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久しぶりに仕事が早く終わったので、近所のBarへ行った。ベルギービールとマンハッタン。たった2杯しか飲んでいないのに、椅子から立ち上がるとよろめいて、カウンターに手をついてしまった。千鳥足で家に戻る。観たいテレビ番組があって、放映時間までまだ時間があったから、本でも読もうと思ったが、気がついたら、電気をつけっ放しで寝ていた。先ほど、目が覚める。まだ頭が重い。けれど妙に目が冴えて眠れない。
ひとの生きる意味を考えるとき、魂の巡礼という言葉が一番ぴったり来る。数十年間の人生の間に経験する様々な事柄を通して、ひとは喜怒哀楽を得る。そして、それが大きな魂の成長につながって死を迎えるのだ。わたしたちをこの世に送り出した大いなる存在は、予め、ひとそれぞれに学ばせたい項目、そしてなすべきことを定めている。いつ、どこで、どんな両親の元で生まれるかは、決して偶然ではないのだと思う。 ここでひとつ、疑問を感じるのは、大いなる存在がどうして、ひとをこんなにも不完全なものとして設計し続けているかだ。わたしたちは数千年前から争いを繰り返している。人間の犯す犯罪は、太古の昔と今とで、本質はそんなに変わらないと思う。世界中のひとびとが生まれては死ぬというサイクルを繰り返して、みんなそれぞれ、魂の巡礼を続けているというのに、どうして人間全体のレベルが、こうも変わらないのだろう。 もしかしたら、不完全な存在だからこそ、成長しよう、前へ進もうという意欲が生まれるのかもしれない。ひととしてバランスが取れていては、決して一流の芸術家にはなれないという言葉を思い出した。完全であるということは、自分ひとりで完結しうるということだ。ひとりひとりが完結していたら、誰もコミュニケーションを取る必要性は無くなるだろう。そうか・・・そういうことなのか。 仙台から札幌に引っ越して味わった物足りなさを思い出した。東北のひとたちは、先人たちが築いた長い歴史に誇りを持ちつつ、否応なく東京化していく地域のありように対し、複雑な気持ちを抱いている。時には怒り、時には呆れ、そして諦める。けれども希望は捨てない。そういった葛藤が生み出すエネルギーが面白くて、わたしはどうしようもなく東北に惹きつけられる。一方、札幌は、受容の土地だ。北海道庁の作成したポスターを最初に見たとき、呆れてしまった。「試される大地、北海道」という、道庁の作った標語がでかでかと表示されていたからだ。「試す大地」ではないところが、じれったくて、なんだかな・・と思っていた。 一年目の冬だろうか。ふと閃いたことがある。今わたしが、世間体など全く気にせずに、自分の生きるべき道を求め続けられるのは、幼少の頃から、両親がわたしの自主性をとても尊重してくれたお蔭である。両親はどちらも北海道出身だ。特に父は、かつて倉本聡が脚本を書いたドラマ「昨日、悲別で」の舞台となった砂川出身である。かつて、炭鉱で栄えたが、今はもう、当時の繁栄を想像するのも難しい過疎の町。炭鉱夫だった祖父は肺を患って、60代の前半で亡くなった。父にとって砂川はつらい思い出が多い場所らしく、その頃の話はほとんど、聞いたことはない。しかし、多くの悲しみに直面し、じっとこらえて静かに受容するその姿勢が、わたしに対する接し方にも現れている。今、自分が物足りないと思っている北海道の受容性が父に影響を与え、今の自分につながっている。そこに思いが至ったとき、めまいがした。この世の中には、注意深く眺めなければ分からない複雑さが潜んでいる。生きる難しさと喜びをしみじみと味わった。 自分がこれからどこに行こうとしているのか。分かったようで分からなく、不安を感じないといったら嘘になる。けれどもそれは、かけがえのない発見に満ちた道のりでもある。その喜びを思うと、この不安も納得がいく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年06月05日 23時31分24秒
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