来★して2年半
こんばんは。涼しいシンガの夜です。4晩続けて、いいこで朝までねてくれた娘っ子(1歳1カ月)★昨日は、ボールで抱っこして弾んでいるうちにすやすや・・・。おやすみなさーい。今日は、上の子たちに絵本を読んでいるあいだに、お休みに・・・。なんて、手のかからない子なでしょう~。娘が、第3子として私のもとへやってきてくれて、本当によかった。第1子のときには、昼寝をどうやってさせたらいいのかわからず、ひたすら、生活リズム大混乱&育児ハイ状態のまんま、長男を追いかけまわしてへとへと&へらへら(^^)の日々。そして、まんまと第2子受注。(当時長男1歳9カ月)第2子の切迫早産の診断が下り、突然の入院生活に。初産から2年3か月して、初めてオムツ替えをしない生活、独り身の時間(心臓2つ)。突然、母子分離状態となり実家でいとこと一緒に保育園生活がスタートした長男をかわいそうに思って?、長男の面倒みるためにパートナーは第2子の産前1カ月と産後1カ月の合計2ヶ月間、育児休職を取得。おもしろいのは、産前は第1子(当時2歳4カ月)の育児の名目で取得。(無給。ハローワークからの育児休職中の手当てもなし。国の支給対象は1歳~1歳半まで。夫の会社では3歳のお誕生日まで育児休職の取得が可能)産後1カ月間は、第2子の育児休職として取得=無給ですがハローワークからの給付金あり★会社も、前例のないケースだったので、社内規定などを改定して対応してくれまひた。ありがたや。第2子の産後は、妊娠中の安静入院生活の影響が大きく、また、産後1カ月で復帰した夫は復帰後3日目にはロンドンへ旅立っていったので。。。私の体力・気力が2男児の育児のタスクに追い付くのに、大変苦労しまひたっけ。でも、夫の育児休職中に、当時住んでいた世田谷区の「子育てカレッジ:産後のセルフケア講座」を申し込んでいたことで、救われまひた~。その後のわたしの足跡が、2007年1月(第2子の産後3か月のころ)にスタートしたこのブログでごじゃいまする。わたしが運よく?、2007年お正月明けに出会ったのが、「産後ケア」というヘルスケア。今日は、シンガの朝日新聞にも16日土曜日に掲載されていた「産後」に纏わる記事をご近所さん(昨年のシンガ出産仲間・産後11か月)がわざわざ持ってきて下さった。ありがとぉ。そしてそして、同じ階に生後5カ月の赤ちゃんがご来☆、先月されたことを知る。「日本で産後クラスを受講していらっしゃいました?」ってご挨拶の次に、聞きそうになって まずはご出身地から。。。と心改める。なはは。どこの地において、子育てをしていようと、家族の事情で、様々な困難を携えていようと、はたまた紛争の地に新しい命を授かったと、仮にしても、やっぱり、新生児を抱き、生活を再スタートする女性の健康は、なにより大切。世界の土台。未来の根っこ。今夜は、世界人口白書2010をダウンロード☆____<国連人口基金東京事務所のサイトより↓>国連人口基金 「世界人口白書 2010」平和と安全には、 女性の権利とエンパワーメントが不可欠 2010年10月20日ロンドン本日グリニッジ標準時正午(日本時間午後9時)、国連人口基金は「国連人口白書2010」を世界同時発表した。日本語版(抜粋)_____言葉が大切。言葉にすることで、明らかになることがある。言葉に残すことで、伝わることがある。わたしが1998年冬にネパールの山奥をあるくOKバジさんの後ろについて目からうろこ落ちまくりの日々を過ごした時にヒマラヤを眺めながら、青空トイレを経験し、そして、心に沸き起こった、テーマ。「(女性の)識字と自立」その後、北インドの土地を一人歩き、現地NGO,JICA,UNDP他のプロジェクト地を巡ってNGO事務所に寝泊まりさせてもらったり、国連OB宅にホームステイさせて頂き、職業訓練や教育の場を提供している、インド人によるインド人の子どもたちの為のNGOを見学させてもらったり、心ばかりの寄付をよろこばれ小さな基金を作って下さったり、バナラシのガンガー(聖なる川ガンジス)のほとりでぼーっと行き交う人々を観察したり、そんな沢山のことが交錯して、伝えたくて伝えたくて、インターネットカフェに立ちよりまだ、メールアドレスしか知らなかった彼(今の夫)に、インドからの便りを送った。マザーテレサの眠る施設マザーハウス(教会だと思いましたが。。違ったみたい)で、真っ白な棺の前に立った時、涙があふれてきてしまった。彼女に声をかけてもらったことはない。でも、彼女の作った孤児院を訪れたとき、ベビーベッドに4人も5人も一緒に入っていた1歳~2歳くらいの子どもたちが私に言った言葉が、耳から離れなかった。「わたしを一緒に連れて帰って~」大きな、大きな目が、しっとりと涙で輝く、その大きな瞳でとらえられ浅黒い手を差しのべられた自分には、本当に、なんと声をかけてあげたらいいものか、一体これから何をすべきなのか・・。NPOを通じて、奨学金をお届けしていた奨学生の女の子が、すこし崩れた藁ぶき屋根のお家から、恥ずかしそうに出てきたとき、なんだか私は、その出会いを静かな温かみのある光を浴びるように感じていた。その村で、ライムを手にわたしに微笑んでくれた、幼い女の子の写真。わたし、大好きな1枚だった。いま、あの写真はどこにあるかな、、。あの子は、いまどうしているのかな。。。農奴の家庭の子どもたちを、学校に通えるようにと必至で活動をつづけている現地NGO代表のご家族とのひと時は、緊張感をぬぐえなかった。学校に火が放たれたこととか、命を危険にさらしても続けている活動・・・。村村から女性が集まって、普通はしないような、人前での発言の機会をつくりお互いにマイクを手に、自分の経験やお話をする場に立ちこめる土埃とその埃をよけるために彼女たちがサリーの色鮮やかな布を顔にあてているしぐさ。もちろん、青空ひろば。2月だったけれど、わたしの心と体は熱かった。そして、余りにも重い課題を持って、わたしは帰国の途についた。当時大学5年生のわたし。卒業まであと1カ月。インドの圧倒的なごった煮状態の世界から、東京へ戻ると、わたしは表現する力を失っていた。1999年2月自分に一体何ができるのだろうか。就職後の毎日は、忙しかった。社会人となって、わたしが続けようと思ったのは南西アジアを中心とした貧困農村の子女に対する奨学金をNPO2050経由で届けること。1999年~地域の活性化、次世代につなげる指導者の育成、貧困を解消するために一番てっとりばやく、そして重要なことが、女性への支援。その第一歩が、奨学金。ネパール、そしてインドへの道を開いてくださった、NPO2050の方々に学びながら。でも、いつしか私は知る。最大に運よく、北インドの女の子が学校へ行く機会を持て、自分の地域に戻り先生や、他の職業につき、指導者的な立場につくことができたとして、結婚、出産を機に、はやり彼女たちも一つの壁にぶち当たるのだ。そう、産後。日本の産後とは、違う。でも、それぞれの「産後」。地域で指導者的な立場になれた女性だって、産後、子どもを抱えて、その先の人生をどのように生きてゆきたいのか。しっかりとしたビジョンを自分で紡ぐことができなければ何も始まらない。世界のどこで、どんな子育てをしていても。どんな困難の中で、子育てをしていようとも。☆★☆社会人になってから参加したフィリピンの貧困農村における女性向けの職業訓練及び、地域産業興しのプロジェクトの始動に際し、NPO2050代表にくっついて出向いた時、女性が職業を手に生きることのインパクトを知った。2001年夏あきたらず、またまた夏休みを当てて NPO2050の研修旅行に参加し、パプアニューギニアの地を訪れ三百を超える少数民族、500を超える言語という未開の地!に足を踏み入れてみれば、白い豪邸とヨットハーバーを見下ろす山の中には、都市へ流入した若者や貧困家庭がスラムを作って生活をしている集落があり、UNHABITATのプロジェクト地域を案内してくれた現地の案内人いわく「あの白い(外国人の)家家に爆弾をおとして、爆破してやりたいよ」と真顔で話していた。衝撃的だった。女性のことは、女性に聞かないと分からないよ。と、当時のUNDPパプア代表にお話をきいた。治安が悪く、女の子に安全に教育を受けさせようと思ったら、豪州など、外国での教育をさせる他はない、と言い切る人もいた。レストランでサービスをしている女の子たちに尋ねてみたら、きっと言葉にできない辛い経験をしている子ばかりだよ。とも。だれもが、きっと同じだよ。とそんな、暗黒に見える女性の地位の国にも、おいしい料理はあったし楽しいひと時もあった。きれいな海もあったし、極楽鳥もいた。きっと、パプアにはいつかまた行く日が来る。そんな、気がした。2002年夏今も、そう。でも、今はまだ、なんだな、きっと。(夫は近々訪れるそうですがね☆2010)母となってからも、はやりNPO2050のニュースレターを通じて大きな衝撃を受けた。それが、フィスチュラという病気による産後の女性の健康問題と社会からの隔絶の問題。2004年夏だったか・・自分の日本・世田谷での産後の体験しかしてなかった当時でも、その辛さを想像するに、涙がとめどなく出て仕方がなかった。そう、女性のことは、女性に聞かないと、わからんのだよ。識字それは、言葉の力。自立それは、女の力。「ことば(識字)と自立」~~~来☆して2年半。インドやネパールやパプアの国々は、日本よりもずっとずっと近いのだ。近いけど、そうやすやすは行けないですけどね・・・。がんばれ、未来の根っこ☆(ずらずらと書きなぐったようなエントリで申し訳ありません。おつきあい、心より感謝申し上げます。)