Washiroh その日その日

2012/12/31(月)17:13

レヒニッツと麗郷

鑑賞全般(142)

 7時15分起床。  すばらしい青空だ。  腹がへっている。  が、ほかにやることがあるため朝めしは後回し。  シャワーもパスして顔を洗い髭を剃る。  パソコンのスイッチを入れ、洗濯機を回し、2種類の吸入薬を吸入して念入りにうがいをする。  ここで息が上がった。  座り込んでかみさんが淹れておいてくれた番茶を飲む。  くき茶を煎ってできた番茶で味が濃く独特の風味がある。  再びパソコン。  とりあえず、きょう観る予定のミュンヘン・カンマーシュピールの公演について調べた。  場所は池袋の東京芸術劇場なのだが、3つあるホールのどれかを知りたかったのと時刻の確認をしたかったのだ。  10時に出る予定が15分ほど遅れ、10時35分ごろのバスに乗ることになった。  土曜日の午前中にどうして(?)と思うほど道が混んでいる。  そうか、渋滞の原因は紅葉見物の行楽だったか。  京王線に乗ってから間に合うかどうかが心配になり、待ち合わせているフィオーラ・ドレワンツさんに少し遅れるかもしれない旨を書いたメイルを送る。  ところがそうでもなく、ほぼ約束の時刻に池袋着。  ゆるゆる歩きで西口(最近は南口というのかな)に向かい、エスカレーターでメトロポリタン・プラザ前に出た。  目の前が芸術劇場なのだが、横断歩道をわたったあたりで息が上がってしまう。  ビル街のそらを眺めながらひと休み。  盛り場のけばけばしい看板に明るい陽光がふり注いでいる。  澄んだ青ぞらから外国のどこかを思い出し、記憶をたどってアタマをしぼったら、むかしセヴィリアに行ったときのそらだった。  高く、青く、吸い込まれそうになるセヴィリアの青ぞら。  池袋のそらは吸い込まれるほどではないけれど、ま、都会にしてはきれいなほうだ。   ふと気がつくと目の前に東京芸術劇場があった(上の写真)。  何回となく来た場所だが、横っちょに看板があることに初めて気がつく。  上の写真がそれ。  これまでは芝居を見たりコンサートを聴いたりするため夜に来ることが多く、だから横っちょの看板に気がつかなかったわけか。  見る芝居は『レヒニッツ』。  レヒニッツは地名で、オーストリア南東部にある。  第2次世界大戦末期にの村にある伯爵邸で起きた惨劇を題材にしている。  作者はオーストリアの作家エルフリーデ・イェリネク。  舞台には伯爵邸の一室がしつらえられている。  中央部が「部屋の角」という造作で、上手側の壁に沿って5脚の椅子が並んでいる。  ここに登場人物が座るのだが、それぞれ仕切られた背後の壁が可動式の扉となっている。  物語の進展にしたがって、ある場合は登場人物が出たり入ったりし、ある場合には小道具や衣装替え用の戸棚のようにも用いられる。  いま「物語」と書いたが、じっさいには通常のストーリー展開はない。  ドイツ語がわからないのが残念だが、登場人物たちは第2次世界大戦中にここで何が行われたかをそれぞれに語るのだ。  が、ここが注意を要するところで、彼らが「語る」のは、いわゆるドキュメンタリータッチの証言とはまったく異なる話ばかりなのである。  原語がわからないから映し出される翻訳を読んで理解するしかないのだが、これが、いってみれば脈路のないことばの羅列にも似た文章なのだ。  ただし、無意味な羅列とはちがう。  こうして説明すると妙にややこしくなるけれど、通常のセリフが訳されるわけではないというだけで、じつはさほど難解な話に付き合うことにはならない。  語られるのは1945年のその夜、伯爵邸にいた登場人物たちが体験した精神的な驚愕、緊張、抑圧、苦悩、叫び、といったものを言葉にしたものなのである。  伯爵邸で繰り広げられた惨劇は、しかし、ことばにならないほど非道なものだった。  5人はその非道を、ものすごく主観的に語るのである。  観ているうちに、ぼくは字幕を読むのをやめていた。  文字を追っていて理解できる話ではないからだが、その夜、伯爵邸にいた5人が何を後世につたえなければならなかったかは、しっかりと理解できた。  ミュンヘン・カンマーシュピール。  すさまじい演劇活動をする劇団だと舌を巻いた。  夕方、木村翠さんと約束がある。  渋谷に急ぎ、携帯電話で連絡を取り合いながら互いに近づき、結局ハチ公前で待ち合わせた。  ぼくが子どものころから知るハチ公前と、現在のハチ公前とは少しばかり位置が動いているが、そこに立つのはなんともいえない懐旧の念をともなうものだった。  まだ16歳のころ、ひとつ上の翠ちゃんと渋谷の改札口で待ち合わせたことがある。  そのときの光景をきのうのことのように思い出す。  また、翠ちゃんと遠藤征行さんと3人で、この駅前広場で会ったこともある。  当時の渋谷は、いま思えば映画のスクリーンに見る街のように表と裏がはっきりしていた。  表の大通りと裏の横丁。  どういうわけか、行き交うひとびとの匂いには表と裏の違いがなかった。  昭和30年代前半のなつかしい日々だ。  ポンと肩を叩かれ「中にいたのでわからなかったぁ!」といわれた。  ハチ公前の東急電鉄車両の中で座っていたというのだ。  そうか、中をのぞかなくてごめんなさいと謝り、さてどこに行こうか?  どうする?  翠ちゃんがいい、ぼくは「麗郷に行かない?」と答える。  「麗郷……!」  彼女は一瞬、なつかしげな息遣いをした。  で、歩き出したのだが、例によってぼくは息が苦しくなる。  渋谷のあの大横断歩道へ向かいながら「スクランブルだよね」とたしかめ、翠ちゃんのうなづく顔に「ありがたい、少しは距離が縮まる」と感謝したくなった。  麗郷に行くには、ひとつには道玄坂を上がって右へ曲がる順路があり、そうでなければ東急本店への道を辿ってしばらく行き、左へ曲がるわけだ。  坂といい距離といい、あらためて考えると息が上がって気が遠くなりそうだ。  翠ちゃんはすぐに察してくれた。  「あなた、大丈夫? まだかなり歩くわよ」といってくれた。  じつはすでに苦しいと訴え、別の店にしようと口に出そうとしたとき、目に入ったバスに「上原」の文字が見えたのだ。  上原には上の息子の蓮太郎くんが働く店がある。  「いま行ったバスにあった上原に蓮くんがいる店があるんだけど」  「あらぁ、じゃあタクシーに乗ろう」  ラルーナに着いて、蓮くんにかみさんへの電話連絡をたのんだ。  かみさんはきょう、用事で梅ヶ丘へ出向いているはずなのだ。  都合がつけば合流できるかもしれない。  数十分後、翠ちゃんのおかげで我々の席はパーティー会場となった。  かみさんが合流でき、陽くんが駆けつけ、加えてうれしいことに翠ちゃんのご主人も来てくれたのだ。  木村さんに会うのは数年ぶり。  思わぬ宴が開幕、まことにたのしく盛り上がった。

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