ことわざ と 天の教え -078
【Chi non puo dare all'asino,da al basto (ロバを殴れない者は荷鞍に当たる)】(イタリア)弱者に八つ当たりするのは、自分が情けない証拠というわけです。八つ当たり。。。自分より強い者にはしないもの。。。自分より弱いと判断できる相手にするもの。。。自分より弱いと分かっている相手に対して八つ当たりするというのは卑怯だと思うのです。自分が卑怯なことをしていることは自分でも良く分かっていると思うのです。それにもかかわらず、自分より弱い人に八つ当たりするという卑怯なことをしてしまうのは、自分が弱いからに他ならないと思うのです。自分の弱さ、不甲斐なさ、至らなさに腹を立てて、行き場のない怒りを、自分より弱い人に八つ当たりする。。。弱者を傷つけ、優越感に浸る。。。ただ業を背負うだけでお気の毒なことだと思うのです。ものごとが因果応報であることを考えると、八つ当たりされる方は、過去に八つ当たりをしていた、ということでもあると思うのです。自分が過去に八つ当たりをしていたからこそ、今度は八つ当たりをされる、という経験を通じて、八つ当たりをされていた相手の気持ちを知る、ということになっているのだと思うのです。--------本当に強い人は、強弱に拘っていないと思うのです。強弱に拘っているうちは「弱い」のだと思うのです。本当に強い人は、強弱に拘っていないからこそ、何かを押し付けたり、強要したり、何らかの見返りを要求したり、期待することのない真の利他の心で生かさせて頂くことができるのだと思うのです。それ故、強きに強くあることができ、弱きを助け、守ることができるのだと思うのです。だからこそ、人様からの厚い信用や信頼を得られるのだと思うのです。本当に強い人は、ただただ優しさがあるだけなのだと思うのです。信念を持った優しさがあるが故に、大きな心で何ごとも包み込み、ものごとが上手く運ぶよう、全体のバランスを見ながら、調整することができるのだと思うのです。本当に強い人は、普段は言葉も優しく、ここぞという時にだけ語気を強めるのだと思うのです。「ここぞ」という時にだけ語気を強めるからこそ、相手にも、「ここぞ」の重要さ、大切さが伝わるのだと思うのです。反対に、強弱に拘る方は、ご自身が「弱い」と感じているからこそ、「強さ」を求めてしまうのだと思うのです。 (自信がない、ということの裏返しでもあると思うのです。)その自分の「弱さ」を自分勝手な自分基準のものごとの見方で、「恥」としてしまうが故、それを露呈したくないが為に「強さ」を求め、手にした「強さ」をアピールしたくなってしまうのだと思うのです。 (本当は「恥」でもなんでもないと思うのです。 それを「恥」としてしまっているのは自分でしかないと思うのです。 仮に人様に「それは恥ずかしいこと」と言われたとしても、 人様を傷つけるようなそのようなことを仰られるその方こそ、 人様を思い遣る心がない「恥ずかしい」人だと思うのです。)「強さ」を求め、手にした「強さ」をアピールできるのは、その方の自分勝手な自分基準のものごとの見方における、自分より「弱い人」にしかできない為、その「弱い人」に対して自らの強さを使ってしまうのだと思うのですが、それは単なる「卑怯」でしかないと思うのです。本来、自分に「強い力」を与えて頂いているのであれば、その「強い力」は、自分よりも弱い方々をサポートさせて頂く為に与えて頂いているものだと思うのです。それにも関わらず、自己顕示欲を満たす為、権力を行使する為に、「強い力」を弱者の支配の為に用いるなどは、それこそ人としてあるべき心から外れた恥ずべき行為だと思うのです。また、そういう方に限って、自分より強いものには、媚び諂うことがとても多いと思うのです。強者に媚び諂い、強者について行くことで、その強者に守ってもらいながら、強者の強い力を利用して、より自分を強く大きく見せたり、強者の後釜を狙うなどの下心、邪心があるのだと思うのです。見せ掛けばかりの強さばかりを手に入れようとしてしまうが故に、真の強さからは遠ざかり、いつまでも真の強さを手に入れることができないのだと思うのです。強きに弱く、弱きに強い。。。卑怯で狡猾な臆病者でしかないと思うのです。そういう方には、自分と同類の表面的で薄っぺらい見せ掛けだけの信用・信頼をアピールして媚び諂う方々が集まってくると思うのです。それは、自分と同じような下心や邪心のある者なのだと思うのです。 (もしくは、長い物には巻かれよ、事勿れ主義、人様の顔色を見て行動、 無関心などの「自分らしく生きていない」方が仕方なしに つき従っているだけだと思うのです。)普段から上から目線の偉そうな言葉や荒々しい言葉で人様を見下すその見せ掛けばかりの強さであるが故に、人様からの信用や信頼も見せ掛けばかりになり、「ここぞ」という時には簡単に裏切られたり、見限られてしまうのだと思うのです。見せ掛けだけの強さや、権力や地位などのように人為的に作られた強さで塗り固めたような自分で生かさせて頂いていても、それは本当の自分ではないと思うのです。 (見せかけているものや、権力や地位が無くなったら、 ただの人でしかないことを考えれば、強くも何ともないと思うのです。 それは、虚しいだけだと思うのですが、 その虚しさから逃げる為に、それらを必要としている、 ということでもあると思うのです。 虚しさから逃げている時点で、自らの弱さを露呈している、 ということだと思うのです。)良心に背くことは、自分から逃げることだと思うのです。自分から逃げるということは、それこそ弱さだと思うのです。その弱さを取り繕う為に見せ掛けだけの強さを呈しても、砂上の楼閣でしかないと思うのです。 いつも良心に素直に従う。。。自分にも人様にも嘘をつかない。。。自分も人様も騙さない。。。何ごとに対しても、常に誠実、真面目に取り組む。。。努力を怠らず、探求を継続する。。。明るく、元気に、笑顔で「自分らしく」生きる。。。いつも人様を思い遣る心を持っている。。。(利他心)強きに動ぜず、弱きを優しく守る。。。そういうものが、真の強さだと思うのです。「争いを好む人は、 近寄り難い怖い人、そして強い人のように見えますが、 真実は、自分より弱い人には強く、 自分より強い人には弱い人なのです。 争わずにうまく物事を進めていくような人こそ、 本当の意味の強い人です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312120002/「自分に自信の無い者は、他人の悪口を言い、 責任を押し付けて暗い坂道を降りていく。 汝は良心を友として生きよ。天に通じる道ゆえに。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201112280000/「賞賛を求め、中傷に傷つく。。 これが普通の人ですが、 賞賛も、中傷も気にしない人にならない限り、 心の安らぎは永久に得られないのです。 」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403140000/ 「弱き者、懸命に生きている者を助けるのが、 汝の勤めであり、汝の幸せである。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201110020000/「汝、強きものに媚びず、弱きものをいたわる。 それが計算ではなく自然にできれば 幸運の女神は微笑むことを知れ。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201020000/「あなたが、もっと精神的に強くなりたいと思うのなら、 弱い人をかばうことで強くなれます。 強い人のマネをしても弱くなるばかりです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406170000/「人の涙をもて遊んだり、人の悲しみをかえりみない。。。 これでは幸せから遠のくばかりです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405140000/ 「汝は、世間から袋叩きになっている正義の人を擁護せよ。 物事の真実は多数決にあるのではない。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201109160001/「弱いから相手を許すことができないのです。 いや違う!!というなかれ。。 弱いからすぐ怒るのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408200001/※「太字」の諺とその解説部分は、よびりん♪さんこと、 市川善彦さんのFBから引用させて頂いております。 (市川善彦さんのご許可を頂いております。) 【女神経典】【ラクシュミーさんの言葉】