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私にとって有益なコメントではないのだけれども
いただいたコメントに「ふわドラ思想」という表現が ありました。 このふわドラ思想、当然のことながら 他者の影響をも受けながら形成されているのですが 「ふわドラ思想」などと改まって考えたことがないので ふわドラ思想とは何か?と一度考えて見ることに。 「ふわドラ思想」の根底に流れているのは、一貫して、 「人間による動物の利用をできるだけ縮小し、 必要最低限での利用で満足することにしましょう」 という方向に進んでいくべきではないか? という考えです。 動物の利用を縮小すべきではないか?という考えは、 今現在の危機的な地球環境を視野に入れるところから 生じているのですが動物の利用を縮小していく努力をすることは、 人間と動物の双方に益があると思います。 もっとも、 動物の利用に特化して縮小すべきだと言うのではなく、 今現在は、あらゆる側面で環境に不可を与えないような生活が 求められていると思えるのだけれど、 動物問題もこれに該当するでしょうね・・・という スタンスなわけで、これを切り口に動いているわけです。 さて、古今東西、人間は様々な分野で 様々な動物を利用して生きていますけれど その利用の仕方は、 必然的にアンソロポ・セントリック(=人間中心主義)に 基くものとなっており、従って 野生動物を含め、様々に利用される動物たちに 多大な苦痛をもたらす結果になっていると言えます。 これに関しては、ほんのちょっと想像力を働かせれば 誰もが認識できると思いますが、 長くなるので、人間のペット利用について述べますと 人間によるペット飼育が環境にもたらす負荷を考えた場合、 当然のことながらペットの総数を減少させていくことを 視野に入れなければならないのではないでしょうか? またそのことは、 同時にペットとされている動物の不幸の軽減にも 繋がっていくことになり、 結果として総体的にペットの利益に繋がると思います そのために必要なことのひとつは、 とにかく飼い主責任を徹底させる方向に動いていくことであり 国や国民が考えるべきことを考えず、 無責任飼い主の後始末をしているようでは延々とペットの不幸は続くでしょう。 また、ふわドラ思想の持ち主は、 飼わない選択をも強調していくことが重要なのでは? と考えているようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
論理的にとの希望であるならばそうすることにしよう。
>動物の利用を縮小すべきではないか? まあ、いいだろう競馬も止めるべきだ、動物園もいらないだろう、ペットショップも当然いらないか。しかし、競走馬は不要になったらどうしたらいいんだ。動物園のトラは?いまさら自然に帰れはひどかろう。ならば、ふわドラ必殺の安楽死か?人類は野生動物を使役動物として家畜化することを、機械化することにとってかえ、ずいぶん利用を縮小してきたと思うのだがまだご不満か? (2007.04.29 15:28:34)
>動物の利用を縮小すべきではないか?という考えは、今現在の危機的な地球環境を視野に入れるところから生じているのですが
おいおい、環境破壊の原因が野生動物の家畜化の進展なのかい?家畜化を機械化にとってかえたから地球環境を破壊したんじゃないのか。人間が馬にのって移動していた頃には、温室ガスは問題にもならなかったぞ。自動車の出す排気ガスのほうがはるかに環境を破壊したんじゃないのかな。牛馬で農耕していたころにくらべて、大型耕作機械と化学農薬による大規模農業ははるかに環境を破壊したんじゃないのか。 (2007.04.29 15:31:40)
>人間と動物の双方に益があると思います。
どんな益があるのだろうか、重要な結論なのだからもうすこし丁寧な記述があってもいいのでは?例の一つ二つあげていただきたいものだ。それとも思いつきで、そんな気がする程度の結論なのか?もしかして。 >もっとも、動物の利用に特化して縮小すべきだと言うのではなく、 おっと、いままでの話の展開をひっくりかえすわけ?「ふわドラ思想」の根底に流れているのは、一貫して・・・じゃなかったの? (2007.04.29 15:32:50)
>さて、古今東西、人間は様々な分野で様々な動物を利用して生きていますけれどその利用の仕方は、必然的にアンソロポ・セントリック(=人間中心主義)に基くものとなっており、従って野生動物を含め、様々に利用される動物たちに多大な苦痛をもたらす結果になっていると言えます。
こうゆう記述をするから軽くてオソマツといわれるんだよ。家畜の利用仕方が必然的にanthropocentrismに基づくものって、いったいその「必然」であることを規定している前提の記述がないではないか。何をして家畜の利用をnthropocentrismなものにしているの?難解な環境倫理学用語を持ち出したら、読者が無前提に同意するとでも思っているのか。 (2007.04.29 15:33:40)
しかしながらそれ以上に毎度非論理的だと思うのは、「野生動物を」この野生動物っていうのは、たとえばアフリカやインドやアラスカの自然のなかで生存しているライオンやトラやグリズリーなどなどの野生動物であると素直に理解するならば、次に続く「含め様々に利用される動物たちに」と言う記述は「様々に利用される動物たち」に「野生動物」が「含」まれているということであり、当然それは誤った認識である。野生動物は使役動物としての家畜ではないことは明らかな事実だ。ならば超お人好しの解釈で「野生動物」and「様々に利用される動物たち」という並列表記と理解して、「多大な苦痛をもたらす結果になっている」と言う結論は妥当か?違う!野生動物が被っている悲劇と家畜、たとえて言えば牛舎の牛、養鶏養豚場の鳥や豚が被っている「悲劇」とは質の異なる問題だ。
(2007.04.29 15:34:35)
さすがに、論理に齟齬が生じていると感じたのか、「これに関しては、ほんのちょっと想像力を働かせれば誰もが認識できる」とフォローを付けつつも「長くなるので、人間のペット利用について述べます」と言っている「長くなるので」ってどうゆうこと??「ちょっと想像力を働かせれば」感性では理解できるが、理性で実証的論理的に論じると長くなるっていうことなのか?それなら長くなっても論理的に展開するべきではないのか。「さて、古今東西」とはじめた新しいセンテンスの大前提となる重要な問題提起なのだから読者を煙に巻くような記述でペットの話へと振ってもらいたくないな。
(2007.04.29 15:35:26)
「ペット飼育が環境にもたらす負荷」?大笑いだよ。おもわず噴いちゃってコーヒーこぼしちゃった。犬猫などなどのペット減らしたら環境への負荷が減る?そりゃあもしかしたら減るかも知れないけど。消費者の側からすれば、それより車の利用を減らした方がいいんじゃないの。電力消費をおさえる意識とか、分別廃棄とかリサイクルとか。生産者の側からすれば過剰な生産を抑制するとか、循環型の生産形態の確立とか、真っ当な人はそう思うよ。
>「そのことは(ペットの総数を減少させていくこと)、同時にペットとされている動物の不幸の軽減にも繋がっていく」 いったい何が不幸なのかきちんと展開しないと訳がわからんよ。ペットはアプリオリに不幸だなんて言ったところで真っ当な人には理解しがたいと思うのだが。その点がとても重要で「ふわドラ思想」の核心はこの訳のわからないペットと言う存在=不幸という難解で不条理な等式に凝縮されている。この等式を無批判に受け入れた場合、ペットの総数=0はペットの不幸=0ということで、とても稚拙な論理であるといえる。ペットの「不幸」減るかも知れないけど同時にペットの幸せも減るよな、当然。 >「結果として総体的にペットの利益に繋がる」 しかし結論がこうなるところが、なんとも不可思議な文章である。冒頭にも書いたがあらためてこの利益とやらはなんなのか?かくのごとき散文では到底筆者の意図は読み手に伝わらない。 (2007.04.29 15:36:37)
まあ、方法論の記述が毎度回避される「ふわドラ思想」は飼い主責任にこれまた毎度終始するのであるが、まあ飼い主責任を訴えることは別段なんの問題もなくその通りだとおもう。しかし
>国や国民が考えるべきことを考えず、無責任飼い主の後始末をしているようでは延々とペットの不幸は続くでしょう。 なに??? 「国や国民が考えるべきこと」って なに?????「無責任飼い主の後始末をしているようでは延々とペットの不幸は続く」って、もうすこし丁寧に記述すべきだとおもうが、能力が足りないのか認識が不足しているのか最初から最後まで感情と表象の噴出が結晶したような散文である。アナタの大きな認識の誤りの一つは、野生動物と家畜とペット(愛玩動物)の人間社会における各個別なそれぞれの歴史的位置づけを一切捨象したところで同じ土俵のうえで論じているところにあるんだよ。もうちょっと勉強した方がいいとおもうよ。イエネコの歴史くらいさ、イエネコは家畜なんだよ。 (2007.04.29 15:38:25)
私は、環境テロをも是認するラディカルな立ち位置にありその点で若干方法論に違いがあるが、ことネコが今日おかれている現状に関しての認識は一致している黒猫亭さんのブログエントリーを紹介させていただこう。
http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2006/08/post_f818.html 「一万年の蜜月」 http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2007/03/post_91fc.html 「獅子の瞋恚」 家畜であるイエネコが日本では1905年発売された「ねこいらず」よって、家畜としての使用価値をうしない放たれて野良猫となったのだということ。今日、一万年の年月を介して生まれた「ペット」としての副次的な属性をもって辛うじて生きのびていることを理解していただきたい。 (2007.04.29 23:12:20)
たくさんのコメント有難うございます。私もたくさん書きたいことがありますがスミマセン7日以降に書かせていただきます。今日は、ふたつだけ。
>>動物の利用を縮小すべきではないか? >まあ、いいだろう競馬も止めるべきだ、動物園もいらないだろう、ペットショップも当然いらないか。しかし、競走馬は不要になったらどうしたらいいんだ。 まず、私は、縮小すべきではないか?と書いたのであって今すぐに廃止すべきだと書いたわけではありませんよ。実際問題、競馬も動物園もペットショップも存在し続けるでしょうし・・・ それと、馬への言及についてですが >競馬も止めるべきだ >しかし、競走馬は不要になったらどうしたらいいんだ。 「優駿の門 ー競走馬、その生涯ー」という自主制作ビデオがあります。通りすがりさんのコメントを読んで久しぶりに見てみました。「競馬が存在する社会」における経済動物としての馬の状況がよく理解できると思います。馬の保護管理研究会で貸し出ししているようです。よろしければ、1度ご覧になられてはいかがでしょうか? (2007.04.30 23:42:03)
いいですよ、7日以降でまってます。たくさんかいてくださいな。あなたの考えの根底にあるものが私は知りたい。
ペットショップで購入した猫は「しっこたれ」でお気に召さなかったようでずいぶんぞんざいなことを書いていたようだが。 貴方様は疥癬にかかった猫をふくめて3匹の野良猫を保護して飼育しておられる。その点に関して私は、すくなくとも無条件で敬意を表するものである。また、その事実から心のやさしい方であると思うのだが、発言はとてつもなくそうした慈悲に溢れた行為にたいして否定的なものとなっているように思うのである。 世の中猫嫌いの人間が存在することは事実であり、それは私も認めるところである。エントリー「前回の続き」でコメントでふれているが、私の両親は猫嫌いだった。それでも鼠とりに猫を飼っていた。猫が鼠を捕る必要がなくなったいま、猫嫌いが猫を飼う必然性は消滅したゆえのことだろうか。 だが、貴方様はそのような人種ではないように思うのだが、実に不可解である? (2007.05.01 01:23:40)
>ペットショップで購入した猫は「しっこたれ」でお気に召さなかったようでずいぶんぞんざいなことを書いていたようだが。
うーん、ずいぶん被害を受けましたが、黙々と掃除して大事に飼ってましたので、一応。 1度家から出られたときは、帰ってきたらすぐに家に入れられるように私は玄関で寝たのですが、5日目の早朝猫がケンカする声で飛び起きて外に出たらそこにいたというようなことががありました。 文字のみでの発信の難しさを頭に入れておかなければ・・・と思います。 (2007.05.01 17:36:21)
>3年ほどで、病気になりこの世から消えてしまいましたが
>物だったら不良品ですよね。 エントリー「子犬や子猫の売買について」から抜粋 私はこの二言に激しい違和感を感じたのだが。この発言から飼い猫への愛情の程が知れるというものだろう。 じゃんけんの後出しのようなフォローコメントはいただけないな。 >文字のみでの発信の難しさを頭に入れておかなければ・・・と思います。 そう言う問題じゃないと思うが。文字のみで発信してもきちんと真意を伝える事のできる人はたーくさんおる。一に精神、二に能力の問題だろう。 (2007.05.01 23:21:30)
>私はこの二言に激しい違和感を感じたのだが。この発言から飼い猫への愛情の程が知れるというものだろう。
うーん、私は常に人間というのは、ほんのつかの間地球上に現れては消えていく存在である(からしたい放題しなさんな)と思っているので、「消えていく」という表現は自分自身にもよく使うのですけれどね。 それと「不良品」という表現は、普通の猫のおトイレも置けないような狭いケージに入れて売っていた(だから、おトイレの習慣が身についていない)ペットショップの店主に対して批判の意を込めて発したのですけれど。 まあ「藪の中」の類のやりとりになってしまうでしょうから、もうやめますが一応これだけ。 (2007.05.02 09:04:07)
さて、反論を開始させていただきますね。(少しづつ)
>>もっとも、動物の利用に特化して縮小すべきだと言うのではなく、 >おっと、いままでの話の展開をひっくりかえすわけ?「ふわドラ思想」の根底に流れているのは、一貫して・・・じゃなかったの? 「人間による動物の利用をできるだけ縮小し、必要最低限での利用で満足すべきではないか?」という一貫した考えというのは、「動物に関しては」ということであり、 このことは、その他の様々な分野において私たちが抑制すべきであろうと考えられる事柄(例えばなるべく車の使用を控える)と同列に置いて論じることでしょう・・・ということを意図して書いたのであって日本語として矛盾していないと思いますけれど? 以上は、私の基本的な考え方なのでまずご理解いただければと思います。 あと、「人と動物の関係を斬る!」という知人のサイトの掲示板で動物の利用および利用の是非について考えさせられる新しい書き込みがありますので、お読みいただければ幸いです。 http://idobbs.iaigiri.com/ (2007.05.07 23:00:54)
>人類は野生動物を使役動物として家畜化することを、機械化することにとってかえ、ずいぶん利用を縮小してきたと思うのだがまだご不満か?
「動物の利用」という私がよく用いる表現の対象動物は、野生動物も含めたあらゆる動物であり、当然ペットとされている犬や猫なども含んでいるのですが、 野良猫さんにとっては、この点如何なのでしょうか?つまり、犬や猫を動物実験に使うというのは誰しも「利用」だと考えると思うのですが、「愛玩動物として飼う」というのは、野良猫さんにとっては どういう位置付けなのでしょうか? (2007.05.07 23:15:18)
>人類は野生動物を使役動物として家畜化することを、機械化することにとってかえ、ずいぶん利用を縮小してきたと思うのだがまだご不満か?
うーん、野生動物の利用は世界中でむしろ拡大しているのではないかと思えるのですが・・・ というか、何をもって利用と言うのか定義付けないと話が噛み合わないという結果になりそうですね。 (2007.05.07 23:31:06)
>>さて、古今東西、人間は様々な分野で様々な動物を利用して生きていますけれどその利用の仕方は、必然的にアンソロポ・セントリック(=人間中心主義)に基くものとなっており、従って野生動物を含め、様々に利用される動物たちに多大な苦痛をもたらす結果になっていると言えます。
>こうゆう記述をするから軽くてオソマツといわれるんだよ。家畜の利用仕方が必然的にanthropocentrismに基づくものって、いったいその「必然」であることを規定している前提の記述がないではないか。何をして家畜の利用をnthropocentrismなものにしているの?難解な環境倫理学用語を持ち出したら、読者が無前提に同意するとでも思っているのか。 反論を続けさせていただきます・・・ 前回も申し上げましたが、私、特に家畜の利用に焦点を当てて論じていません。「人間は様々な分野で様々な動物を利用しながら生きてきている」と書いたことが 何故、野良猫さんには(使役動物としての?)家畜の利用と受け止められているのでしょうか?野良猫さんにとって動物の利用とはイコール家畜としての利用と理解してよいのでしょうか? また、言葉の用法として犬や猫も家畜と称してよいのでしょうか? いずれにせよ、「家畜の利用仕方が必然的にanthropocentrismに基づくもの」というあなたの解釈は私が言わんとしていることからはズレていると言わせていただきます。 また、必然と述べたことの前提がないとおっしゃいますが、日本語は話し手、聞き手の双方にとって分かっていること(共有されている情報)は、あえて言葉にしなくてもよい言語です。 地球上の生き物で、人間のみが言語を用いているわけで、人間と動物を分け隔てる決定的な要因になっていますよね。人間が世界を取り仕切っているのではないですか? (2007.05.13 22:32:26)
>しかしながらそれ以上に毎度非論理的だと思うのは、「野生動物を」この野生動物っていうのは、たとえばアフリカやインドやアラスカの自然のなかで生存しているライオンやトラやグリズリーなどなどの野生動物であると素直に理解するならば、次に続く「含め様々に利用される動物たちに」と言う記述は「様々に利用される動物たち」に「野生動物」が「含」まれているということであり、当然それは誤った認識である。
↑このようにややこしく説明していただかなくても、文字通りに読んでいただければ、野生動物もまた利用されていると書いていることは明らかだと思うのですけれど? >野生動物は使役動物としての家畜ではないことは明らかな事実だ。ならば超お人好しの解釈で「野生動物」and「様々に利用される動物たち」という並列表記と理解して、「多大な苦痛をもたらす結果になっている」と言う結論は妥当か?違う!野生動物が被っている悲劇と家畜、たとえて言えば牛舎の牛、養鶏養豚場の鳥や豚が被っている「悲劇」とは質の異なる問題だ。 ↑おっしゃりたいことがよく理解できないのですが・・・もう少し具体的に説明していただけないでしょうか?特に「質の異なる問題」とはどういうことか説明していただければと思います。 (2007.05.14 23:02:02)
>さすがに、論理に齟齬が生じていると感じたのか、「これに関しては、ほんのちょっと想像力を働かせれば誰もが認識できる」とフォローを付けつつも「長くなるので、人間のペット利用について述べます」と言っている「長くなるので」ってどうゆうこと??「ちょっと想像力を働かせれば」感性では理解できるが、理性で実証的論理的に論じると長くなるっていうことなのか?それなら長くなっても論理的に展開するべきではないのか。「さて、古今東西」とはじめた新しいセンテンスの大前提となる重要な問題提起なのだから読者を煙に巻くような記述でペットの話へと振ってもらいたくないな。
論理に齟齬が生じていると感じたようなことは全くないのですけれど?野生動物および人間の占有下にある動物の利用のされ方は、個々の動物によって異なりますから、いちいち書いていたらかなりの長文になってしまうので、はしょっただけのことです。 何を書いて何を書かないかは書き手の自由ですし、「ふわドラ思想」という表現はペットをトピックしたエントリーでのコメントにあったので、ペット利用に言及しただけのことです。 (2007.05.14 23:33:42)
>「ペット飼育が環境にもたらす負荷」?大笑いだよ。おもわず噴いちゃってコーヒーこぼしちゃった。犬猫などなどのペット減らしたら環境への負荷が減る?そりゃあもしかしたら減るかも知れないけど。消費者の側からすれば、それより車の利用を減らした方がいいんじゃないの。電力消費をおさえる意識とか、分別廃棄とかリサイクルとか。生産者の側からすれば過剰な生産を抑制するとか、循環型の生産形態の確立とか、真っ当な人はそう思うよ。
「今現在は、あらゆる側面で環境に不可を与えないような生活が求められていると思えるのだけれど、 動物問題もこれに該当するでしょうね。」と書いているのですけれどね? 野良猫さんは、該当するかもしれないけれど、さほど需要ではないというお考えのようですが、このあたり、もう少し真剣にお考えになってみてはいかがでしょうか? (2007.05.14 23:47:30)
>>「そのことは(ペットの総数を減少させていくこと)、同時にペットとされている動物の不幸の軽減にも繋がっていく」
>いったい何が不幸なのかきちんと展開しないと訳がわからんよ。ペットはアプリオリに不幸だなんて言ったところで真っ当な人には理解しがたいと思うのだが。その点がとても重要で「ふわドラ思想」 の核心はこの訳のわからないペットと言う存在=不幸という難解で不条理な等式に凝縮されている。この等式を無批判に受け入れた場合、ペットの総数=0はペットの不幸=0ということで、とても稚拙な論理であるといえる。ペットの「不幸」減るかも知れないけど同時にペットの幸せも減るよな、当然。 確かに、野良猫さんが >いったい何が不幸なのかきちんと展開しないと訳がわからんよ。 と仰るように、何をもって不幸と見做すかは人によって異なっていると思いますが、 野良猫さんが、私が3匹の捨て猫を保護し飼っていることに敬意を表すると仰って下さったことについて言えば、例えば猫が捨てられひもじい思いをしたり病気に罹っていることは不幸だとお考えになったからですよね? つまり、私が不幸という言葉を用いたのは、「とりあえず」誰もが不幸だと感じるようなペットの状況を指していると考えていただくことを前提にしてのことだと説明させていただきます。 >ペットはアプリオリに不幸だなんて言ったところで真っ当な人には理解しがたいと思うのだが。その点がとても重要で「ふわドラ思想」の核心はこの訳のわからないペットと言う存在=不幸という難解で不条理な等式に凝縮されている。 ここのところは、当のふわドラ思想の持ち主からすれば 人間に飼われるペット=人間に利用されるペット=不幸 と訂正させてていただきたいのですが、これについての説明はまた後日にさせていただきます。 (2007.05.15 22:20:42)
>まあ、方法論の記述が毎度回避される「ふわドラ思想」は飼い主責任にこれまた毎度終始するのであるが、まあ飼い主責任を訴えることは別段なんの問題もなくその通りだとおもう。しかし
>>国や国民が考えるべきことを考えず、無責任飼い主の後始末をしているようでは延々とペットの不幸は続くでしょう。 >なに??? 「国や国民が考えるべきこと」って なに?????「無責任飼い主の後始末をしているようでは延々とペットの不幸は続く」って、もうすこし丁寧に記述すべきだとおもうが、能力が足りないのか認識が不足しているのか最初から最後まで感情と表象の噴出が結晶したような散文である。 国や国民が考えるべきことを考えず・・・々の前に、「 そのために必要なことのひとつは、とにかく飼い主責任を徹底させる方向に動いていくことであり」と書いているのですけれど? つまり、国や国民は、「飼い主責任を徹底させる方策についてもっと考えなきゃいけないでしょ?」と書いてるわけです。 国や国民が考えるべきことを考えず(つまり飼い主責任の追求を曖昧にしたまま)、無責任飼い主の後始末をしているようでは延々とペットの不幸は続くでしょう。 という下りで書いた国による無責任飼い主の後始末とは、環境省の動物再飼養支援 収容動物データー検索サイトなるものを意識して書いたのですが、私の過去の記事を読んでいただいていない方には、確かに何を意味しているのか理解できないかもしれませんね。 (2007.05.17 22:01:26)
字数制限に引っ掛かったので分けます。
この環境省の動物再飼養支援 収容動物データー検索サイト、「あなたをまっている 動物がいます」という軽い文言しか入っていなかったのですが、4月になって、「動物は飼い主が最後まで責任を持って飼うことが原則です」「自治体に引取を求める前に、自ら譲渡先を探してください。」等の追加の文言が入りました。 どなたかの働きかけがあってのことかもしれませんが、飼い始めた者が自ら譲渡先を探すというのを原則にすべきだと私も思っています。 飼い主が全責任を負うようになれば、動物愛護団体も必要ないわけで・・・というか動物愛護団体は自らが消滅に向かうような活動をすべきじゃないかと思います。 あと >まあ飼い主責任を訴えることは別段なんの問題もなくその通りだとおもう。 とありますが、飼い主責任の追及・徹底こそが最重要なのではないですか? (2007.05.17 22:03:38)
>アナタの大きな認識の誤りの一つは、野生動物と家畜とペット(愛玩動物)の人間社会における各個別なそれぞれの歴史的位置づけを一切捨象したところで同じ土俵のうえで論じているところにあるんだよ。もうちょっと勉強した方がいいとおもうよ。イエネコの歴史くらいさ、イエネコは家畜なんだよ。
>黒猫亭さんのブログエントリーを紹介させていただこう。 黒猫亭さんは、「一万年の蜜月」において、「一万年にも亘って自分勝手にネズミを狩り続けることで、安穏な世の中をもたらしてくれた小さな生き物すべて(イエネコ)に、これ以上理不尽な苦痛と死を与えないことである。」と最後に述べていらっしゃいますが、ここで言う理不尽な苦痛と死とは坂東さんの子猫殺しの類や保健所での殺処分を指しているようですね。 そして、所謂飼い主のいない猫は地域猫として生かしてやるべきだ、それが恩恵を受けた猫に対する人間の責任であり感謝の意を表す方法だとおっしゃっているようです。 (2007.05.21 14:11:30)
ところで、黒猫亭さんご自身も「自分勝手にネズミを狩り続け・・・」と書いているように、猫は人間のためを思って鼠を捕食?してくれたわけではないですよね。つまり、猫は人間に対して好意も悪意も持ち合わせていませんから、人間が勝手に益獣として利用しただけのことで、利用価値が無くなれば大事にしない場合があるのも当然のことと言えるでしょう。
つまり、イエネコの歴史的経緯は、世の犬猫等の飼育を始めた人が、不要になったら(利用価値がなくなったら)捨てたり保健所に持ち込んでいるのと基本的に同じだと言えるのではないでしょうか? 周知のように、ハブ対策として野に放たれたマングースは人間の意に沿わなかったため害獣のレッテルを貼られ、マングースからすれば理不尽な苦痛と死をもたらされることになりました。 同様にイエネコ(動物)の側からすれば、人間側が勝手に関わってきて、その時々で役に立つだの役に立たないだのという理由で利用されたり打ち捨てられたりしているわけです。 (2007.05.21 14:12:49)
黒猫亭さんは、「食用目的の牛や豚の家畜飼育が妥当性を持つという前提で言えば、イエネコの飼育にも立派な妥当性があったのである。」
と述べ、「どうすればイエネコという種が家畜としての幸福で安楽な「余生」を過ごすことが出来るのかに関心を寄せていらっしゃいますが、牛や豚はその飼育目的が人間の口に入ることだから殺されるのは当然として、それ以上の言及はありません。人間が生きていくために役立ってくれている牛や豚に対しても幸せで安楽な「生」を提供してあげようではないか?というような思いには至っていないようです。 ところで、野良猫さんは、「野生動物と家畜とペット(愛玩動物)の人間社会における各個別なそれぞれの歴史的位置づけを一切捨象したところで同じ土俵のうえで論じるのは正しくない」とおっしゃっていらっしゃいます。 私がそのような論じ方をしているのかどうか自分でもよく分からないのですが、人と動物の関係という言葉を用いる時、その意味するところは、実は人間側からの関わり方がどのようであるか?ということにつきると思います。 何故なら、前述したように人間側が勝手に利用できそうな動物に関わっていって、その時々でその動物を利用しているのが実際だと思うからなのですけれど、ここにおいて視野に入れるべきは、野生動物や家畜などの歴史的位置付けというような固定した概念ではなく、人間側からの個々の動物に対する関わり方の歴史的経緯および現段階での状況ではないかと思います。 (2007.05.21 14:13:58)
>貴方様は疥癬にかかった猫をふくめて3匹の野良猫を保護して飼育しておられる。その点に関して私は、すくなくとも無条件で敬意を表するものである。また、その事実から心のやさしい方であると思うのだが、
>発言はとてつもなくそうした慈悲に溢れた行為にたいして否定的なものとなっているように思うのである。 そうですか?動物に対して責任ある対応をしている人の行為を否定的に述べたつもりはないのですけれど・・・ ところで、現実には私の家にはもっとたくさんの猫がいて一匹を除いて皆元野良猫なのですが 重要なのは、カワイソウなこれらの猫を(仕方なく)飼うことにした(何の解決にも結びつかない)私の行為を慈悲深い良い行為だと敬意を表して下さることではなく、これらの猫が存在する原因を作った人間、すなわち遺棄した人間や餌やり人を批判することであり、彼らが得をしないシステムを構築する方向で動くことだと思うのですけれどね。 (2007.05.27 23:36:18)
続けます。
横浜市西区には猫に関する検討委員会というのがあるようですね。 HPを見ると『西区猫の飼育ガイドライン』というのがあって、ガイドライン作成の背景・必要性が以下のように書き出されています。 1背景・必要性 猫に関するトラブルは、捕獲、登録などの法的規制が未整備なために、根本的解決法もなく、その対応に苦慮しています。 私自身は、「猫に関するトラブルは、捕獲、登録などの法的規制が未整備なために・・・」と書かれていることに少なからず「感動」したのですが、というのもここをきちんとしないがためにいつまでたっても解決の方向に進んでいかないのだとじれったく考えているからです。 この文言から考えると、根本的解決を図るには、捕獲、登録などの法規制が必要ということになるわけで、そのような理解ができているのなら、何故こちらの方向にも動いていかないのか不思議なのですが・・・ 「地域猫」に関しては、いずれ新たにエントリーをたてたいと思っているのですが(いつになることやら?)、 野良猫さんは、上記の、「猫に関するトラブルは、捕獲、登録などの法的規制が未整備なために根本的解決法もなく・・・」という点についてどう思われるのでしょうね? (2007.05.31 23:03:02) |