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随分前に、 「徳」 という言葉について、 ふっと浮かんできたことがありました。 (トレーニング中だったか。。。お散歩中だったか。。。) それは、 「徳」は、お金で買えない。 「徳」は、させて頂いているもの(こと)の御代である。 「徳」は自分の良心に従って、 自分以外のもの(全てのもの)の為に、 何かを為した時に与えられる 目に見えない「光」である。 というものでした。 「徳」は学校の道徳や倫理などの授業や教科書、 理論・理屈から学べるものではないと思うのです。 仮に、ある方が「徳」がおありでいらっしゃられる方だとしても、 その「徳」を計る尺度などはないと思うのです。 今の世の中は、 「○○を大切にすると良い」 などということが流行りだすと 「○○を得る為に、(お金を払って)~をする」 という視点でものごとを捉えられることが多いと思うのです。 また、○○が流行りだすと、良くも良くなくも、 それがお金を生み出すとして、 直ぐに商売に結びついてしまうことも多いと思うのです。 「○○を得る為に、~をする(○○を求める側)」 (「○○を得たければ、~をすれば良い(○○を売る側)」) では、 「○○が得られないなら、~はしない(○○を求める側)」 (「○○は廃れたから、もう~はしない(○○を売る側)」 という、欲に翻弄された自分勝手な思いでしかないと思うのです。 (例えば、「○○」が「徳」であるとすれば、 それは「徳」ではなく、「得」だと思うのです。) 「徳」や「道徳心」や「良心」というものは、 何かをするから得られる、 というものではないと思うのです。 日常的に自分の心がぶれないように意識し、 正すべきところは正し、 反省すべきは素直に反省し、 いつもどなた様かや何かにご迷惑をお掛けしたり、 お世話になりながら生かさせて頂いていることに対する 感謝や報恩の心を抱きながら、 自分の心の声に素直に従った善行をさせて頂くことにより 自然と思い出される「心の豊かさ」や「心のゆとり」、 「本当の自分」こそが「徳」の一部だと思うのです 尊徳の「徳」を心の常とするのか、 損得の「得」を心の常とするのか、 皆さんのお心は、ご自身に、 どちらを「お説き」になられていらしゃいますか ~ スピリチュアル♪って何だろう? ~ ~ 勇気 と 結う気 ~
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「 ラクシュミーさん(吉祥天さん)からの伝言 」
【 心の故郷 】 と私たちを結ぶ 【 三種の神器 】 「 自分の心を映す【鏡】 」 「 自分の心が安らぐ場所へ導く【勾玉】 」 「 自分の心や身体を守る【剣(武器)】 」 【三種の神器】をもって、 「幸せいっぱい」 「笑顔いっぱい」に 生かさせて頂きましょう (詳細は、写真をクリックしてください) 【三種の神器】に関するお問合せや、【三種の神器】に関するお声は、こちらをどうぞ ~∞~1~∞~0~∞~1~∞~0~∞~1~∞~0~∞~1~∞0~∞~1~∞~0~∞~ ~∞~1~∞~0~∞~1~∞~0~∞~1~∞~0~∞~1~∞0~∞~1~∞~0~∞~ 「幸運の鍵」を判定する写真をご紹介させて頂いております。
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Last updated
2011.02.23 12:04:40
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