ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」
コーネル・ウールリッチによる変名での代表作にして、サスペンス小説の傑作古典。
ミステリの海外オールタイムベストを編んだら必ず五指には入るといった作品である。
これを激賞し日本に紹介したのは江戸川乱歩である。
男が妻と喧嘩をして夜の町に飛び出して、誰でも良いからという理由で女に声をかける。
二人はバーで酒を飲み、レストランで食事をし、タクシーを乗り合わせ、劇場でレヴューを観て、物乞いに施しをした。
その間名前や住所等個人を表す情報は一切口にしないという、一夜限りのお遊びだった。
そして女と別れて帰宅すると、妻はなんと絞殺体となって息を失っており、警察が男の帰宅を待っていたのだ。
男は疑われる。
アリバイ証明の為、男はその夜出会った名前も知らない女について語る。
警察がその夜男の行った場所を徹底的に洗うが、バーテンダーを始め全員が口を揃えて男は見たが女は見ないという。
男は一人で、連れは絶対にいなかったと。
男のアリバイは証明されず、裁判で死刑が宣告される。
男の無実を証明出来るのは、幻の女唯一人。
一緒に夜の街を過ごした女を、誰もがいなかったと言う謎。
これはヒッチコックの監督作品「バルカン超特急」でも使われた抜群に魅力的な謎だ。
ミステリ史上でも有数の謎ではないか。
ウールリッチが「バルカン超特急」に影響を受けたのかは定かでないが、ヒッチコックはやはり氏を評価していたのだろう、その後に氏の著書「裏窓」を映画化している。
因みに映画「バルカン超特急」の原作者であるエセル・リナ・ホワイトは他に「らせん階段」という作品も書いているが、これはロバート・シオドマクによって映画化されており、そのロバート・シオドマクは映画版「幻の女」の監督でもある。
本書をサスペンスフルにしている最大の要素は、やはり死刑執行までに見付けないといけないということで時間制限を設けた事だろう。
執行の日は決まっており、さらに章題が「死刑執行日の〇日前」となっている事で、サスペンスはこれ以上無いものになっている。
後に他の作家によってこの手の作品がどれだけ書かれたかを考えれば、その価値は計り知れない。
差し迫る執行日、手掛かりが見付かりかければその都度水泡に帰す展開、幻の女は現れず殺人者も現れない。
そして最後の最後に描かれるどんでん返し。
サスペンスとは斯く在る可。
稲葉明雄氏の訳文も有名で、最初の一文は特に後世に影響を与えた名分として知られる。
直訳にして美しい。
原文:The night was young , and so was he . But the night was sweet , and he was sour .
訳文:夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。