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コモリ目線(ロングバージョン)

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Jul 13, 2010
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カテゴリ:カテゴリ未分類
現在、日記の執筆はお休み中ですが、
職場では日々、心に響く言葉と出合っています。

人間学を学ぶ月刊『致知』(ちち)
書店販売を行っていない月刊誌ですが、
ご興味を持たれた方は、ぜひ一度、
公式ホームページにアクセスしてみてください。

毎日配信中の
『致知出版社の「人間力メルマガ」』(読者数2万3,000人)
もオススメです。







Last updated  Jul 13, 2010 12:47:58 PM
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Sep 12, 2004
カテゴリ:カテゴリ未分類

 今から半年ほど前のことになるが、知り合いのカメラマンの方が
 口にした印象深いセリフがある。

 その日、僕たち二人は、いつもの街頭取材を終え、「おつかれさま」と
 言いながら、お茶でも飲もうと街中を歩いていた。
 すると、いまどきの美容室や、センスのいい服屋が建ち並ぶオシャレな通りに、

 「カラオケ○○○」

 と、白地に真っ赤なゴシック体(その上下には太い青ライン)で、
 デカデカと綴られた店の看板が、僕らの目に飛び込んできた。
 その派手やかな色使いとドデカい文字は、これでもかというくらいに目立ち、
 街の新たな目印にもなりそうなインパクトがある。

 僕はこの巨大看板の出現に、今度から待ち合わせに使えそうだな、と
 ひとり考えていると、隣にいたカメラマンが、

 「おいおい、なんだよアレッ。
  街の景色のことを、ぜんっぜん考えてないじゃん!」

 と、めずらしく語気を荒げながらこう言った。そして、

 「最近、多いんだよね、
 “自分さえ目立てばいい”っていう考え方……」

 と、今度はあきれたようにタメ息をついている。僕は、

 「ええそうですよね、たしかに。なんか最近多いですよね」

 と慌てて同調しながら、さすがはカメラマンらしい視点だなと思ったが、
 僕自身は、これっぽっちもそんな考えに至らなかったので、しょせんは
 自分も非難される側の人間なのだと、しばらく落ち込んでしまった。

 そう言われてみれば、たしかに最近、「本」「マンガ」「ビデオ」
 「靴」などなど、取り扱い品目をそのままデカデカと看板に
 掲げている店舗の存在が目立つ。

 消費者にとってのわかりやすさを第一とすれば、◎のデザインなのだが、
 じゃあ街の景観はどうなるんだ? と言われたときに、たしかに返答に
 困ってしまう部分がある。

 そのカメラマンは、東京に住み始めてから20年以上にもなるため、
 自分の好きな街が味気ないものへ変わってしまうことに、余計に
 腹立たしさを感じたのかもしれない。

         *  *

 街の景観、という点で考えてみたのだが、日本の商店街にはそれぞれ、
 その通りにしかない特有の雰囲気やにおいといったものがある。

 実際に中を歩いてみると、どこかに超人気店があるというわけではなく、
 店構えや店員さんの雰囲気など、ある種の「統一感」のもと、それぞれの
 持ち味を生かしながら、上手に商売を成り立たせている。
 その様態は、お互いが自らの領分を越えてしまわぬよう、
 無言のうちに配慮された、美しい調和のあり方のようだ。

 昨今、都市部では、フードテーマパークやファッションモールなどの
 複合施設が流行しているが、これが一時的なブームで終わらないための
 秘訣は、そうした昔ながらの商店街に隠されているのではないだろうか。

 ちなみに、京都にあるマクドナルドの何店舗かは、看板の色が
 赤ではなく茶色だったり、そのサイズがとても小さかったりして、
 古い町並みや情趣ある建物が多い景観を損なわぬよう、
 こまかい配慮がなされている。

 重要なのはつまり、デザインの形態よりも、そうした意識の持ちようなのだ。

 (※京都府の景観条例によるものということです。
   失礼いたしました)






Last updated  Sep 14, 2004 12:10:57 AM
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Aug 20, 2004
カテゴリ:カテゴリ未分類

 僕は、血液型で人の性格をみるのがあまり好きでない一方、
 生まれた土地によって人のタイプを判断するのには、信頼をおいている。
 人間は、生まれ育った土地の影響を色濃く受けて成長すると思うからだ。

 書店へ行くと、「都道府県別でみる○○の法則」などといった本に出合うが、
 自分の生まれた県はどうだろう? とページを開くうち、それなら隣の県は?
 そのおとなりは? と、ついついいろんな場所に手が伸びて、
 長居をしてしまうことになる。

 ちなみにわが滋賀県民にみられる特徴としては、「控えめで保守的なタイプ」
 というのが、ほぼ似通った見解であるようだ。

 さて、今年の夏も、甲子園では日々熱い闘いが繰り広げられているが、
 僕がふるさとの県民性について考えるとき、どうしても思い出さずには
 いられない出来事がある。

        *  *

 今から3年前の夏、甲子園では地元の滋賀県勢がハデな番狂わせを
 演じていた。

 出場校は近江。湖国を象徴する青のユニフォームをまとった選手たちは、
 まったくのノーシードから、並み居る強豪校を次々と下していき、
 あれよあれよという間にとうとう決勝までコマを進めた。

 近畿には、PL、天理、平安、智弁和歌山……などなど、輝かしい戦績をもつ
 チームが多いが、滋賀県勢では決勝に進出すること自体、初の出来事となる。
 当然、地元のテレビやラジオ局は、こぞって甲子園の話題を取り上げ、
 新聞の地元面には、毎日のように「近江」の文字が躍っていた。

 ふだんはスポーツに関心のない僕も、この時ばかりは胸が高鳴り、
 いよいよくるプレイボールの瞬間を、今やおそしと待ち構えていた。

 そして正午。
 待ちに待った決勝戦は、緊迫したムードの中、点を取られては取り返す、
 いったんリードしてはまた追い着かれるといった好ゲームで、
 僕は点が入るたび、「おっしゃー!」だの「うりゃ~」だのと叫びながら、
 大応援を続けていた。

 しかししばらくすると、せっかくの決勝戦に応援しているのが自分だけ、
 という状態に、もの足りなさを感じてきた。
 よくテレビで中継されている、公民館などを借りきった「町をあげての応援」
 というものを、自分でも味わってみたくなったのだ。

 僕はさっそく攻守交代のスキを狙って、人がたくさん集まっていそうな
 近所のラーメン屋へと足を運ぶことにした。


 「逆転ーッ!」

 慌てて駆け込んだ店内には、予想どおりアナウンサーの絶叫が響いており、
 満席となったカウンターには、脂ぎった中年男性たちが、ゲームの行方を
 じっと見つめている。

 (コレコレッ……!)

 折りしも試合は、ラッキー7と呼ばれるイニングに突入しており、
 僕は端の席からウェーブでもやってこないかなと、ひそかに期待などしていた。

 しかし、しかし、である。
 店へ入ってから十分あまり、野球ファンで埋まったはずの店内には、
 いつまで経ってもアナウンサーの絶叫が響いているばかりで、
 客席からは、うんとも寸とも「人の声」が聞こえてこないのである。

 地元のチームが初の決勝進出を果たし、深紅の大優勝旗に手が届こうか
 という刹那、この人たちはいったい何を考えているのか。
 僕はやるせない思いを感じながら、机の下でこっそりガッツポーズを
 決めるなど、しずかな抵抗を試みていた。

 そして、そのまま試合は終盤戦を迎え、8イニング目の攻防へ。
 このときあらためて周りを見渡してみて、ふと気づいたのが、
 店内は依然人の声こそなかれど、客席の顔ぶれがまるで変わっていない。
 いや、そればかりか、トイレ休憩に席を立つ人すら一度も目にしていない。

 そしてよく見てみると、「まるで目の離せない試合展開」との
 アナウンサーの形容そのまま、テレビ画面から一秒たりとも
 目を離さない、満席の人々のまなざしがある。

 僕はその光景を眺めながら、いま彼らが見せている目の表情に、
 確かにどこかで出合ったことがあると感じていた。

 ……雨の日も風の日も波風を立てず、猛暑で水不足になろうが、
 大雨でいかに水量が増そうが、常に安定した水を住民に供給し、
 青々とした水面を湛えている湖。

 ――そう、彼らが試合を見つめる目の表情は、この地に住む人々が
 「びわ湖を眺める目」そのものだったのである。
 その穏やかなまなざしは、地元チームを応援するというよりは、
 ただ試合の行方を「眺めている」、あるいは「見守っている」という
 状態に近かった。

 結局、試合は9回にダメ押しの追加点を奪われ、敗色ムードが濃厚。
 しかしそのときもまるで表情を変えず、また、あえなく敗戦が
 決まった後も誰一人として席を立たず、相手チームの校歌斉唱を
 みんなでものも言わずに聞き続けていた。

 僕はついさっき怒りさえ覚えた自分の軽率さを恥じるとともに、
 こうした人たちのいる滋賀の地で生まれ育ったことを誇りに思った。






Last updated  Aug 20, 2004 09:51:30 PM
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Jul 24, 2004
カテゴリ:カテゴリ未分類

 先日、文章教室で行なわれた言葉の実験で、ひとつ印象に
 残っているものがある。

 内容は、先生が同じ3冊のメモ帳のうち、2冊になにかしらの文字を書き、
 表紙を閉じたうえで、白紙のままの帳面はどれかを当てるというものだ。
 一般に、「透視」と呼ばれているものである。

 先生の話によれば、

 「言葉というものは、なにかしらの波動を持っているものだから、
  そこから出ている、気のようなものを感じ取ればいい。
  つまりは “一番かるい” と思ったものが白紙」

 ということらしい。
 15名近くいる生徒たちは、

 「ホントに分かるのかなぁ」
 「え~、ダメなんじゃない?」

 などと口々にいいながら、メモ帳が並んでいる教壇へと近づいていった。

 一見、なんの変わり映えもない3冊のメモ帳を眺めながら、
 僕自身、(さすがにこれはムリじゃないか?)と思いながらも、
 全神経をこめ、それぞれの帳面をにらめた。

 するとしばらくして、確かに “これは重い” と感じる帳面が
 1冊真ん中にあった。……とすれば、右左のどちらかが白紙か。
 結局、あとはヤマカンで「右」を選択。
 そしてみんなの予想も、左右半数ずつとキレイに分かれた。

 しかし結果は、見事に予想を裏切っての「真ん中」。

 さらに次の回でも、僕が “これだけは違う” と思った右端の帳面、
 つまり “一番かるい” と感じたものに、文字が書かれてあった。
 みんなの予想と結果も、さっきと同じく大ハズレである。

 (言葉が書かれているものが重いんじゃなかったのか?)


 結局、2回の実験を終え、みんなは「やっぱりムリじゃん」と
 シラケ気味に席へ戻り、先生自身も「う~ん、ダメだったか……」
 と苦笑を浮かべていた。

 その後、授業は、煮えきらない結果に終わった実験のことを
 忘れるかのように、先へ先へと進んでいったが、僕はしつこく
 さっきの結果と、自分が確信さえもっていた予想がなぜ2度も
 キレイに裏切られたのかを考えていた。

 そして、自分なりにある結論に達することができた。

        *  *

 日本には昔から、「言霊」という考え方があるように、
 言葉がなにかしらの気や波動をもっているらしいということは、
 僕自身も信じている。だから、それを書いた紙に気がこもる、
 という説明にも異論がない。

 しかし、今回の場合はどうだろう。

 本来、「メモ帳」というものは、そのページの中に、なんらかの
 文字や絵などを記されて、初めて役割が達せられるというものだ。
 つまり、先生が文字を書いた2冊のメモ帳は、使用された時点で
 いったんはその役割を終えているといえるだろう。

 しかし逆に白紙の帳面は、まだなんの役目も果たしていないがために、
 「私はここにいる」、あるいは「早く自分を使ってほしい」という強い気を、
 周囲に向かって発してきていたのではないだろうか。

 モノも、おそらく人と同じように、生まれた以上は自らの使命を
 果たそうと意識を働かせている。
 そしてそれはときに、言葉よりも強い波動を出す。







Last updated  Jul 25, 2004 12:44:31 AM
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Jul 18, 2004
カテゴリ:カテゴリ未分類

 僕は例年、夏になると、半パンに無地の白いTシャツという
 おとなしい恰好で過ごすようにしてきたが、今年はまるで様子が違う。

 風呂からあがれば、用意しておいた真っ赤なTシャツ、それも
 目の覚めるほど発色のよい赤シャツに袖を通し、近所のスーパーや
 図書館、どこへでも出かけていく。

 ほんのすこし前まで、「家の中ではくつろぐもの」との考えから、
 普段着をなるべく刺激の少ないものにしてきた僕にとって、
 これは考えられないような事態である。

 しかし、これが単なる気まぐれといった一過性のものでないことは
 自分自身でよく分かっている。

 はじまりは、先月初めごろのことだっただろうか。


 5月の涼しい季節も終わり、完全に長袖 → 半袖へと衣替えの
 シーズンになったとき、僕は例年のように白いTシャツで過ごしていた。
 すでに、着込みすぎで首元がだるんだるんの状態になっており、
 そろそろ新しいものに取り替えないとな、と思ってもいた。

 ところがそれから数日した頃に、なぜだかいまの自分の気持ちや
 心の状態が、これまでの「白」では、とても追い着かなくなっている
 ことに気が付いた。

 ≪赤! それも目の覚めるような、血みたいな赤!!≫

 と、そう考えた途端、居ても立ってもいられなくなり、
 僕はあり合わせの小銭を握りしめ、近所のユ○クロへと向かっていた。

 初めは、赤シャツ1枚を買う気で飛び出してきたのだが、
 いざTシャツコーナーへ来てみて、気が変わった。

 「1枚500円、3枚990円」

 と、まとめ買いをした方が、断然おトクになっている。

 僕はここでケチな性根をさらけ出し、よりどり3枚パックの
 物色に入った。

 赤、青、緑、白、グレー、黒、茶……。

 たくさんある種類の中、まずはお目当ての「赤」を選び取った。
 続いて、もう1枚も「赤」。2日続けて着たいから。

 そして残るはあと1枚。
 ここは当然別のカラーを選び、かしこい買い物をしようと
 思ったのだが、僕が手にしていたのは、今度もやっぱり「赤」。

 結局、赤ばかりの商品をレジへ持っていき、帰宅したその日から、
 さっそく着用してみることにした。



 さて、それから2ヶ月後の現在――。
 あの日、購入した3枚の赤シャツは、一日として休む間もなく、
 ヘビーローテーションを強いられている。

 しかし、自分の気持ちが本当にその色を求めているときは、
 ほかの色をまったく受け付けない精神状態になってしまうものらしい。
 僕は、4日に1度訪れるローテーションの谷間でさえ我慢ができなくなり、
 ついさっき、ユ○クロへと直行してきたところである。

 Tシャツコーナーは……っと、あったあった。3枚990円。
 このおトクぶりは変わらない。

 僕はたっぷり在庫のある赤を3枚、ササッと手に取り、
 早々とレジへ向かおうとした。

 ……と、そのとき。

 今度は、真夏の太陽のようにまぶしい「オレンジ色」が、
 鮮やかなボディで、こちらを見つめてくるではないか。

 オレンジ色……。

 僕もさすがに、これはないだろうとは思ったが、もののためしに
 一応はそのシャツを手に取ってみた。

 オレンジ……、オレンジかあ。……え、ええんとちゃうかっ!!

 僕は持っていた赤シャツのうち2枚をササッと元に戻し、
 代わりのオレンジTを、がっちりその手でつかみ取った。

 レジへと向かう途中、なぜだか鼻血が出そうになった。


 いま持ち帰ったオレンジTを眺めてみて、自分で本当にこの色が
 ほしいと思い、それを実際に購入したという事実にすこし驚いている。

 なんのまざりっ気もない、原色のオレンジ。
 なんだか、とても懐かしい気持ちがする。
 なぜなら僕は元々、こんな色味のシャツが大好きだったからだ。

 僕は中学にあがった頃から、自分自身で、外出用の服を選ぶように
 なっていた。その頃、よくひかれたのが、やはり今と同じような、
 原色の赤やオレンジ、または紫や水色といった明るい色のシャツや
 ズボンで、僕は自分で本当にそれがカッコよくてきれいだと思い、
 自信満々で街の中を歩いていた。

 しかしやがて、流行りの雑誌を見たり、友人とファッション談義に
 講じているうち、どうやらそれが「ダサい」らしいということが判明し、
 次第にみんなの着ているような、白や黒、あるいはグレーやカーキといった
 無難な色彩のほうへと、服装を変化させていった。

 だが、それからちょうど10年が経ち、あらためて原色のシャツを
 手にしてみて、僕はこれまでいかに自分が、自身の中にある
 色彩感覚を押さえ付けてきたかがよく分かる。

 このファンキーな色目にふれ合って、自分の心や身体が
 とても喜んでいると実感できる。

 どうしてもっと早く気付いてやれなかったのだろう。


       *  *


 さて、ここですこし話は変わるが、僕はちょうど一年前のいま時分、
 ある人から岡本太郎の著書をすすめられ、急速に彼の芸術活動に
 興味をおぼえていった。そして片っ端から生前の著作に目を通したうえ、
 川崎にある岡本太郎美術館へも足を運んだ。

 そこで目にした、強烈な色彩の絵。
 赤や黄、青に緑、オレンジや紫といったクセの強い色を、それこそ
 絵の具をまるごとぶちまけたような原色で用い、一枚の絵の中で
 対立・共存させながら描き切っている。
 その圧倒的な迫力に、僕は一発でぶちのめされてしまった。

 作品の前で呆然と立ち尽くしている僕に、絵は、

 ≪もっと自由に、ハチャメチャに、おまえのいちばん好きな色を
 思いっきりぶっつけてやればいいんだよ≫

 と、荒っぽく語りかけてくる。
 岡本太郎が、生前よく口にしていた「芸術とぶつかる」という表現は、
 まさにそのときの状態をいうのだろう。

 以来、彼の絵にあった強烈な原色のイメージは、つねに心の中に
 もってきたつもりだったが、僕は果たしてそれを、実際に行動の中で
 示してくることができただろうか。


 まぶしい赤やオレンジといった色の中にある、生命の躍動感、
 そしてめいっぱいの遊び心。

 先月に参加した文章教室で、僕の書いた字(書道)を見た先生は、

 「自分の中にいろいろな動物を飼いなさい」

 と、ひと言そういった。

 自分の中にあるさまざまな色彩を、もう一度呼び覚ますこと、
 そして、それを自由自在に飼いならすこと。
 この先どれだけかかるか分からないが、まずは忘れていた色の
 一つひとつを、しっかり思い出すことから始めていきたいと思う。







Last updated  Jul 20, 2004 06:02:37 PM
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Jul 12, 2004
カテゴリ:カテゴリ未分類

 先週末、地球交響曲(ガイア・シンフォニー)第一番の上映会へ
 行ってきた。

 すでにご覧になった方も多いと思うが、この映画は、龍村仁さん
 という監督が、地球環境や生命の尊厳をテーマとして撮った
 壮大なドキュメンタリー映画で、シリーズ第1弾が上映されてから、
 今年で12年目になるという(現在は第5弾まで完成)。

 僕はこれまでタイトルしか聞いたことがなかったが、友人の日記に
 この言葉がひんぱんに出てきていたので、「もしやメッセージでは?」
 と勝手に判断し、遠くの会場まで足を運んだわけである。

(余談になるが、この映画、チケット購入時のやりとりがちょっと
 変わっている。指定された口座番号へ代金を振り込むと、主催者から
 直々にチケットが送られてくる。昔ながらの茶封筒。手書きに、筆ペン。
 しかも差出元が自宅。……ヤフオクの落札者かと思った)

 事前に、ネットで映画に登場する人物をチェックしていると、嫌が応にも
 期待が高まってきた。
 ラインホルト・メスナーに、エンヤ。星野道夫に、ジャック・マイヨール
 ……(後記2名は別シリーズに登場)。

 いずれも本やCDの中でしか知らない人物だが、ある種の分野に興味のある
 人であれば、これは、さんまにダウンタウン、紳助にとんねるずといった
 一流コメディアンが同じ舞台の上に立ち、その芸を競うのにも等しい
 価値がある(あくまで僕個人の場合)。
 夢のスターキャスト揃い踏み、とでもいったところだろうか。

 僕はめずらしく人肌の温もりが伝わってくるチケットを握り締め、
 会場へと足を運んだ。


 さて、たった1本の木に、1万個以上ものトマトを実らせることができる
 という植物学者が、種まきをしているシーンから始まるこの映画。
 実際に作品を見終えてみて、日記の友人が「あまりに気持ちがよくて
 眠ってしまった」と述べていた理由がよく分かった。

 映画に出てくる人物たちのした体験は、たとえば8000m級の山を
 無酸素でのぼったり、宇宙遊泳中に、突如“なにか”が流れ込んで
 きたりといった、それぞれに特異な事例であるにも関わらず、
 彼らの言葉にはまるで尊大なところがなく、ただ、自分の
 見てきたもの、感じたことを淡々と述べているに過ぎない、という印象だった。

 僕自身も、初めて耳にする刺激的な話ばかりであったが、なぜか
 すんなり心の中に入ってき、同時に、ずっと昔から知っていたかも
 しれないごく素朴なものの見方を、一つひとつ気付かせてくれている
 ような感じがした。


 そしていま振り返ってみて思うのは、彼らはこうした作品によく
 出てきがちな「謙虚」や「感謝」といった類いの言葉を、ただの
 一度も使っていなかったな、ということである。

 その代わりに、「人間は自然の一部だ」だの、「“わたし”ではなく、
 “我々”なのだ」だのといった、それらの概念がすべて内在されている
 ようなセリフを、平易なもの言いの中にひそませていた。

 僕がふだん、「謙虚でありたい」や「感謝の気持ちを持ちたい」といった
 言葉になにか抵抗を感じてしまうのは、おそらく“謙虚さ”や“感謝”と
 いった概念は、言葉を用いて「そうありたい」と願うものではなく、
 日常生活や自然の営みの中から、自分自身の肌で感じ、直に汲み取って
 おくべきものだとの考えがあるためだ。

 本当に幸せな状態にある人が、「幸せ」という言葉をほとんど口にする
 ことがないように、謙虚さや感謝の気持ちを真に備えている人は、
 その言葉をそっくり自分のからだの中に、取り込んでしまっている
 ものなのではないだろうか。

 だとすれば、今回、映画の中で耳にした印象的な言葉以上に
 大切なものが、彼らの身振りや声のトーンといったものの中に、
 より多く含まれていたような気がしてならない。

 結局、僕は作品を見終えてから、ニンゲンという生き物は、万物の
 霊長どころか、すべての動物や植物、そして地球そのものからも、
 つねに“許されて”生きている存在であるということを知った。

 そしてそれらの生命は、映画のタイトルが如実に示しているように、
 すべてが深い部分で交り合い、響き合い、ひとつの曲を奏でているのだと
 いう気がする。


 地下の会場を出て、エスカレーターをのぼっていくと、うだるような
 暑さが嘘のように涼しくなっており、ポツポツと雨粒が降っていた。

 帰りの駅へ向かう途中、この映画のことを日記に書いていた友人が
 偶然、路上でお年寄りに道を訊かれており、一生懸命にその道すじを
 説明していた。

 お互いにあまりに真剣な様子だったので、つい声をかけそびれて
 しまったが、この広い街の中で、奇遇にも映画を見るきっかけを
 与えてくれた人とめぐり合い、僕は、ああ、やっぱり命は響き合って
 いるのだなと、そのときあらためて思った。






Last updated  Jul 20, 2004 10:57:46 AM
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Jul 8, 2004
カテゴリ:カテゴリ未分類

 先週末、文章修行のため、埼玉の自然教室のような場所で
 三日間、山ごもりをしていた。

 ここだけ聞くとちょっと怪しい気もするが、実際は森を歩き回って
 俳句をひねったり、みんなで「善」とはなにか、ということについて
 半日以上議論したりと、現場にいなければ、おそらく想像以上に
 怪しいと思われるようなことをしていた。

 そこで僕が体験したことは、なかなか一口に言い表せるものではないが、
 今回はひとつ、最終日の「書」を取り上げてみたいと思う。

 この授業は、「いま自分が書きたい漢字・ひと文字」を任意に選び、
 書にして提出、それを見て先生が、書き手の心理状態に言及したり、
 なんらかのアドバイスをしたうえ、その人にふさわしい「書」を
 直々に手渡してくれるというものだ。

 総勢二十名ほどいる生徒たちは、みなそれぞれに、“これぞ”と
 思う文字を決め、順々に先生の前で書を連ねていった。

 たとえば、「立」という字を書いた人は、タテの棒が下線をはみ出して
 いたことから、

 「しっかり立てていない」

 といわれ、どっしりとした「立」をもらっていたし、「成」という字を
 書いた人は、横の線がかすれていたうえ、バランスもよくなかったので、

 「早くなにかを成そうと焦ってるんじゃない?」

 といわれ、時機やチャンスを待て、という意味合いからか、「機」という
 文字を受け取っていた。

 ほかにも、「踊」と書いたが、

 「字が躍っていない」

 といわれ、遊び心満点の「踊」の字をもらった人や、“これがいまの
 心の状態です”といって、「閑」という字を書いた人などさまざまで、
 僕は人の数だけ文字があるのだな、と感慨に浸っていた。


 さて、自分は何を書こうかな、と考えていたところ、頭の中にブッダの、

 「ただひとり 犀の角のように歩め」

 という言葉が浮かんでき、「犀」と思った瞬間、どうしてもその字で
 なければいけないような気がしてきた。

 念のため、正しい字をケータイ電話で調べると、下の部首が「牛」
 であったことが判明し、その凛々しい字面を見ながら、なおさら
 この字しかない、と心に決めた。

 先生の前に座り、スーッと息を吐き出して、気を静める。
 胸騒ぎする心が落ち着いたところで、前もって決めていた、

 「墨をたっぷりつける」

 という自分なりの約束ごとを実行し、力強く一墨目を置いた。

 バンッ! ズズズズズーーーーッ……、

 う~ん、ナイス。決まった。

 しかし、ちと太すぎる。
 次で帳尻を合わさねば。


 そろ~り、サーーッ。

 ななめに線を引き終わったところで、もう一度墨をつけ直し、
 四つの点を、

 ボツ、ボツ……ボツッ、ボツッ。

 と、均等な大きさでぶつけてみる。

 そしてそのまま「牛」の部に入り、ラストのたて棒を引っ張ろうと
 したとき、紙の上に数滴の墨しぶきが、バババババッッ!!
 と、勢いよくほとばしった。

 僕にはそれが、筆から吹き出た血にしか見えなかった。

 そしてその痕跡を塗りつぶすように、グッと力をこめて筆をおろしたら、
 墨がTシャツまではね飛んで、返り血を浴びたようになった。



 なんだか、とても気持ちよかった。




 先生は、なぜこの字を選んだかといったことには特に触れず、
 書き終えた字をそっと自分の側へ向けると、

 「いいじゃない。ホントに犀みたいだ」

 とニッコリ笑った後、しばらくウ~ンと考え込んで、色紙に、

 「虎」

 という文字を書いて、僕に渡した。


 「自分の中に、いろいろな動物を飼いなさい。

  時には、虎になったり、毒ヘビになってみたり……、
  何もすることがないときは、ゴロンと寝そべっていればいいんだよ。

  人間はいろんな面を持っている方が生きやすいから」


 僕は、先生からもらった「虎」と自分の「犀」を大切に引き取って、
 戻った机の前で、しばらく動けなくなっていた。

 書をする際に、己のすべてをぶち込んでしまったせいか、全身が
 ぐったりと疲弊している。
 そして、自分の筆からあんなに勢いよく墨が吹き出たことに、
 動揺と興奮を抑えきれずにいた。


 ーーーーーーー
 いま、合宿から持ち帰った二つの文字は、仲良く並んで机の上に
 置かれている。

 「自分の中にいろいろな動物を飼いなさい」という先生の言葉。

 “ニンゲン”を二十数年もやっていると、僕はつい自分が、
 さまざまな動物の複合体であることを忘れてしまう。

 時には猛獣のように獲物を喰らい、また時にはヤギのように
 やさしく草を食み、自分の中に、女性的であったり男性的であったり
 する部分を感じながら、それらすべてを受け容れたうえで、
 全人間的、かつ全動物的な生き方をしていきたいなと、そう思った。







Last updated  Jul 11, 2004 05:06:09 PM
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Jul 4, 2004
カテゴリ:カテゴリ未分類

 きのう、高校時代からの友人より電話がかかってきた。

 「こないだ、紳助がSMAPの番組に出てたん、見た?」

 「あっ、オレも気になってたんやけど……」

 じつは僕もその日の新聞を見たとき、めずらしく島田紳助が誰かの番組に
 ゲスト出演するというので興味があったが、ほかにどうしても見ておきたい
 番組があり、迷った末にそちらを録画することに決めたのだった。

 話によると、彼は番組中、年齢的にもキャリアとしても、自分より
 ひと回りほども違うSMAPメンバーに対し、

 「○○なんですか?」

 「僕は××をしていまして」

 と、終始ていねいな“敬語”を使っていたらしく、「若い」というだけで
 取引先に横柄な口の利き方をされてしまうこともある自営業の友人としては、
 強く心に思うところがあったらしい。

 「やっぱり紳助は違うなぁ。
  ホンマにすごい人やわ」

 と感嘆している彼のセリフを聞きながら、僕はふと子どもの頃のことを
 思い出した。


 小学生のとき、無類のドッジボール好きだった僕は、ときどき
 休み時間に、担任の先生が飛び入りで参加してきてくれるのを
 このうえなく楽しみにしていた。

 自分よりずっと体の大きな大人に対し、全力の球を投げ込めるのは、
 子どもながらに嬉しかったし、また先生も手加減なしにこちらへ
 剛速球を投げ返してきてくれることが、自分を一人前として
 認めてもらえたようで、誇らしい気持ちがした。

 ただ、中に、明らかに右利きのはずなのに、安全面への配慮からか、
 わざと左手で投げてくる先生がいて、いくらその球が速くても、
 テンション(当時はそんな言葉を知らなかったが)がまるで
 上がらなかったことを覚えている。

 いくら小学生とはいえ、自分を一人前として扱ってもらえないことは、
 僕にとって、少なからずプライドを傷つけられてしまう行為だったのだ。


 そして、もうひとつ。

 僕が関西で過ごしていた頃、大学在学中からお世話になっていた
 編集プロダクションの社長に、

 「これからはライターとして活動していきます」

 と報告をしに行ったとき、それまで、

 「小森くん」

 と呼んでいた社長が、ごく自然に、

 「小森さん」

 と、呼び方を変えてくれたときの嬉しさが、
 僕はいまだに忘れられない。







Last updated  Apr 17, 2012 10:27:02 PM
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Jun 21, 2004
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 先日、都内で開催されていたオノ・ヨーコの個展に足を運んだ。

 彼女については、ごく最近、「グループフルーツ・ジュース」という
 詩集を読んでからの完全な俄かファンだが、あの本にあるような
 世界観を堪能できるのかと思うと、行く前から非常にワクワクした。

 はやる気持ちを抑えながらチケットを買い、入口をくぐると、

 「ゴホゴホッ……、ゴホゴホッ……」

 という女性の激しいせき払いが聞こえてきた。
 僕が(ずいぶん苦しそうだな)と思っていると、またしばらくして、

 「ゴホゴホ、ゴホホ…ゴホッ…」

 と、今度は聞いているこちらまでが息苦しくなってくるような
 せき込み方で、館内いっぱいに大きな音を響かせている。

 (おいおい、大丈夫か?)と僕自身もさすがに気になり、あたりを
 見回してみたのだが、どこにもそれらしき人影は見当たらない。

 ふと正面に目をやると、「作品-01」と書かれたCDが解説パネルと
 共に紹介されており、僕はその時になって初めて、それがアートの
 一環だったのだということに気がついた。

 あらためて会場を見渡してみると、赤や茶色のおしゃれなメガネを
 かけた芸大生っぽい人たちが、なにやら神妙な顔つきをしながら、
 手持ちのノートにメモを綴っている。

 相変わらず館内に響いている奇妙なBGM(?)を聴きながら、
 イマイチ何を感じとっていいのやら分からない僕は、それでも
 一生懸命に、一つひとつ彼女のアートを見て回った。

 たとえば、「青の部屋のイヴェント」と名付けられた空間。
 白い壁に、

 「この部屋はゆっくり蒸発している」
 「この部屋は派手な青色だ」

 などと綴られた文字を見ながら、見物者はそれぞれの
 イマジネーションを働かせる。

 たとえば、「リンゴ」と呼ばれる作品。
 彫刻や静物画といったものではなく、生のリンゴをそのまま展示し、
 アート自体に新たな価値観を与える。

 その他、包帯をぐるぐる巻きにした椅子や、有名な「天井の絵(YES)」。

 また、電子レンジや戸棚、洋服や部屋のカーテンなど、アパートの一室に
 ある物体を、ことごとく半分に切断した「半分の部屋」……等々、
 パネルに書かれた解説文を読まなければ、その意図するところが
 ほとんど分からない作品の数々を見ながら、僕はふとある想像をした。

 もし、この空間をお笑いの人が……、そう、たとえば松本人志なんかが
 プロデュースしていたとしたら、どうだっただろう。
 芸人好きの僕のこと、さすが笑いの天下人、なんてシュールな世界観
 なんだと、ひとり感慨に浸っていたのではないだろうか。

 そしてその場合、いま小難しい顔をしてメモを取っているメガネの
 芸大生たちも、

 「やっぱり松っちゃん、サイコーよね~」

 なんて言いながら、連れ合いと笑い転げていたかもしれない。

 と、そう考えを移した途端、今まで自分には縁遠いものに見えていた
 作品たちがぐっと身近に迫ってき、その滑稽さと発想のユニークさに
 笑いがこみ上げてきた。

 とくに、後半のスペースで上映されていたショートフィルムは傑作で、
 たとえば、中年男性のきたないケツをどアップで撮り続けた作品などは、
 これまでのお笑いの世界では見たことのない、非常に斬新な映像だった。

 結局のところ、評論家がどれだけ難解な注釈を加えたところで、
 これがアートであるか、また別のものであるかというのは、作り手側の
 自己申告と、見物者それぞれの受け取り方に尽きるのではないだろうか。

 ところで、松本人志がコントビデオ「VISUALBUM」あたりから、
 笑いの要素の少ないイラスト集や玩具を制作するなど、テレビ以外での
 彼の活動は、徐々にアーティステックな方向へと向かいつつある。

 一方、オノ・ヨーコの作品も、見方を変えればある意味で、
 非常に先進的な笑いの作品と見て取れないこともない。

 おそらく、二人ともに表現方法は違えど、その根本のところにあるのは
 人間、そして世界に向けた大きな「愛」のパワーであり、それが
 笑いやアートという手段を借りて、具現化されたに過ぎないのだろう。

 そんなことを考えながら、個展の最後を飾る「ベッド・イン」の
 展示スペースに来たとき――

 そう。この、戦争の真っ最中に、ベッドの上で男女が愛し合う
 (イチャイチャし合う)というパフォーマンスこそ、ジョンとヨーコが
 見せた極めてお笑い的、かつ武力なしに戦争と立ち向かう、
 無敵のアートだという気がした。







Last updated  Jun 22, 2004 04:15:07 AM
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May 11, 2004
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 先日、都内で行われたとある文章セミナーに参加した。

 この講座は、約一万名の読者を抱える人気メルマガ発行者が主催する
 もので、いくつかの「言葉」を扱ったゲームを行うということで、
 以前から楽しみにしていた。

 講義の中では、文章をみんなでお尻から完成させていく作文や、
 人間が発する“波動”を利用した読心術など、興味深いものがいろいろと
 あったが、個人的にはラストにあった「福神漬け」というゲームが、
 最も印象に残っている。

 このゲームは、総勢20名ほどいる参加者を見渡し、その人にふさわしい
 と思うなんらかの言葉(キャッチコピーのようなもの)を書いて相手に見せ、
 気に入られれば、手持ちのマネーで引き取ってもらえるというもの。

 もちろん、こちら側も、相手から提示された言葉を買うことができ、
 気に入らなければ断ってよい(ただし、言葉を買えるのは3枚まで)。

 カレーライスに福神漬けがよく合うように、その人にぴったりの言葉を
 見つけ出してやればいいというわけだ。

 僕は会場全体を見渡しながら、適当なフレーズが浮かんできそうな人物を
 探すことにした。


 まずは前方に座っている女性。

 白雪姫、シンデレラ、王妃、皇族、ピアノレッスン……、

 フランス王妃のような顔立ちの女性を前に、我ながら恥ずかしくなる稚拙な
 言葉を混ぜかえし、(これじゃあ、買ってもらえないよなぁ)と思っている
 ところへ、突如「すみません」の声が飛んできた。

 「あのぅ、コレどうですか……?」

 自身なげな声の主から渡された紙を見てみると、意外にしっかりした文字で、

 「情熱の知性」

 と書かれている。僕は内心、(おいおい、初っ端からか?)と思いながらも、
 やはり嬉しくなって、

 「ハイ、買います」

 と、即座にその言葉を引き取った。

 渡された紙を前に、(少し短絡的だったかな?)と自身を省みる暇もなく、
 次々と言葉のセールスマンがやってくる。
 しかし、どれもいま一つピンとこず、申し訳ないなと思いながらも、
 「すみません、結構です」と、たて続けに断った。

 そんな中、「これ、どうでしょう?」というかわいい声のした方に
 顔を向けてみると、

 「生と死のハザマで生きていたい」

 との文言が。僕は内心、(オオッ!)と思いながら、

 「買いますっ!」

 と言って、迷わずその言葉に飛びついた。
 生と死のハザマで生きていたい……、つねづねストイックな人物や
 その生き方に憧れている僕にとっては、ずばりとツボを突いてくる言葉だ。

 僕はこれまでに買った二つの言葉を机に並べながら、内心、ニタニタと
 笑みを浮かべていた。

 やがて、ゲーム開始から20分近くが経過し、会場の空気も少し
 落ち着いた頃、カジュアルな服装に黒ブチの眼鏡をかけた、
 いかにもクリエイターといった感じの、年配の女性がやってきた。

 「あのぅ、これ……」

 控えめな口調と共に開かれた紙を見てみると、

 「はたらき者のでんしんばしらに 根がはえる」

 と、丸っこい字で書かれてある。

 はて?

 それまで、見た瞬間にピンとこなかった言葉は、どれもすぐ断るように
 していたのだが、今回はどこか様子が違う。

 僕はしばらくの間、紙をじっと見つめながら、

 「う~ん、と、ちょっと待ってください」

 と、その女性に考える時間をもらえるよう求めた。




 はたらき者のでんしんばしらに 根がはえる――




 僕は、返事こそすぐにできなかったが、この言葉が今後の自分に
 必要になってくるであろうことは、なんとなく肌で感じていた。
 そして言葉の意味をじんわりと胸にしみ込ませていきながら、
 しっかりと解釈ができるのを待った。

 これまで僕が選んできた言葉は、人から言われて嬉しかったもの、
 また、自分にとって都合のよいものであったのに対し、
 この言葉には、

 「ずっと同じ存在で在り続けなさい」

 というメッセージのようなものが含まれており、この先の
 僕の生きていく道を、確かに照らしてくれているように思われた。

 やがて、僕がハッキリとした声で購入の意思を告げると、その女性は、

 「ありがとうございます」

 と言って、嬉しそうにその場を去っていった。

 セミナー終了後に行われた飲み会の席で、僕はお礼とともにゆっくり話を
 しに行きたかったのだが、結局タイミングを逃してしまい、その女性とは
 話す機会を得ずにしまった。

 そして会もお開きになり、終電を待つホームの中で、僕は取り出した
 紙の上に、何度も何度も目をやっていた。

 「はたらき者のでんしんばしらに 根がはえる」

 ある日、不思議なきっかけで出会った女性から渡されたこの言葉を
 僕は生涯大事に握り締め、これからの人生を生きていきたいと思う。







Last updated  May 11, 2004 03:31:38 PM
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