4566009 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ザビ神父の証言

ザビ神父の証言

時間と時計(1)~(10)

時間と時計 (1)

コーヒーの旅路のご愛読、有難うございました。数日間、時間観念の変遷を記事にしてみようと思います。またまたのお付き合いをよろしくお願いします。

こんなことを考えたわけを、最初に記します。時間と時計が舞台回しをする有名なお話といえば、皆さんご存知の「シンデレラ」の話しとなります。12時が過ぎると魔法が融けるという、あの有名なお話です。

実は、「シンデレラ」の物語は、17世紀の末に原型が出来あがっていたのですが、人々に受け入れられ、口から口へと爆発的に広まったのは、19世紀に入ってからのことだったのです。

それは一体何故なのか。時間の観念が広く民衆にとっても、意識されるようになり始めたのが、この時代だったから。だからこそ、魔法使いとシンデレラの時間の約束が、大きな意味を持つ物語が、民衆のハラハラドキドキを誘いながら、彼等彼女等に受け入れられていったということなのでしょう。

ここには、19世紀になると、民衆にとっても,時間の観念が問題となるような環境が、生まれてきたということが考えられます。そんなこんなを、思いつくままに数回書いてみたいと、考えました。

近代以前の世界では、夜間の照明は貴重品でしたから、庶民の生活とは関係のないものでした。農民はそれこそ、「日出でて耕し、日暮れて止む」の世界でしたし、商人や手工業者にしても、それは同じ事でした。そこでは時間は、寺社や教会の僧侶・聖職者にとってのみ重要なものでした。大切な祈りの時間を違えてはならないからでした。

やがて、都市や関所が出来ると、朝夕の開門と閉門の時間が重要になります。関所は以後の通行を禁止し、市門は城壁に囲まれた都市の夜間の安全を保障するものでした。

西欧世界を旅してみると、時計搭が都市や地域のシンボルとして大事にされているのを、良く見かけます。それは、教会の時計搭であったり、市役所の時計であったりします。

13世紀頃からでしょうか。領主や国王から自治権を買い取った都市(自治都市)の商人達は、教会の時間とは異なる、商人の時間を持つようになりました。それは教会の禁じる、お金の貸し借りにかかわる利子の観念の発達によります。お金は商売に投下されることにより、時間と共に回転して利益を生むものでしたから、そのお金を借りて使うことでも利益を生みます。だから借主は、貸主に対して、元金にプラスした利子をつけて返す必要がある。

この観念の一般化が、商人達にとって、お金は時間と共に利を産むもの。時間は利子を計算する上での、重要なファクターとなったのでした。ここに教会の時間と異なる、商人の時間として、教会と共に市庁舎の時計が聳えるようになりました。
                   続く
時間と時計 (2)

ところで、人間が日中だけ行動する時代では、正確無比な時を知ることは、必要ではありませんでした。

祈りの時間を知るのであれば、まさにおよその時間が分かれば問題ありません。それでもおよその時間を知る必要はありました。それに、古来から人間は、残念なことにさまざまな戦争を繰り返して来ました。戦場では、四方に散った味方が、一斉に敵陣に向けて攻勢に出る必要がありました。

そのためには、味方が時間を共有することが必要でした。ここに教会や寺院の鐘などが利用されました。また封建社会では、土地からの移動を禁じられて、領主に労働で地代(賦役とも言います)を納める農奴達に、直営地での労働を強制できる領主やその代理人は、労働の開始や終了を告げる時を、知る必要があったのです。

そのために利用された初期の時計が、水時計であり、火時計であり、砂時計でした。この中で、正確性が高く、しかも長時間使用が可能だったことで、特に宗教界で好まれ、愛用されたのが、香を利用した火(香)時計でした。
蝋燭も非常に貴重な時代でしたから、かなり高価な品でしたが、この蝋燭に火を灯して確かめると、香(火)時計の正確さは、確認できます。

こうして機械時計の登場前から、時間の計測は比較的正確になされていたのです。あまり知られていないのですが、船乗り達もまた、時計で測った時を必要としていました。彼等は砂時計を使っていたようですが、船の位置を知るために,常に○○から何時間。××から何時間という言い方で、船の位置を確認していたのです。
                      続く
時間と時計 (3)

ところで、時を計るといっても、「陽出でて耕し、陽入りて止む」の世界では、昼と夜の長さは、一定ではありません。自然の時間の中での暮しは、季節によって時間が違ってきます。こうした自然の時間が制度化されると、それは「不定時法」と呼ばれました。

日の出から日没までが「昼の時間」、日没から翌朝の日の出までが「夜の時間」とされ、夫々が6等分なり、12等分なりされて、計られるのです。

それゆえ、この方法では、夏と冬では1時間の長さが昼も夜も、かなり違ってきます。それどころか、昼の1時間と夜の1時間も季節によって異なります。

この不定時法は、機械時計が誕生することによって、変わってきます。機械時計は昼夜に関係なく、一定のリズムで時を刻むからです。この機械の告げる時を制度化した方法が、「定時法」と呼ばれました。

機械時計が出現し、普及し始めると、時の観念も変化して行きます。機械と計が最初に普及したヨーロッパでは、それを使う人々の間で、次第に不定時法から定時法へと、時刻制度が変わってゆきました。

当然の事ながら、最初に昼夜を問わない一定の時間を求めたのは、宗教者達でした。祈りの時間を過ごす彼等にとって、祈りの時間が一定であることが、何よりも求められたのです。1時間の時間が季節によって変わったのでは、その都度祈りの時間が違って、神に捧げる祈りの1部を伸ばしたり、縮めたりとややこしいことになるからです。

機械時計は、彼等のこうした悩みを解消してくれたのです。こうして機械時計は、ヨーロッパのカトリックの世界で、とりわけ宗教者の養成機関兼研究機関である、修道院に最初に広まったのです。

機械時計ほど、正確に祈りの時間を知らせてくれる時計はない。それに時報の機能がついていれば、なおさらです。1時間後とに時を告げる機能がついた時計が誕生したのは、こういうわけでした。

時期は特定されていないのですが、どうやら13世紀末から14世紀の始め頃と考えて良いようです。日本でいう鎌倉末期です。この頃に時を知らせる機能のついた機械時計が誕生したのです。英語の置き時計や掛け時計は clock と呼ばれます。clock の原義は鐘です。鐘の機能、つまり時報の機能を持った時計というわけです。
                       続く
時間と時計 (4)

機械時計は、このようにして生まれました。それは宗教者が生み出したものですが、機械時計の刻む時間は、昨日記したように自然の時間ではありません。

昨日も色々なコメントを戴いたのですが、機械時計によって、自然の時間は、人工の時間に変わって行きます。そして、そうした変化と共に、神の時間を管理して、時を告げる仕事と権利を一人占めにしていた宗教界に、対抗する勢力が登場してきたのです。

それが、西欧世界における新興の商人達でした。遠隔地貿易にも従事する彼等にとって、キャラバンが帰りつくまでのツナギの資金が重要です。簡単に往復できないキャラバンには、手持ち資金のありったけをつぎ込むのが当然のことと考えられていた時代でしたから、帰りつくまでの留守部隊(中には留守部隊なしで全財産を注ぎ込んで、旅立つご仁もいたようです)は、ツナギ資金の融資を受けて、その間をしのいだのです。ここに金貸し=金融業者も登場することになったのです。

蒙古襲来として、日本にもお馴染みの中国元朝のフビライ帝の下に、『東方見聞録』の著者マルコ・ポーロが滞在していたことは、あまりにも有名です。ご承知の通り、これは13世紀後半の話です。シルクロードやステップロードを往来するキャラバンの要請に応え、その安全を保障するのが、ユーラシアの東西にまたがる大帝国の役割でもあったのです。

それだけ、この時代には、遠隔地商人の活躍が目立ったのです。当然金融業も発達します。第1回に記しましたが、金銭の貸借には利子がつきものです。借りた金を使用して利を得るのですから、利益の1部を謝礼として考えるのが当然とする、考えがそこにはありました。

しかし、教会はこの考え方を認めませんでした。「金を借りている時間が利子を産むとは何事か!」というわけです。教会にとって、時間は神のものであり、これは譲れない一線だったのです。金を貸して利子を得る行為は、「神のものである、時間を盗む行為である」「利子は神の時間を盗んだ結果、産み出されるものである」と結論されたのです。それは、犯罪行為とまでされたのです。こうしてローマ教会は利子禁止法まで制定したのです。勿論、一時期のことでしたが…。

この結果、初期の金融業者の多くはユダヤ人ということになったのです。ユダヤ教徒は、キリスト教の教えに縛られないからです。
時間と時計 (5)

機械時計が誕生して、およそ半世紀経った14世紀の中頃から、先ず教会の搭に、少し遅れて市庁舎の搭にと、機械時計が据えつけられました。機械時計その物が、当時の技術の粋を集めた貴重な品だったのですが、ハイテク技術を駆使して機械時計を製作した親方達は、それだけでは満足しませんでした。高位の聖職者や市庁舎の幹部の大商人達が、感歎の声を上げれば上げるほど、さらに高度な技術を披露して、今以上の賛辞を得たいと考えます。

賛辞こそが、彼等の勲章だったのです。こうして機械時計の進化した姿として誕生したのが、カラクリ時計だったのです。日本では有楽町のマリオンの時計が1時、多くの人を集めましたが、ああした時計の中世版です。

15世紀に登場した、スイスのベルン市に、ツァイトグロッケン(=時鐘)と呼ばれる時計搭があります。この搭の大きな天文時計にからくりが施されています。ある時間になると、ベルン市のシンボルである子熊が窓から出てきて行進するのです。さらに子熊の出てくる窓の上に、時の神が砂時計を持って陣取るのです。時の神は、子熊の行進に合わせて砂時計をひっくり返します。その時の神の上に、さらにピエロが控えています。このピエロは、子熊が出てくる3分前(つまり、決まった時刻<正時>)になると、身体をよじって鐘を突き出す仕掛けになっているのです。

ピエロの3分後に子熊の行進が始まり、行進は時の神の砂時計が時を計って終るのです。随分と凝ったカラクリですよね。ちなみにベルン市のシンボルが熊であるのは、町が作られた時の最初の猟の獲物が、熊だったことから、町の名が、熊を意味する「ベルン」になったからだと、されています。
時間と時計 (6)

もう少し時計搭の話を続けます。

ヴェネツィアのサン・マルコ広場を訪れたことのある方も多いと思います。ここにはサン・マルコ聖堂と高く聳える鐘搭が建っていますね。実は、こちらに注意が向き過ぎてしまって、サン・マルコ広場への入口になっている、門の上にある、15世紀末に出来た時計とうは、見過ごされてしまう方が多いようです。

この時計は天文時計と呼ばれるものです。文字盤は1日24時間の目盛のほかに、黄道12宮が描かれています。太陽の動きや月の満ち欠けが示されるようになっています。文字盤は門のアーチのすぐ上にあります。下から見上げても、誰もが文字盤の文字を読める程度の高さにしてあるというわけです。

ところで、文字盤から20メートル程上になる、搭のてっぺんに時報の鐘が取り付けられているのです。その鐘の左右にはブロンズのムーア人が向かい合う形で取り付けられていて、20メートル下の時計と連動して、定時になると自動的に、鐘を打つ仕掛けになっているのです。そう複雑な仕掛けではないのですが、離れたところからの合図で、鐘つき人足が鐘をつくという、面白い仕掛けになっているのです。

今度、ヴェネツィアに出かける機会がありましたら、是非ご覧になって下さい。
                        続く時間と時計 (7)

西欧の時計搭は、14世紀後半から15世紀にかけて、建設が始まったのですが、それは当時の都市にとって、時間とお金のかかる大公共事業そのものでした。しかも機械時計を据えつけるには、複雑で高度な技術を持つ時計職の親方が必要でした。

時計搭を見ると、その都市の文化水準というか、ハイテク技術の水準が分かったと言われたほどでした。それ故に各都市は、時間とお金がかかっても、面子にかけて、立派な時計搭を建てようと考えたのです。

そんな中に、中欧の美しい都市、現在のチェコの首都プラハもありました。このプラハにこんな伝承が残されています。

プラハでは1333年に市庁舎の建物が出来、1355年には建物に搭屋が聳えることになりました。「黄金のプラハ」のシンボルが誕生したのです。この搭に機械時計が取りつけられたのは、1402年の事でした。

そして、この時計搭に、同じ15世紀の末になって、もう一つ別に精巧なカラクリ時計が取りつけられたのです。取りつけられた場所は、搭の下の方でした。その時計は天文時計でしたが、市民や旅人が良く見えるように配慮されていたのです。

天文時計の文字盤の上の壁にあたる部分に、2つの開いた小窓が付いていました。正時が来ると鐘が鳴ります。鐘が鳴る度に左の小窓から、キリストの12使徒が1人づつ出てきては、右の小窓に消えて行くのです。1人また1人と。これには市民達は大いに喜び、市庁舎の時計搭は、大人気となりました。

作成者は、プラハに住む時計工のハヌシュ親方でした。親方の評判はいやがうえにも上がります。それを心配した市の幹部達は、ハヌシュ親方が他都市に引き抜かれ、より高度なカラクリ時計を作りはしないかと心配したのです。それなら高級で優遇するとか、名誉ある地位に付けるとか、考えれば良かったのでしょうが、市の幹部達は、最悪な方法を選んだのです。

それが、ならず者を雇って、ハヌシュ親方の両眼を潰す事だったのです。当然親方はもはや仕事は出来なくなりました。ハヌシュは市の幹部の差し金に違いないと見当をつけ、復讐の機会を待ちました。

ある日彼は、カラクリ時計の点検が必要だからと許可を取り、失明後も彼の下を離れなかった弟子を伴って、時計搭に入りました。そして彼は、自らの手で、自分が心血を注いだ傑作を、めちゃめちゃに壊したのです。これが彼流の市幹部に対する復讐だったのです。

ハヌシュの話しは、プラハ市に伝わる伝承ですから、本当の話ではありません。しかし、この伝承を基に、プラハの時計搭には、18世紀になって、ある時計技師が修理し、復元したカラクリ時計が復活し、再び動くようになったことも事実です。機会がありましたら、ご覧下さい。
                          続く

ある日彼は、カラクリ時計の点検が必要だからと許可時間と時計 (8)

ところで、日本では時を告げることはなかったかというと、そんなことはありません。落語の「時蕎麦」に、お寺の鐘を聞いて、「今何時か」と問うシーンがあります。忠臣蔵の討ち入りにも、鐘の音が時を告げて、時刻を明らかにしています。

幕末の話ですが、浦賀にやってきた米国太平洋艦隊のペリー提督は、停泊中の船内で、夜半に何度も鐘の音を聞き、それが日中にも響いてくる事を知り、それが時報であることを理解して、驚愕し、かつ感動したことを記載しています。「文明の遅れた国だと思っていた日本は、時間の観念は、アメリカより進んでいるかもしれない」と、彼は書いています。

松尾芭蕉の『奥の細道』は、元禄2(1689)年の3月から約半年の旅だったのですが、その旅には、彼の弟子の曽良(そら)が同道しています。この曽良が旅日記を残しているのですが、そこには旅の時間が、しつこいほどに出てきます。芭蕉自身は、あまり時間に拘らないタイプでしたから、余計にお供の弟子として、時間の正確さを心がけたものと思われます。

例えば、こんな記述があります。「18日卯の刻(午前6時)、地震があった。辰の上刻(午前7時)雨上がる。午の刻(正午)宿を出る。」こんな調子です。

当時懐中用の日時計はあったようですが、雨上がりの時刻を見るのに、日時計は役に立ちません。日時計自身は、江戸時代以前から使われていたようなのですが…。

曽良はお寺の鐘を聞いて、時を知ったと考えられるのです。ペリーが驚き、感動したのは19世紀の中頃でしたが、17世紀の末には、江戸のような大都会ばかりでなく、全国各地の寺という寺で、時鐘が響き渡っていたと考えられるのです。奥州のような都から遠い地方でも、それは変わらなかったと言ってよいように思えます。
                       続く
時間と時計 (9)

「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘がなる。お手て繋いで……」昔懐かしい童謡です。詩人の中村雨紅さんが、この詩を詠んだのは、大正時代でしたが、この頃山寺の鐘はいくつなったのでしょう。

現在は聞かなくなりましたが、1980年頃までは、朝夕に鐘をつくお寺は各地に残っていました。ただし、撞く鐘の数はマチマチになっていたようです。

しかし、昔は鐘の数は決まっていました。夜明けと日暮れを告げる鐘は六つ撞かれていました。明け六つに暮れ六つです。昨日江戸時代から、お寺の鐘が時報の役割を果たしていたことを記しました。大正時代の日本は、もう不定時法を定時法に改めていましたが、鐘の撞きかたについては、古くからの伝統が守られていた時代だったからです。

今日、1日は24時間と定められていますが、江戸時代は1日を12刻、12支の名を用いて、12に分けていました。深夜0時、日付の変わる刻限からの約2時間が子の刻、以下丑の刻……という具合で、最後の日付の変わる直前が亥の刻というわけです。

ただし、当時は不定時法を採っていますから、お彼岸前後を除くと、昼の長さと夜の長さは違っていました。ですから,子の刻も午の刻も、みな約2時間という意味で、現在のように120分ということではないのです。

ところで、明け六つ、暮れ六つという方は、何を意味したかと言うと、これは鐘を撞く数を指しました。子の刻は、その始まりに鐘を九つ撞くのです。丑の刻は八つ、寅の刻は七つ、そして卯の刻は六つ、辰の刻は五つ、巳の刻は四つ、正午の午は九つに戻り、以下一つづつ減っていくのです。

半刻の時間は、曽良の旅日記のように、辰の上刻とか、卯の下刻といった言い方で現していたようです。

「おやつにしよう」という言い方は、今でも普通に使われますが、これは未の刻(午後2時)頃に、八つの鐘を合図に「おやっつ」だ一休みすべいと、いった習慣が、3時のおやつに変わって、今に残ったのだと、考えられています。

ところで、こうした江戸時代の時報ですが、江戸では昼夜を問わず鐘が撞かれたようですが、大阪ではちょっと違っていたようです。オランダ国王の使節ケンペルが、江戸城へ参府する道中記として書き残した記録が残っているのですが、大阪の釣鐘屋敷では、日中は全て鐘を撞きましたが、暮れ六つの鐘が終ると、戌(8時頃)は太鼓、亥は銅鑼、子は鐘九つ、丑は太鼓、寅は銅鑼と、鐘以外も用いていたようです。

ところ変われば、色々な工夫があったようですね。
                            続く
時間と時計 (10)

江戸時代の日本には、徳川幕府の下に、全国に約220の藩が置かれていました。17世紀中頃のことです。そのうち5万石以下の小藩が約60%を占めていましたので、その多くは、所領に城を持たない大名でしたが、5万石を越えると城を持つのが、通例だったようです。

城を中心に城下町が出来ると、藩主に仕える家老以下の武士は、城近くの武家屋敷に住み、毎日城勤めに上がることになります。城は藩の行政センター、今で言う県庁や市役所の機能を持っていたのですね。さしづめ武家屋敷は官舎ですね。

さて、武士たち役人の勤務時間なのですが、普通辰の刻(午前8時)に登城して仕事につき、退出時間は決まっていませんでしたが、およそ午前中を勤務に宛て、午後は各自スキルを磨く生活をしていたようです。

この出勤時刻を知らせるのも、鐘や太鼓の役割の一つでした。太鼓は非常の際の臨時登城を促す際に用いられ、通常は時報の鐘が合図でした。10万石以下の小藩の城下町では、城で撞く、或いは城下の中央で鳴る鐘や太鼓は、町中に響きます。それを合図に仕事を始めるというわけです。

ご存知の方も多いと思いますが、兵庫県の出石は、出石藩の城下町でした。ここに「辰鼓櫓」と呼ばれる、町おこしの名物があります。ここは元来、物見櫓を兼ねた藩政時代の時報装置でした。鐘ではなく太鼓を打って、時報としていたのです。

出石藩の城主は、何代も変わりましたが、太鼓櫓の時報は代々続けられました。明治4年(1871年)の廃藩置県で藩はなくなり、2年後には暦も太陰暦から太陽暦に変わり、時刻制度も定時法に変えられました。太鼓櫓も不用になったのです。

各地の城下町では、寺以外の鐘撞き堂は廃されていったのですが、出石は違いました。旧藩医の池口忠恕がオランダ製の大時計を寄贈し、太鼓櫓を時計搭に変身させたのです。こうして誕生したのが、現在の「辰鼓櫓」です。明治10年代の初めのこととされています。

ちょっとした心遣いの違いで、今に残る町おこしの名物が誕生したという、好例がここにあります。
                        続く


© Rakuten Group, Inc.