善意の行為はきまぐれにおこなわれるものである。つねにしなくてはならないのならそれは仕事といってもいいとおもうのだけど(それでさえ偶意の介入を許すことがあって当方は仕事の出来ない奴であるねえということなのだが)このたびも 偶意にも出くわしたため行動したのみである。轢かれてつぶれた屍をほっておくのはいやだなあ、という気持ちからの行為であったけど、これがもし猫 であったら、すくなくともハト以上の大きさのものであったら、やはりいつものように足早く去っていただろう。また、ゴキブリのようなものであったらならば とんできたうまい棒の包装をみるような視線でさっと帰路についていたことだろう。今回不意に気をうばわれる大きさで、ぽつんとしずかに足をそろえて目を閉じていてどこも傷められた様子もなくほっておかれていたのをみつけてしまったのだった。都市において路にある小動物の死骸は打ち捨てられてつぶされ腐りあるいはかわき雨にながされるものとして往々に消えていくものであるのだから今回は 不自然 なことをしたことになるのだった。なんだかへんな自己満足であったかも知れなかったので、帰り途に、今書きながら、なんだか すまん、と思った。