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2009.01.16
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テーマ:ニュース(96276)
カテゴリ:カテゴリ未分類
  解散・総選挙先送りの報い

 では、麻生政権が「非常時モード」 の政策を打ち出せないのは、なぜか。最大の原因は解散・総選挙を先送りしたことである。もともと「選挙の顔」としての期待から総理総裁に推されたにもかかわ6ず、国会冒頭、10月、11月と3度にわたり、解散・総選挙を決意しながら、3度とも最後は腰が引けてしまった,麻生首相は金融危機をその理由にしていたが、「金融機能強化法」を通しておけば、選挙期間の1カ月くらいの危機対応は政府オペレーションで凌げたはずだ。
 「政局より政策」と解散・総選挙を見送ったのに、肝心の政策である第2次補正予算案の提出を1月の通常国会に先送りしてしまったことが麻生政権の抱える矛盾の深さを物語っている。
 もし総選挙を行っていれば、当然、きちんとしたマニフェスト(政権公約)を作る。これは国民との契約であり、審判の結果、国民からお墨付きをもらえれば、それを拠り所に官邸主導体制を築くことができたのだ。
 解散・総選挙を先送りしたことで、麻生首相が本部長、中川秀直氏が本部長代行を務める「国家戦略本部」という自民党のマニフェスト作成機関は、開店休業状態。官邸の求心力は著しく低下し、逆に遠心心力が働くような惨状を呈している,与党である自民党、公明党からも総理の方針と異なる見解が次々に噴出する有様である。
 揮発油税などの財源のうち1兆円を地方交付税にするか、交付金にするかという議論もしかり。定額給付金にしても、全所帯に配るか、所得制限を設けるかで百家争鳴のドタバタ騒ぎが起きる。麻生首相の発言は与党内からの反発に直面するたび右に左にぶれまくり、支持率は危険水域にまで急落した。これらはすべて選挙による洗礼を受けておらず、マニフェストが定まっていないことに起因するのだ。
 各省庁も官邸の弱体化に乗じて、自の縄張り、権益の拡大に余念がない。麻生首相は「役人は敵ではない。上手に使いこなす」と仰るが、官僚からすれば、こう言わせれば勝ったも同然。使われているフリをしながら、逆に政治家を使いこなす術に彼らほど長けた人種はいない。無駄遺いのシンボルとして一度は廃止が決まっていた「雇用・能力開発機構」も麻生政権では事実上存続させる方針だという。校滑な役人を黙らせるためにはマニフェストという「錦の御旗」が絶対に必要なのだ。
 九月末の臨時国会冒頭で解散していれば、与党側は現在の三分の二の議席の確保は難しいとしても、政権は維持できたと私は思う。これは民主党の選挙担当者も認めている。
 私のかねてよりの主張はこうだ。次期総選挙で自民党、民主党のいずれが勝とうが、首班指名の1位と2位による挙国一致の「危機管理内閣」を作り、非常時モードの政策を徹底して行う。次の総選挙で民主党が過半数を獲得して単独政権を作るというシナリオは明快だ。だが、参議院では民主党単独で過半数に達しておらず、所詮は連立与党に過ぎない。非常時の国家運営をそうした連合政権に任せることに私は大きな不安を覚えるのだ。
 それよりむしろ「危機管理内閣」の官邸に官民の優秀なスタッフを集め、官邸主導による省庁横断的な抜本改革を行った方がよほど国益に適う。そのためにも一刻も早く党利党略を捨て、国民の審判を仰ぐぺきなのだ。
 だが現実には、与野党ともにねじれ政局の中での陣取り合戦にうつつを抜かすという悲しい状況に堕している。
 これでは国民の閉塞感は高まる一方である。こうした状況が嵩じて、エントロピーが増大して大爆発、ヒート・デスを起こすことを私は恐れる。
 1930年代、大恐慌に喘ぐワイマール共和国では、人々は不安心理に陥っていた。1933年、そこに劇的に躍り出たのがナチスであり、ヒトラーだった。ユダヤ系ドイツ人の思想家エ-リヒ・フロムが分析したように、人間は不安が高まると自由を捨てて逃走してしまう。これは歴史の教訓である。
 デフレ経済のもとで閉塞感が募り、不安心理が蔓延している現代においてもそれは同様で、異常な犯罪やテロが横行するようになる。頻発する身勝手極まりない殺人事件の報に接するたび、その不気味な兆候を感じずにはいられない。また、「田母神論文」への一部賛美に象徴されるような社会の右傾化もその一つの顕れかもしれない。

  「裸単騎」の離党

 こうした閉塞状況を打破するために私は政治家として何をなすべきか。
 掲げる旗ははっきりしている。
 「100年に1度の非常時には100年に1度の政策を」
 「官僚内閣制から真の議院内閣制へ」
 「官僚主導から政治主導へ」
 「中央集権から地方主権へ」
 これらのアジェンダに賛同する議員が政党の垣根を越えて結集し、政界再編の起爆剤となれば理想的だろう。
 実際のところ、自民党内はもちろん民主党の中にも政策的にお互いシンパシーを感じている議員は少なくない。ただし、民主党側は次期衆院選は勝てると確信しており、分裂するとは思えない。
 自民党を離党することも可能性の1つとしてはあり得る,多くの同志からは「裸単騎だけはやめてくれ」と言われている。「そんなハイリスク、ハイリターンな方法よりも、もっと着実に仲間を増やし、政策に磨きをかける方が得策だ」という意見が多い。
 確かに、永田町の枠の中で飛んだり跳ねたりしている限りは不発に終わる可能性が高いだろう。
 それより永田町を飛び出し、オールジャパンで国民運動を起こす方が革命的改革への近道だと私は考えている。いまの閉塞状況を憂える地方自治体の首長、財界人、学者、メディア関係者──こうした危機意識を共有できる人たちに集まってもらい、危機対応と未来の日本を先取りする政策をワンセットの国民運動として展開する。イメージとしては、元三重県知事の北川正恭氏が代表を務める「地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合(せんたく)」に近いかもしれない。この国民運動構想に関しては、最近、発信しはじめたばかりだが、早くもレスポンスが来ている,
 また先述した中川秀直氏による議連は政界再編を意図するものではない,だが、その基本コンセプトは従来の企業任せ、団体任せ、役所本位の社会保障制度を国民本位、利用者本位に作り替えようという革命的なものであり、政策遂行過程においては、厚生労働省や族議員との間で激しい軋榛が生じ、その摩擦熱から新たな展望が開ける可能性も否定できない。
 大切なのは、いかなる状況になろうとも、政治家としての反射神経を研ぎ澄ましておくということだ。こういう非常時には、政治家にとって反射神経が一番大切だ。いざとなれば、いつでも我が身を投げ出す覚悟だけは常に持っていなければならない。
 政治家は討ち死にするリスクを恐れてはいけない。政治とは権力闘争であり、戦国武将のように槍や鉄砲こそ使わないものの、「殺すか」「殺されるか」という切迫した場面もあるのだ。そして決して忘れてはならないのは、政治家に命を与えているのは国民であるという事実の重みだ。
 それを教えてくれたのがミッチーこと我が父、故・渡辺美智雄である。
 1979年、大平正芳、福田赳夫の両氏が首班指名を争うという「40日抗争」が起きた。父は総裁予備選挙で 一般党員が選出した大平氏を引きずり降ろすことには大義名分がないと主張し、福田氏を推すことで結束していた中曽根派から除名された。その時、父が言った言葉が「派閥の前に党があり、党の前に国家国民がある」。自分は誰の代理人でもない。全国民の代表である。派閥ごときが首班指名の権限を奪うとは何事か。全国民の代表として自分は堂々と首班指名を行う。それが政治家としての衿持である─-。私にとって政治家としての原点となった言葉だ。
 ミッチーの真似をしたつもりはないが、私も二〇〇〇年に派閥を離脱し、現在まで無派閥を貫いている。「加藤の乱」が起きる直前のことである。私は当時、森喜朗首相を「早くお辞めいただきたい」と厳しく批判し、総裁選 の前倒しを主張していた。
 私が所属していたのは、かつて父が率いた渡辺派の流れを汲む江藤・亀井派。森政権には閣僚や党三役を送り込んでおり友好関係にあった。私は派閥幹部に呼び出され、こう叱責された。「お前は度が過ぎる。考え直せ」。だが、私は突っぱねた。「自分の考えは間違っていないと思います。派閥の意に添わないのであれば除名してください」。親子二代で除名ならば勲章ものだと開き直ったのだ。それに対して、その幹部は「除名はしない。灸りだしてやる」とすごんだ。私は最早これまでと自ら退会届けを出し、父の写真が飾られている派閥事務所を後にした。あの頃の私の言動は確かに倒閣運動と見なされても仕方ないだろう。それに比べれば、今回はずっとモデラートである。
 父に学んだことは多いが、現民主党代表の小沢一郎氏から自民党離党を持ち掛けられた[ミッチー騒動」はいまなお強烈な印象を私に刻みつけている。
 1994年4月、細川護煕内閣退陣に際して、新生党代表幹事だった小沢
氏に父は「自民党から五十人ほど連れて出てきてほしい。そうすればあなたが総理だ」と誘われた。もしあの時、父が離党していれば、共産党をのぞく全国会議員が首班指名での態度決定を突きつけられ、その後の自民党中心の政権の構図は大きく変わっていたかも
しれない。しかし、結論から言えば、父は離党を断念した。
 その理由は二つある。一つは、膵臓癌を患った直後であり、闘病生活が依然続いていたことが大きい。腫瘍マーカーの数値は劇的に改善していたものの、生死の淵をさまよった大手術から2年もたっていない時期であり、精神的にも相当きつかっただろう。
 2つ目の理由は八派閥の領袖であったことだ。この重圧と責任は大きかった。当時の派閥は選挙の面倒から陳情処理、身の上相談、身の下相談、資金の手当てまで幅広く面倒をみるというムラ社会の共同体のようなシステムだった。従って、渡辺政権を作るために離党するということは、派閥の構成員に対する責任も当然伴う。結局、現実的な判断として、自民党を離党しても渡辺政権を誕生させるには数が足りないという結論に至ったのだ。その結果、自民党は分裂の危機を説し、社会党と組んで政権復帰を果たした。
 父の腫瘍マーカーは再び高進した。主治医からわれわれ家族にガンの再発が告知された。

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最終更新日  2009.01.16 23:48:25
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