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~ 今日の風 ~

~ 今日の風 ~

「みすゞさんのこころ」 1

「みすゞさんのこころ」

=みすゞさんの涙=

今日は、台風の接近で雨が降りそうな空です。地震も噴火も台風も、宇宙から
したらみんな愛なのだと伺ったことがあります。人間が自分の都合や価値観で判
断して、それを雨が降ってほしいときには恵みの雨としたり、多すぎると感じた
ときには、天災と判断したりしているだけなのでしょう。

みすゞさんがお好きで、みすゞさんの詩と音楽ではじまる講義をしていらっし
ゃる理論物理学者の佐治晴夫先生から、人が流した涙は約80年かかってまた雨
となって天から降ってくると伺ったことがあります。1903年に生まれたみす
ゞさんは、生きていらしたら今年で96歳、そこから八十年を引くと十六歳、今
日降る雨にはみすゞさんが16歳の時の涙が混じっているということになります。

16歳というと、みすゞさんが大津高等女学校に通っていたころです。8月に
はお母さんのミチさんが、下関の上山文英堂書店の上山松蔵氏(ミチさんの妹さ
んが嫁ぎ、そして亡くなった・養子の正祐さんは、ミチさんの実子)と再婚して
います。仙崎の金子家はお祖母さんのウメさん、お兄さんの堅助さんとのみすゞ
さんの3人暮らしになりました。

女学校の同級生の岡本トヨさんは、躾に厳しい裁縫の先生に叱られて泣いてい
るみすゞさんを見たことがあったとおっしゃっています。そのとき、岡本さんは
「それでも、私たちだったら、少しくらい先生に叱られても、すぐに右から左へ
抜けてしまうのに、金子さんは思いの深い人だから、先生の一言いったことを、
十にも二十にも考えて、悲しくなって泣いているんだな。」と思われたそうです。
その時のみすゞさんの涙が今日の雨になっているかもしれません。

睫毛の虹

ふいても、ふいても
湧いてくる、
涙のなかで
おもふこと。

ーーーーあたしはきっと、
もらひ児よ。ーーーー

まつげのはしの
うつくしい、
虹を見い見い
おもふこと。

ーーーーけふのお八つは、
なにか知らーーーー



=みすゞさんのこころ=

みすゞさんの詩とみすゞさんのこころは、いつも私のそばにあります。みすゞ
さんの詩は何度読んでも飽きることなく、心の奥深いところに響きます。すうー
っと心の奥底まで沁み込んで心を浄化させてくれるようです。そして、その時そ
の時の想いによって、自分でも気付かなかったようなものを引き出してくれます。

矢崎節夫先生の十六年にわたるご努力により、昭和五十七年にみすゞさんの自
筆の詩集である三冊の手帳が発見されました。そして昭和五十九年JULA出版
局によって、限定版「金子みすゞ全集」という形でこの世に送り出されてから、
今年で十五年になりました。

今年は、一月の下関を振り出しに、大阪、東京で「金子みすゞの世界」展も開
催され、みすゞさんの詩や生涯がより多くの人たちに知られるようになりました。
それに伴い文学の分野にとどまらず、音楽、演劇、美術、教育、福祉・・・とい
ろいろな分野でみすゞさんの詩が注目されています。そして、さまざまな解釈も
生まれてきました。

作品は一度発表されて作者の手を離れれば、当然読み手の解釈に任されるとこ
ろがあります。名作であればあるほど、多くの読み手によって多くの解釈も生ま
れることになるでしょう。同じ人でもその時の心の有り様で全く違った解釈をす
ることもあります。 それこそ、解釈は「みんなちがって みんないい」というこ
とになるのかもしれません。

けれど、「みすゞさんのこころ」を感じ、受け取ろうとするならば、やはりみ
すゞさんの生涯を知り、生き方を理解し、みすゞさんが何を観て何を聴き何を感
じて生きていたのかに添って、みすゞさんの詩を理解していけたらと思います。
人は、自分の内なる世界を外側に反映して見たり感じたりしているとしたら、
私がみすゞさんの詩に触れて、見えてくるもの、感じられるものには限りがあり
ます。読み手によっていろいろな解釈が出てくるのは、そういうことなのだろう
と思います。きっと解釈には、読み手の心柄が映し出されているのだと思います。
だから、みすゞさんの詩をより深く理解したいと思えば、自分をより深く見つめ
ていかなければならないでしょう。私は、この講座をよい機会にして、より深く
「みすゞさんのこころ」を受け取れるようになりたいと願っています。

ぬかるみ

この裏まちの
ぬかるみに、
青いお空が
ありました。

とほく、とほく、
うつくしく、
澄んだお空が
ありました。

この裏まちの
ぬかるみは、
深いお空で
ありました。


=やさしいまなざし=

みすゞさんの詩を読んでいると、「やさしいまなざし」を感じます。余裕のな
い生活の中でつい忘れがちなやさしいまなざしですが、時空を超えて幼い日の自
分に戻れたとき、自然にやさしいまなざしを取り戻していたりします。

小さいときは、感じたことを言葉で上手に表現できなかったけれど、心の中で
は今以上にいろいろなことを感じていたような気がします。みすゞさんも小さい
ときに感じたものが心にいっぱい詰まっていたから、大人になっても、仙崎を離
れてもそれを詠うことができたのでしょう。私はみすゞさんの詩によって、幼い
ころの想いが甦えり、仙崎の澄んだ海や空やお会いした方々の心を感じることが
できます。

仙崎の町を歩き、自然や町の人たちの心に触れると、そこにみすゞさんのここ
ろを感じます。仙崎のそこここに「みすゞさんのこころ」があたりまえのように
ありました。空も高く青く澄み、海も碧に澄んでいますが、そこに住む人たちの
心も同じように清んでしました。

今は近代的な仙崎の郵便局の前では団体さんがみすゞさんの説明を聞いていま
した。その人波が去ったあと、地元の方がちらほらいらっしゃる郵便局の中に入
りました。みすゞさんのスタンプが置かれていました。地元の俳句会の句集が置
いてあり、そこにはみすゞさんについての記述もありました。窓口に貼られたパ
ンフレットには、中国地方限定の葉書や切手の案内がありましたので、記念に買
って行こうと思い、窓口の列の後ろにつきました。
すると、前にいらした小柄なおばあさまから「お先にすみません」と口に出し
ておっしゃったかどうか記憶ははっきりしませんが、確かにそういうお気持ちが
伝わってきました。そしておばあさまは丁寧に頭を下げてくださいました。私が、
列に加わったときとそのおばあさまの用事が済んで帰られる時と二度そうしてく
ださいました。私はほのぼのした気持ちで二度一緒に頭を下げました。

「郵便局の椿」

     あかい椿が咲いていた、
     郵便局がなつかしい。

     いつもすがつて雲を見た、
     黒い御門がなつかしい。

     ちひさな白い前かけに、
     赤い椿をひろつては、
     郵便さんに笑われた、
     いつかのあの日がなつかしい。

あかい椿は伐られたし、
黒い御門もこわされて、

ペンキの匂うあたらしい、
郵便局がたちました。


仙崎にはその風土に根ざしたやさしさと代々引き継がれてきた精神性があると
思います。

仙崎は、江戸時代前期から明治時代初期までは、日本で有数の捕鯨基地でし
た。 みすゞさんのお父さんの出身地である青海島の通地区では、本格的に捕鯨
が展開され、「鯨一頭捕れば七浦賑わう」という時代に六年間に、七十八頭の鯨
を捕獲したといわれています。
しかしその豊漁の裏側で人々は鯨に対して憐憫を感じ、根源的なさみしさを知
り、鯨への感謝と供養のため、観音堂を建て鯨の回向を始めました。そして、鯨
の戒名を記した過去帳と位牌を設け、鯨の胎児を埋葬した鯨墓を建立しました。
鯨墓の「南無阿弥陀仏」「業尽有情雖放不生 故宿人天同証仏果」の刻印は、
"鯨としての命は母鯨とともに終わってしまった子鯨よ。できることなら海に帰
してやりたい。しかし、海に放っても子鯨一人ではとうてい生きてはいけないだ
ろう。ならばどうか人天界に宿って、仏の功徳を受けてほしい"という意味だそ
うです。漁民のやさしさを感じます。

みすゞさんは、お父さんからこのような様子を幼いころから聞いていて、その
影響を大きく受けたものと思われます。

「鯨法会」

鯨法会は春のくれ、
海に飛魚とれるころ。

濱のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき、

村の漁夫が羽織着て、
濱のお寺へいそぐとき、

沖の鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、

死んだ父さま、母さまを、
こいし、こいしと泣いてます。

海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら。


また、仙崎には、人間として生を受けた喜びを子どもの時から教えようとした
小児念仏会(こどもねんぶつえ)もありました。寺に子供を集めて法話、童話を聴
かせ、仏前に供えた菓子を与え、念仏を唱えさせるもので、現在に至るまで二百
年以上も続いてるということです。日曜学校の世界的研究家のロンドン大学のチ
ャールズ・ダン教授は、「西円寺の小児念仏会こそ、世界最初の日曜学校であ
る。」ことを証明されたということです。
信仰が広く浸透した様子は、町の中を歩いていても、漂うお線香の香りやきれ
いになっているお墓や屋根付きのお堂で大事にされているお地蔵さまの様子など
からも伺えました。みすゞ記念館では、みすゞ顕彰会の会長さんである山田さん
からいろいろなお話をうかがうことができ、感謝していますが、その山田さんの
お話では、仙崎の人たちは、毎朝お墓をお掃除してお花を上げお参りするのだと
いうことでした。それが仙崎ではあたりまえになっているようでした。

「お佛壇」

お背戸でもいだ橙も、
町のみやげの花菓子も、
佛さまのをあげなけりゃ、
わたしたちはとれないの。

だけど、やさしい佛さま、
じきにみんなに下さるの。
だから私はていねいに、
両手かさねていただくの。

家にゃお庭はないけれど、
お佛壇はいつだって、
きれいな花が咲いてるの。
それでうち中あかるいの。

そしてやさしい佛さま、
それも私にくださるの。
だけどこぼれた花びらを、
踏んだりしてはいけないの。

朝と晩とにおばあさま、
いつもお燈明あげるのよ。
なかはすっかり黄金だから、
御殿のように、かがやくの。

朝と晩とに忘れずに、
私もお礼をあげるのよ。
そしてそのとき思うのよ、
いちんち忘れていたことを。

忘れていても、佛さま、
いつもみていてくださるの。
だから、私はそういうの。
「ありがと、ありがと、佛さま。」

黄金の御殿のようだけど、
これは、ちいさな御門なの。
いつも私がいい子なら、
いつか通ってゆけるのよ。

みすゞさんのお父さんはみすゞさんが三才のときに亡くなられましたが、お祖
母さんのウメさんとお母さんのミチさんは、「お父さんは見えないけれど、いつ
もみんなのそばにいて、ちゃんと見ててくださってるの、守ってくださってるの
よ。」とおっしゃったということです。小さな頃からごく自然に「見えぬけれど
もあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」ということを実感していたのでし
ょう。

「星とたんぽぽ」

     青いお空の底ふかく、
     海の小石のそのように、
     夜がくるまで沈んでる、
     昼のお星は眼に見えぬ。
       見えぬけれどもあるんだよ、
       見えぬものでもあるんだよ。

     散ってすがれたたんぽぽの、
     瓦のすきに、だァまって、
     春のくるまでかくれてる、
     つよいその根は眼にみえぬ、
       見えぬけれどもあるんだよ、
       見えぬものでもあるんだよ。


仙崎では、こうした歴史や風土の流れの中でふだんの生活でも、子どもたちは
ごく自然にいのちの大切さを教わっているようです。
鯨墓に行こうとして、大泊でバスを待っていたときのことです。幼稚園児くら
いの小さな子どもたちが五人バスを待っていました。しゃがみこんでみんな何か
を一生懸命見ています。蟻でした。後からいらした方にはみんなで挨拶をしなが
ら、ずっと小さな蟻の動きをみんなで見つめていました。そして、先生らしき女
性も近くのおばあちゃんも「おうちだねぇ。」「あっ、踏むよ。」と声をかけな
がら、一緒に見ていました。私は心あたたかくなりながら、バスが来るまでずっ
と子どもたちを見ていました。

「柘榴の葉と蟻」

柘榴の葉っぱに蟻がいた、
柘榴の葉っぱは広かった、
青くて、日陰で、その上に、
葉っぱは静かにしてやった。

けれども蟻は、うつくしい、
花をしたうて旅に出た。
花までゆくみち遠かった、
葉っぱはだまってそれ見てた。

花のふちまで来たときいに、
柘榴の花は散っちゃった、
しめった黒い庭土に。
葉っぱはだまってそれ見てた。

子供がその花ひィろって、
蟻のいるのも知らないで、
握って駈けて行っちゃった。
葉っぱはだまってそれ見てた。

みすゞさんの詩には、見逃してしまうような存在にも関心を向け、その存在の
意味をとらえる確かなやさしいまなざしがあります。この宇宙に存在するもの全
てのものに要らないものなどないのでしょう。あたりまえと思いがちなことにも、
みすゞさんはこころを傾けて感動し、感謝しています。

「土」

こッつん こッつん
打たれる土は
よい畠になって
よい麦生むよ。

朝から晩まで
踏まれる土は
よい路になって
車を通すよ。

打たれぬ土は
踏まれぬ土は
要らない土か。

いえいえそれは
名のない草の
お宿をするよ。

***

「芝草」

名は芝草というけれど、
その名をよんだことはない。

それはほんとにつまらない、
みじかいくせに、そこら中、
みちの上まではみ出して、
力いっぱいりきんでも、
とても抜けない、つよい草。

げんげは紅い花が咲く、
すみれは葉までやさしいよ。
かんざし草はかんざしに、
京びななんかは笛になる。

けれどももしか原っぱが、
そんな草たちばかしなら、
あそびつかれたわたし等は、
どこへ腰かけ、どこへ寝よう

青い、丈夫な、やわらかな、
たのしいねどこよ、芝草よ。

 
  続く(みすゞさんのこころ2へ)


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