2013/04/22(月)17:14
ピーター・バラカンさんの新刊書
ピーター・バラカン著『ラジオのこちら側で』(岩波新書)を読み始めた。
まだ50ページほどを読んだだけだが、素直な語り口がイキイキと新鮮でまことにおもしろい。
ロンドン大学で日本語を学んでいたのは必ずしも日本での仕事を望んでのことではなかったという。
まず「へ~、そうだったのか!」と思ったのは、バラカンさんの音楽志向がぼくなんぞの想像をはるかに超えて強かったことだ。
小学生のころからラジオを聞いて育ったそうだが、そのあたりは、まぁ、誰でもそうではないかと思いながら読んだ。
当時のBBCは演奏家組合からの要請もあってレコードを流す番組を少なくしていたそうで、なるほどあり得る話だと思った。
そこで少年ピーターは、海峡を越えたルクセンブルグ放送にチャンネルを合わせる。
こういった音楽志向、というかポップスを聞きたがる熱心さがつたわる一冊なのだ。
どこの家でも1台のラジオを家族全員で聴く時代、ぼくも両親が聴く音楽番組に耳をそばだてることで初めて音楽にふれた。
ある晩、食後のラジオ番組をめぐってぼくと両親とがチャンネル争いをした記憶がある。
ぼくが何を聴きたかったのかはすっかり忘れてしまったが、いつもは聴きたいままにさせてくれる両親がめずらしく譲ってくれない。
どうしてなのかと問うと、コルトーの演奏が放送されるからで、これはそうそう容易に聴けるものではないのだという話をしてくれた。
放送が始まるとピアノ曲が長い時間つづき、両親はじぃっと聴いている。
つまるところぼくは退屈になってしまい、本を読みだしたと覚えている。
アルフレッド・コルトーが来日したのは1952年、ぼくが小学4年生のときだった。
そのころのヒット曲についてサイトを探ると、 たとえば映画音楽の『ハイ・ヌーン』がある。
これはよく聞いていた曲だぞ。
さらに見ていくとペレス・プラードの『マンボNo.5』がある。
え?
あれが1952年だったのか、小学4年生だったのか。
ちょっと意外な感があるな。
ピーター・バラカンさんに戻すと、ロンドン大学を出るとすぐレコード店に職を得ている。
文中にもあるが大学で日本語を勉強したことは就職とはまったく関係がないのだった。
日本語を学ぶ努力は何ではなく、古文も含めてみっちりやっていたそうだ。
ちょっと引用。
「日本語の授業の準備に相当時間がかかりました。教科書や分厚い辞書を広げることが出来るのは台所の食卓だけだったので、リヴィング・ルームに置いてあるレコード・プレイヤ(モノラル!)でレコ
ードを聴けず、宿題をする間はもっぱらラジオに頼らざるを得ませんでした。」
バラカンさんは純粋に語学が好きで、その延長で日本語を選んだまでのことらしい。
語学好きなひとってそういうものだ。
ぼくの知る語学好きは、ギリシャ語やらトルコ語やら、次から次へと学ぶ対象を広げていく。
ピーター・バラカンさんが日本に来るのは1974年。
この年の夏、ぼくは初めて海外へ、ヨーロッパへ、パリへ行った。
当時の東京国際空港は羽田空港だけだった。
いつだったか、東京に住む外国人が東京を語る番組をつくったことがあり、そのときピーター・バラカンさんにもインタヴューしたことがある。
羽田空港に降り立った日が曇りぞらで、建物がみな灰色だという印象をもったといった話をしてくれたのを覚えている。
吉祥寺に住んでいたとも書かれてある。
そのころ東京の音楽シーンはカーペンターズの大流行に染め上げられていたという。