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ザビ神父の証言

ザビ神父の証言

時間と時計(22)~(完)

時間と時計 (22)

さて入間県の県庁所在地だった川越にも、西洋時計はありませんでした、無理もありません。西洋時計は、当時貴重品で、明治4年12月の『新聞雑誌』24号に載った「奈良県通信」によれば、当時の奈良県では、「洋服着用の者1人もなく、時計を所持する者、僅かに官吏2名のみ」という状態だったのです。

ところで、川越藩士内池武者右衛門、あの日本で最初に懐中時計を手にした人物は、どうしていたのでしょう。彼の家宝の時計はどうしたのでしょう。

武者右衛門は、川越藩の書庫係でしたが、廃藩置県によって藩が解体したのち、地方の大半の藩の侍たち同様、僅かな金録公債をもらって失業者になりました、失業した武者右衛門は、まず横浜に出て時代の流れを見つめることにしたのです。そこで彼は、川越にはなかった散髪屋を見つけ、自分の髷を切てもらい、ついでに整髪してもらったのです。

ここで閃いた彼は、川越に戻って散髪屋を開業しようと、見よう見まねで散髪技術を磨いたのです。こうして、武者右衛門は、川越市で最初の西洋式散髪屋になったのです。

当然彼の店には、県庁の役人もやってきます。西洋時計がなく、困っていた役人は、散髪に来る客の情報に通じる床屋の親父に、「誰か時計を持っている人を知らぬか」と尋ねました。ここに武者右衛門が、家宝として大事に持っていた懐中時計の出番がきたのです。

幕藩体制の世の中では、固く口を閉ざして秘密にしておかなければならなかった懐中時計のことを、今は誰彼気にせず語ることが出来るのです。武者右衛門は、自分が懐中時計を持っていることを告げ、奥からそれを持ってきて、役人に見せたのです。

大喜びした役人は、早速県令(現在の県知事)に報告します。30余年間大事に守りぬいた時計が、晩年の武者右衛門に微笑んだのです。翌日県庁に呼ばれた武者右衛門は、散髪屋ぼ家業を続けたまま、朝・昼・晩の3回、多賀町の鐘撞屋敷で時報を撞く、時報の管理主任を務めることになったのです。辞令によると「月棒4円」とありますから、当時としてはかなりの高給でした。

ところで、1840年代のアメリカでは、まだ有名なウォルサムも創業しておりませんから、国内に時計製造業はなかったと推測されます。武者右衛門がもらった時計は、九分九厘イギリス製の時計であったろうと考えられるのですが、実物が失われていますので、特定はできないのです。
                                  
時間と時計 (23)

ガリバーの懐中時計の話から、何時のままにか、明治の暦法と時刻制度の変更の話にまで来てしまいました。

懐中時計から、何時頃腕時計が生まれるのか。ポケットにしまう懐中時計が、腕に巻く腕時計に変わっていくのは何故か。そこにはあまり歓迎できない話があるのですが、それはもう少し後にさせていただきます。

ここでは時代の針をもう少し戻して、何故懐中時計が流行することになったのかを、振り返ることにしたいと思います。

教会の時計搭から、市庁舎の時計搭と記してきましたが、19世紀に入ると、三つ目の時計搭が登場し、市民に親しまれるようになります。それが鉄道の駅舎の時計搭です。

産業革命を学習すると、スチブンソンの蒸気機関車は1825年の登場と出てきます。さて、そのイギリスで、世界最初の鉄道が開通したのは1830年のことでした。北部の工業都市マンチェスターと、ビートルズの誕生の地リバプールを結んだ鉄道でした。当初は、この区間を時速30kmという、当時としては脅威のスピードで走ったのです。

これがきっかけとなって、その後の僅か20~30年の間にイギリス全土に鉄道網が張り巡らされることになったのです。こうなると、金持ちのブルジョワなどにとっては、狭い馬車に揺られて何日もかけて目的地に行くよりも、馬車は御者に運ばせておいて、自分は鉄道で目的地に向かう方が、余程快適です。また多少収入の多いプチブルなどにとっても、日帰り汽車旅行などを楽しむ事が出来るようになったのです。

事情はイギリスの技術を真似て、鉄道を建設したフランスやドイツでも同じでした。しかし、ここで困った問題が起きたのです。

現在の日本の鉄道ほどに正確でなくても、鉄道は決められた時間の通りに走ります。しかも現在のように、都市部で言えば1時間に何本もの列車が走るわけではありません。せいぜい日に数本です。時間通りに駅に行かないと、汽車は待ってなどいてくれません。

今は何時か。それを知るには正しく時を刻む、質の良い懐中時計を持ち歩くのが最も確実だったのです。こうして懐中時計は、船乗りや船の乗客だけでなく、鉄道を良く利用する人達にも、愛用されるようになったのです。

イギリスとオランダに生まれ、スイスやフランスにもすぐに伝わった懐中時計の技術は、瞬く間に売れ筋の商品を産み出し、豊かな人々から、多少は豊かな人々へと、大きな流行を生み出したのです。余談ですが、まがい物の安い懐中時計も出まわっていました。これは偽者のダンディーが、夜の町で女性を口説く小道具として、大いに必要とされたのですが…

勿論、本物のダンディを目指す場合、一流店の懐中時計は必需品でした。バルザックの名作『ゴリオ爺さん』に、没落貴族の息子である貧乏学生でダンディを目指していたラスティニャックに、ゴリオがプレゲの時計をプレゼントするシーンがあります。プレゲは、当時のフランス最高の時計店でした。

鉄道に戻りますと、しかし、懐中時計が普及するだけでは解決できない厄介な問題が待ち構えていました。

時間と時計 (24)

鉄道の普及によって起こった困った問題。それは、地域によって、異なる時計時間が通用していたからです。

鉄道が出来る前の馬車の時代では、時間もかなりアバウトでしたし、馬の付け替えや、休息の必要もありましたから、時刻の違いは深刻な問題にはならなかったのです。

ところが、現在ほどではないにしても、鉄道は正確に運行されます。それゆえに生じた問題だったのです。どこでも太陽の南中時間を12時とし、正12時に時計を合わせていたのです。ですから、東京と大阪では、正午の時間にかなりのズレがありました。地域の暮らしが、時計を必要とすることになっても、この違いは問題にはなりませんでした。

しかし、鉄道を利用するとなると話は違います。特に起点となる大都市から、列車が西へ走る場合、自分の時計で間に合うだろうと、駅へついてみたら、既に列車は出発した後だったということが、起こります。運転士の時計と、各地の市民の時計が、夫々の標準時を示しているために合っていないのです。これは何とかしなければなりません。

困った鉄道会社は、大都市の始発駅の時刻表と、地域時間の時刻表の双方を運転士に持たせて、あるところから先へいったら、こちらの時刻表をと、複雑な指示を出したのです。これには運転士が混乱してしまい、大失敗に終りました。

こうした混乱から生まれたのが、全国的な標準時の発想でした。イギリスではロンドンに近い、グリニッジ天文台の南中時を正午とし、フランスでは、パレ・ロワイヤルの真北にあるパリ天文台の南中時を正午と定め、夫々全国の時刻を統一したのです。パレ・ロワイヤルの中庭の一郭には、太陽の南中時に丁度火が着き、空砲が鳴る仕掛けが作られ、第1次世界大戦の始まる1914年まで、パレ・ロワイヤルの午砲として親しまれたのには、こうしたわけがあったのです。

時間と時計 (25)

全国標準時の誕生は、鉄道の普及のためでした。しかし、当時の鉄道は現在のように日常的に使われるものではありませんでした。勿論通勤の足になるのも、ずっと後のことです。

多くの人達にとって、鉄道はレジャーと商用のためでした。ですから、時計と時間の観念の普及、一般化は鉄道によって齎されたものではなかったのです。 では、何が時間の観念を普及させ、時計の利用を広めたのでしょうか。

何度もシンデレラの話で恐縮ですが、シンデレラの物語は17世紀末にフランスで誕生した物語ですが、19世紀の初頭に、今一度大きな流行となって、争うように読まれました。しかも今度の流行の中心はイギリスでした。

この時期のイギリスは産業革命が中盤に入り、工場制度が普及しつつある時期でした。工場に欠かせない存在のひとつに、そこに働きに来る労働者の大群があります。

工場経営者である資本家は、工場に機械を据えつけ、原料や動力をも用意した上で、自らの労働力を売って、賃金を得ようとする労働者を雇って、原料を商品に加工させます。その商品を売って利潤を確保するためにです。ここでは、労働者は、何時から何時まで○時間働いて○○円、それが1週間続いて、○○円という週給契約で雇われるのが普通でした。

何時には工場にいなければならない。これが資本家と労働者の契約の基本です。そして何時まで働かなくてはならない。終業時間は、仲間の労働者が大勢いますから、何となく分かるにしても、始業の時間を間違えないようにするのは、大変な事でした。労働者の前身は、手工業の職人か農民です。時計を見ながら、時間を気にしながら労働する習慣は持たない人達です。

しかし、工場では「製品さえ、ちゃんと作れば良いんだろう」とは行きません。労働は時間の契約だからです。資本家も心得ていました。労働者に時間の観念が乏しく、時間にルーズであることを。 そこで彼等は、契約に罰則規定を設けていたのです。朝○時から、夜○時まで働く事。もし始業の○時に遅れた場合、3分の遅れで1時間分、30分の遅れで半日分、1時間の遅れでは、全日分の賃金を差し引くと…

こうした厳しい現実が、労働者に嫌でも時間を意識させるようになります。気分が乗れば猛烈に働き、乗らなければ早仕舞いしていた職人気質の人達にとって、これは大変な苦痛でした。しかし、工場での稼ぎに生活がかかっている以上、仕事の始まりに遅れたり、休んだりする事は許されません。

その上、置き時計や懐中時計は高価ですから、とても労働者が手に入れられるシロモノではありません。彼等・彼女らは教会や市庁舎や工場などの鐘の音を頼りに、時間を気にしながら、工場への道を急ぐしかなかったのです。

実は、義務教育という構想、それも無償の義務教育という構想が生まれ、19世紀の中頃から、急速に実現をみるのは、この時間の観念の普及問題と無関係とは言えないのです。

時間と時計 (26)

時間をめぐる工場労働者と経営者の確執は、簡単に決着の着く問題ではありませんでした。とりわけ、気難しいが腕の良い熟練工の代わりは、簡単には見つかりません。ですから売り手市場の熟練工は、経営者・資本家に対しても強気で臨める立場にあったのです。

彼等は、安息日に当たる日曜日に続く、月曜日も良く仕事を休みました。賃金は週給制ですから、土曜日が給料日です。手元に金がある間は、働くなくても良いではないか。これが、彼等の論理でした。日曜日に続く月曜日、熟練工や、熟練工について働く半熟練工達は、この日を「聖月曜日」と称して、良く仕事を休み、1日を居酒屋で過ごしては、仕事のグチをこぼし合ったり、石工や大工は、次ぎの仕事先についての情報を交換したり、政治や経済の仕組みについて、話を聞いたり、話したりしながら、安い酒を酌み交わしていたのです。

こうした状態にありましたから、経営者達にとって、時間の観念を全ての労働者に身に着けさせるには、どうしたら良いかは、大きな関心事だったのです。そこへ、持ちあがったのは、労働者階級の貧しく、悲惨な生活実態への驚きの声でした。とりわけ、子どもの労働者の悲惨な生活については、大きな社会的な非難が浴びせられたのです。

働く人達にとって、それは農民も職人・手工業者にとっても、商人にとっても同じですが、6歳以上の子どもは、小さな大人として労働するのが当然と考えられていた時代です(国王や貴族、大富豪等の館でも、6歳頃までの子どもは、専ら乳母や傅役が子育ての責任を負い、子どもが両親に会うのは、おはようとお休みの挨拶をする時だけというのが、普通の姿だったのです。6歳を超えると、なお傅役や乳母がついていますが、一応1人前と認められ、両親と食卓を共にし、食後の一時を共に過ごしたり、小旅行に同行したりが、許されるようになるのです)から、労働者家族の子どもたちも、子どもでも可能な作業を与えられる工場労働者になっていたのです。

しかも、その労働時間たるや、大人と同じ15時間、16時間の労働が普通だったのです。工場近くに間借りしようとすれば、当然高い家賃が必要です。低賃金の労働者は、良くて工場から30分、一般的には45分~1時間かかる地域で、間借りするのです。バタンキューで眠ったとしても、6時間程度の睡眠時間しかとれなかったのです。

『女工哀史』の世界は、日本だけの現実ではなかったのです。ただ、イギリスでは1800~1850年頃、フランスでは、1820年代~1870年頃までが、そのピークだったのに対し、日本では1890年頃から広まり、敗戦まで続いたという時期の違いがあるのです。

1820年代の後半に入ると、徴兵制を採るイギリスでは、労働者世帯の出身者に徴兵検査の合格者が異常に少ない事が問題となり、議会に調査委員会が設けられて、広く調査が行なわれました。その結果、工場での児童の長時間労働の実態が明るみに出たのです。工場主は社会的非難に晒されました。

こうして誕生したのが、1833年工場法でした。ここでは
(1)9歳以下の子どもの労働は禁止され、
(2)9歳~13歳については、9時間以上労働させてはならない、
ことになったのです(13歳以上は、制限なし)。

さて、9歳までの子どもは働けなくなったのですが、農民の子は親の下で手伝いができます。しかし、工場労働者の家庭では、両親は共に工場へ行っているのですから、することがありません。無為で怠惰な時間を過ごさせるより、この子たちに読み、書き、計算(かつてはソロバンと言いましたね)を教えれば、男の子はまずまずの兵士になり、女の子はしっかり子育ての出来る親になるかもしれない、子供達を教育しようという声が高まったのです。

機械制工場の発達で、機械を扱うには、取り扱い説明文を読める事が大事ですし、製品の数を数えて間違えないことが、製品の納入には欠かせないことだったのです。

こうした学校教育への期待の高まりは、経営者達をも動かしました。学校を利用して、子どもの内に時間の観念を身につけさせることが出来れば、こんな良い事はない。子ども時代に身につけた習慣は、後々まで絶対に忘れないからです。それには、労働者の子女だけでなく、労働予備軍でもある農民の子女にも同じ教育を授ける必要がある。

これが経営者連盟の主張でした。こうして1833年、工場法の成立とほぼ同時に、初等教育学校の建設費半額補助の制度がスタートし、その後、教育費補助が次第に拡充され、1852年には、1部有償ながら、世界で最初の義務教育制度がスタートしたのです(無償の義務教育は1870年の初等教育法の制定を待たねばなりませんでした)。

ご承知の通り、学校の授業開始と終了の時間は、鐘の合図によって行なわれます。学校に通う事によって、誰もが時間で動く習性を身につけるというと、聞こえが良いのですが、実際は身につけさせられます。そうすれば、長じても、時間でうごかされることに抵抗はない。これが、資本家=経営者達が、半額負担を被っても、工場地帯に初等学校を建設する道を選び、農村での初等教育の普及についても、政府に要請し続けた理由だったのです。

時間と時計 (27)

標準時の話に戻ります。鉄道利用のための鉄道の時間が、全国標準時の決め手となったことは、先に触れました。しかし、鉄道の時間は、鉄道が利用可能な地域でしか必要がありません。

それゆえ、鉄道と無縁な地域では、標準時などどうでも良い事だったのです。従って、こうした地域では、相変わらずわが町における太陽の南中時が昼の12時=正午だったのです。その方が分かりやすいし、それで何の支障もなかったからです。

それでは、現実の問題として、全国標準時が現在の状態のように全国化したのは、何時だったのでしょうか。それは1920年代にアメリカから世界に広まったラジオの普及でした。

ラジオは1920年の大統領選挙直前に、ビッツバークで最初の放送局が開局したのですが、折りからの大統領選挙の速報で視聴者を惹きつけると、ニュース報道とプロスポーツ(野球、ボクシング、アメフトなど)の実況中継、そしてジャズ中心の音楽を3本柱に、急速に普及し、20年代後半には全米に全国ネット張り巡らせるほどに、急速に普及し、しかも米国のみでなく、英・仏・独などのヨーロッパ各地に、そして日本にまで広まったのでした。

しかも、ラジオは、大量生産技術をフル動員して、量産されたため、コスト低減の法則が働いて、比較的安価に生産されたために、次第に増えつつあった中流家庭にまで、普及し、中規模の農民から、ブルーカラーの1部にまで、広まった商品となったのです。

ラジオ番組、とりわけスポーツなど実況中継は、当然ながら全国標準時での放送になりますから、ラジオ放送を楽しもうという人達は、ローカルな時間を使うわけにはいきません。標準時に時間を合わせる必要は、こうして全国化したのです。ベーブ・ルースのホームランやヘビー級チャンピオン、デンプシーのノックアウトシーンの力は大きかったと言えましょう。

日本のラジオ放送では、菊田一夫作の「君の名は」が大ヒットし、その放送時間には、町の銭湯の女湯(昭和20年代の当時は、自宅に風呂のある家庭は、ごく僅かでした)が空になると言われた程でした。同じ時期、子どもたちは「笛吹き童子」「七つの誓い」「オテナの搭」「赤胴鈴之助」などの番組の開始時間を気にして、家路を急いだものでした。私も、帰宅が間に合わないとなると、途中の友達の家に上がりこんで、番組終了まで、ラジオを聴かせてもらい、帰宅後に猛烈に叱られたことが何度かありました。それでも、いくら叱られても、ラジオを聴きたい誘惑の方が強かったものです…。

こうして、ラジオ放送の力が、全国標準時を本格的に全国に広げる役割を果たしたのです。

時間と時計 (28)

この稿も、終りが近づいてきました。私たちにとって、時計と言えば、圧倒的に腕時計です。最後に腕時計の誕生と普及の話しを記したいと思います。

時計が教会の占有物から、市民のものになって行く過程では、時計は市庁舎や教会の搭、公共広場などに置かれた、みんなのものでした。それがやがて置き時計や懐中時計が誕生して、個人の時計が優勢になっていきました。

懐中時計から腕時計への着想が生まれてゆくのですが、この腕時計を最初に着想した人は誰か? 実は皆さんも良くご存知の有名人なのです。誰だと思います? 女性ですよ…

16世紀後半にイギリス女王の座にあり、海賊だったキャプテン・ドレイクをイギリス海軍の提督に任命して、海洋国家イギリスの礎石を築いた、エリザベス1世がその人です。

ブレスレットの歴史は古く、初期中世の騎士達は、戦いの際に敵と剣で打ち合う際に、自分の小手を守ろうと、大きな青銅製のブレスレットを着けていました。中世後半には、その習慣は廃れ、ブレスレットは女性が身につける装身具に変化していたのです。

16世紀には、宝石をちりばめた豪華なブレスレットが流行していたのですが、この宝石の換わりに、発明されたばかりの高価な懐中時計をつけてはどうかと、女王陛下が思し召したというわけです。エリザベスの女性らしい1面が良く現れている実話です。

しかし、誕生したばかりの懐中時計は、重量が1kg以上もありましたから、そう簡単にブレスレットに取りつけることは出来ませんでした。エリザベス女王のアイデアも、すぐには実現出来ず、将来の夢に終るしかありませんでした。何よりもまず、懐中時計の小型化が必要だったのです。

技術の進歩が小型化を進め、ブレスレットと懐中時計が結合した、今日の腕時計の元祖が誕生したのは、18世紀末から19世紀の初めにかけてのことでした。

記録に残っている範囲では、1806年に時のフランス皇帝ナポレオンの后、ジョゼフィーヌが、自分の娘(前夫との子)に2つのブレスレッドを送っていますが、その内の一つが時計付きのものだったと記されています。

この頃には、こうした装飾用の腕時計が作られるようになっていたのですが、この装飾用の腕時計は、全く人気が出ませんでした。19世紀はチョッキのポケットに忍ばせた、懐中時計の全盛期だったのです。

時間と時計 (29)

ではいったい腕時計は、どのような必要から急速に普及するようになったのでしょうか。これが、私は腕時計の普及の話しは嬉しくないと、示唆してきた理由そのものなのです。

腕時計を普及させたのは、近代の戦争でした。近代戦の特徴は、兵士の集団が違いに組織的に行動して戦う戦争です。広い前線に散開した兵士達を一斉に立ち上がらせ、攻撃に出るには、それまでは鐘や太鼓、ラッパなどの鳴り物を使っていました。

しかし、鳴り物は分かりやすいですし、味方の精神を鼓舞する効果もありますが、敵にも筒抜けになる弱点があります。銃器の発達した近代戦では、それこそ突撃した兵士は、敵側の銃弾の狙い撃ちに会ってしまいます。日露戦争を例にとると、両軍から仕掛けあった、遼陽と奉天の会戦を除くと、戦闘毎の死傷者数は、必ず攻勢に出たほうが受けて立った方に比べ、勝敗に関係なく必ず1,5倍から2倍の被害を受けているのです。

こうなると、攻勢に出る合図を鳴り物で知らせるのは控える必要がある。攻撃の開始時間をあらかじめ打ち合わせ、予定時刻に粛々と攻撃を開始するには、兵士全員とは言わないまでも、大隊長から小隊を指揮する軍長や伍長クラスにまで、時計を行き渡らせるならば、効果が出ます。

そしてこの場合、イチイチポケットを探して時計を見るよりも、身体の1部として、腕に巻いておく方が、ずっと便利だということになります。こうして近代の戦争が、腕時計普及の先鞭をつけたのです。

ヨーロッパの社会史の本などでは、腕時計の普及は、第1次世界大戦からだという説が、1時期主流になりましたが、現在ではもう少し早めても良いのではないかという、指摘が増えてきています。
                        
時間と時計 (30)

一般には、人気のなかった腕時計ですが、19世紀末には実用化されていたことは確かです。

1899年~1902年にかけて行なわれたボーア戦争(南アフリカ戦争と呼ばれることもありますが、オランダ系の土着した白人であるボーア人の国をイギリスが奪い取ろうとして起こした、白人同士の戦争です。白人と黒人の戦争ではありません)の最中に、イギリス人将校が腕時計をはめている写真が現存しています。この将校が、後にボーイ・スカウト運動の創始者となったベイデン・パウエルなものですから、写真が残されたのかもしれないのですが、ともかく証拠写真があるのです。

もう一例あげましょう。1898年の米西戦争(アメリカ対スペイン)で、キューバに侵攻したアメリカの義勇兵部隊の指揮官が、部隊と共に移した勝利の記念写真で、左手首に腕時計をしている写真があります。この人物こそ、日露戦争の講和を仲介したアメリカ大統領、セオドア・ローズヴェルトその人でした。

さて、ここに記したことは、隊長や将校の中に腕時計をしている者がいるという、事実しか証明してくれません。その腕時計の普及はいつか、どの国が最初に腕時計の普及に、先鞭をつけたかというと、どうやらそれは日本軍らしいのです。

1894~1895年における日清戦争の敗北は、中国の半植民地化、欧米列強への従属化を著しく進めました。その結果、特に中国華北一帯で、民衆の抵抗運動が草原に広がる野火のように、激しく燃え上がったのです。「義和団運動」と呼ばれる運動で、1899年から広がり始め、1900年6月には、北京や天津を占領、北京の各国公使館を包囲して、各国の外交官を人質に取ったのです。

英・仏・露・米・独・伊・日・墺の8ヶ国は、連合軍を派遣して、鎮圧するのですが、この戦争では、距離も近く、いち早く軍隊を派遣して、多くの犠牲を払いながらも、北京を解放して、各国外交団を救出した日本の活躍が目立ちました。

各国の新聞は、日本の活躍を称賛した特派員の現地報告を載せています。ここでは、ロンドン・タイムスの特派員の記事の1部に、腕時計のことが出てきますので、その部分のみを記します。

「日本兵は、伍長ですらも、腕時計・羅針儀・双眼鏡を携帯している。日本の砲兵隊も、補給隊も実に素晴らしいが、その日本軍の弱点は、騎兵隊の乗馬が貧弱で、劣ることである。」

いかがです。英国や米国の軍部では、将校のみが腕時計をしていたその時代に、日本軍では、伍長という兵卒に最も近い下級の下士官までもが、腕時計をしていたという事実です。

イギリスの敏腕新聞記者は、さすがにこの事実を見逃さなかったのですね。当時腕時計は高級品ですから、伍長が自ら時計を買うのは不可能です。明らかに軍によって支給された品、下士官の標準装備品とされていたと考えられるのです。

腕時計の普及に先鞭をつけたのは、どうやら日本だったようなのですね。

時間と時計 (31)

ところで、腕時計が市販されるようになるのは、第1次世界大戦後のことです。それゆえ、義和団事件当時の腕時計は、注文生産ということになります。小型の懐中時計にベルトをつけたり、自分で手首に巻けるようにしたのではないかと、考えられています。

義和団事件から4年後の1904(明治37)年に、日露戦争が始まります。この日露戦争の将校団の写真を見ると、前列の将校が全員腕時計をしていることが分かります。

大江志乃夫さんの『兵士達の日露戦争』に記された、兵士の家族宛ての手紙を見ると、やたらと時刻が出てきます。
「9日屯営を出発し、午後5時8分発車、6時夕食。翌10日午前5時29分大阪着朝食、11時30分姫路着昼食、午後4時55分岡山着夕食。…」とこんな調子です。

やたらと時間の記録が出ているのです。手紙の人物は二等兵卒ですから、軍による時間教育が徹底していたこと、そして彼自身出征の記念かもしれませんが、時計を持っていたに違いないことが読み取れます。

もう一つ、日露戦争の際に作られた軍歌、真下飛泉作詞の『戦友』の1節に次ぎのような歌詞があります。「ここは、お国を何百里…」のあの歌です。
「空しく冷えて 魂は 国へ帰った ポケットに 時計ばかりが コチコチと 動いているも 情けなや…」
戦死した友が持っていた時計は、懐中時計だったようですが、兵卒までもが時計を持ち、時間を正確に知ろうとしていたことが偲ばれます。

満州の荒野で敵弾に倒れた戦友が、懐中時計を持っていたのも、決して例外ではなかったのでしょう。だからこそ、戦友の詞は兵士達の心を打ち、長く歌い継がれることになった。そして時計の示す時間に、絶えず注意を払いながら、故郷へ手紙を書いていた。私は、このような情景を想像し、そこに日本の工業化が成功していった、一つのキイがあったように感じるのです。

時間と時計 (32)

思わず長くなってしまった、『時間と時計』のシリーズですが、終りの時を迎えました。

最後に教育論を展開した『エミール』や『社会契約論』でお馴染みのルソーを引き合いにだして、まとめに換えたいと思います。

ルソーの自伝的作品『告白』にこんな記述があります。この話しは、丸谷才一の『たった一人の反乱』でも、言及されています。

ルソーが宿泊していた下宿屋に、テレーズというお手伝いさんがいたのですが(彼女は後にルソーの終生の伴侶となります)、ルソーが彼女にいくら時計の読み方を教えても、ちっとも覚えず、最後にはルソーが教えるのを諦めてしまったという話です。そして、そういう女性をルソーが生涯の伴侶に選んだといういうことです。

次ぎに、その数年後、ルソーはテレーズを伴ってパリを去り、田舎で世捨て人のような生活に入ります。その時ルソーは、もう時刻を知る必要はないんだと思い、嬉しくなって舞いあがり、時計を売ってしまう話が記されています。

ルソーは、「時計を売った瞬間こそは、生涯における最も幸福な瞬間だった」と、記しています。当時の時間に縛られ始めていた、市民社会の規範に、ルソーが馴染めないものを感じていたに違いないことが、良く読み取れる一文です。

ルソーは、『社会契約論』等の著作で、市民社会の原理を説き明かしてくれたのですが、こうした市民社会に生きながら、一方で市民社会を嫌ってもいたのです。丸谷は、こう書いています。

「(ルソーは)市民であることを誇りとしながら、同時に市民である事を、逃れたいと願っていました。野蛮人の自然で素朴な状態に、熱烈に憧れていた彼にとって、時計の読めない、しかし美しくてやさしいテレーズは、野蛮人の美徳を保証するものに、他ならなかった。ルソーは自然的人間と市民的人間を対立させました。そして、……両者を何とか調和させようという企てに、生涯を費やしたのであります。」と、写真賞の授賞式の場を借りて、審査委員長に語らせています。

ルソーは1778年に生涯を終えています。ですからルソーは、機械に人間が縛られる、工場制度の存在は知らずに亡くなったのですが、おそらく時計に管理された社会の行く末を予測して、暗澹たる気分を持っていたのでしょう。

その後の時計による時間管理社会の到来については、記す必要はもうないと思います。私たちは、時計または時計の代用品から、ルソーのように完全に自由になる生活を望むことは、もはや出来ないように思いますが、時計に管理された生活の中に、どれだけ時計の束縛から自由な時間を確保していく事が出きるのか、皆さんと共に、』私も日々工夫を重ねて行きたいと考えています。
                   
ご愛読有難うございました。      


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