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ザビ神父の証言

ザビ神父の証言

第一次世界大戦(1)~(10)

第一次世界大戦(1)

開戦まで…1

6/28のクロニクルでサラエボ事件を、7/28のクロニクルでは、第一次世界大戦の開始を取り上げました。

その時は、フランス革命を継続していましたので、11月9日のクロニクルに大戦の終了を取り上げ、そこからは第一次世界大戦をしばらく続けてみようかと思っていました。1週間ずれてしまいましたが、今日から始めたいと思います。

オーストリアの皇位継承者夫妻が、ボスニアの首都サラエボで、セルビアの過激民族主義結社に属する青年に暗殺されたことは、オーストリア政府にとっても、セルビア政府にとっても誤算でした。

1912年の第一次バルカン戦争で,オスマン帝国から独立したばかりのバルカンの小国、セルビアにとって、オーストリア及びその後ろ盾のドイツと戦う備えはありません。ロシアの後ろ盾があっての国だからです。ロシアの全面支援の確証が得られない限り、強気になれないからです。

同じことはオーストリアにも言えました。セルビアと開戦すれば、ロシアが黙っているはずはない。こうオーストリア政府は考えます。自力でロシアと戦う実力がないことも分かっています。それゆえ、オーストリアも。ドイツの全面支援の確証が得られない限り、うかつにセルビアと開戦できないというジレンマを抱えていたのです。

開戦には、確かにそれなりの準備は必要です。しかし、サラエボ事件の当日、セルビアと接するボスニアで、オーストリアは大規模な軍事演習を行なっていたのです。攻撃準備は事実上出来ているに等しいのです。それなのに何故、開戦に1ヶ月も要したのか。この疑問の答えは、セルビアはロシアの支援を、オーストリアはドイツの支援を、共に必要とし、その確証を得るために、時間が必要だったからです。

ここに帝国主義時代の現実がありました。オーストリア、セルビア両国は、夫々がドイツとロシアに軍事的に従属し、両国の顔色を窺いながら敵対していたのです。

ロシアはセルビアに自制を促し、なるべく穏便に事を済ますよう勧めていました。しかし、ドイツが積極的にオーストリアを唆して,開戦に持ち込むこともあり得ると考え、三国協商を結んでいるフランスとイギリスに、開戦となった場合の支援を要請していました。そして開戦に備えて、独ソ国境への軍の移動を密かに進めていたのです。

ドイツは、開戦に積極的でした。セルビアとの開戦はロシアとフランスの参戦を招くだろう。しかし、両国となら戦って勝てる。こう自信まんまんに考えていたからです。

第一次世界大戦(2) 

ドイツの事情

ドイツは何故積極的だったのか。それには二つの事情がしてきされます。

先ず、第1に、1910年頃から、ドイツはその影響下に置いたはずの、バルカン半島やオスマン帝国領内においても、英仏資本の攻勢を受けて劣勢に陥り、欧州戦争という軍事的冒険に訴えることによってしか、局面が打開できないのではないかと、考えるところまで、追い詰められていたことです。

そしてこうして追い詰められたドイツにとって、幸運だったのは、フランスとロシアに対する軍備拡張競争で先行しているという、自身が持てたことでした。

当時1900年前後に完成した帝国主義時代において、資本主義列強と呼ばれた諸国(イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ドイツ、ロシアなど)の間では、植民地獲得競争の展開に欠かせない、軍備拡大競争が熾烈に行なわれており、各国は軍備拡大5ヵ年計画や3ヵ年計画を競い合っておりました。

この軍拡競争において特徴的なことは、軍の装備はその完了を持って効果を発揮するという点です。そして、軍拡が大型化するに連れ、計画も大型化し、そのため新たな計画は1年で完了しないことは勿論、3年でも不可能となり、基本的に5ヵ年計画になったことでした。これは、計画中の1年目や、3年目といった計画途上の段階では、部分的な装備の配備しか出来ず、期待する効果は半分はおろか、事実上ゼロに近いということを意味します。装備は全てが揃ってこそ効果を発揮するということです。

その点で、フランスやロシアより、当時は工業力で先行していたドイツは、有利な立場にありました。スパイ合戦も激しかった当時、各国の軍拡計画は事実上筒抜けであり、5ヵ年計画の完了時の軍事力には、さほどの開きがないことも、お互いの了解事項でした。

実をいうとここにドイツの強気の理由がありました。ドイツは表面上の5ケ年計画のスピードをはやめ、1914年夏の時点で完了していたのです。同じ計画をフランスが完了するのは、15年の春、ロシアのそれは16年春の予定でした。

ということは、1914年7月という時点をとれば、断然ドイツが有利な立場にあるのですが、この有利性には時間の制約があり、1年後には半減し、2年後には消滅してしまうのです。

ですから、14年夏という時点は、ドイツにとって撒き返しの絶好のチャンスだったのです。

ドイツはこうも考えていました。国土の広いロシアは軍の動員・結集に時間がかかる。おそらく開戦3ヶ月はロシアとの決戦を想定しなくて済むであろう。その3ヶ月の間に、短期戦でフランスを叩けば、フランスとロシアという2方面の作戦を強いられることはないであろうと。

短期決戦しか考えないドイツは、このように考えていました。ここには長期戦の備えが全くなかったこと、そしてイギリスの参戦が全く考えられていなかったことという、二つの点が特徴的でした。そしてこの点が、ドイツの大きな誤算だったのです。

第一次世界大戦(3) 

社会主義者の態度

迫り来る戦争の危機に対して、各国の社会主義者や反戦運動家はどうしていたのか。帝国主義列強の平和運動を一瞥しておくことにします。

帝国主義の成立による世界各地における植民地化の進展は、一方では帝国主義諸国による、植民地獲得競争を激化させます。そしてもう一方で、各国の政治指導者は、資本主義の発達による労働者階級の成長と労働運動の活発化に対処し、その急進化を食い止める必要を感じるようになります。

ここに、各国において、植民地利得の一部を財源として、労働者の社会改革要求に応え、植民地政策に対する労働者階級の支持を得ようとする方針が採られるようになります。こうして社会政策の推進と植民地の獲得がセットとして考えられるようになって行きます。

各国の社会主義者は、自国の植民地獲得のための行動を、積極的に支持するようになって行きます。勿論、他国の植民地戦争は非難しながら、自国の植民地戦争は社会政策を推進するものとして、肯定的に捉えます。ここでは植民地民衆の生活権は考慮されず、むしろ国内の帝国主義社の主張を鵜呑みにして、自国の「平和的な植民地政策」は、世界平和と植民地の進歩を促すものと、大真面目に考えるありさまでした。帝国主義国の被抑圧階級である自分達労働者と、植民地民衆との連帯という発想は、見事なまでに抜け落ちていました。

それゆえ、二つのバルカン戦争後、戦争の危機が深まりつつある中でも、各国の社会主義者の態度は、国際戦争という総論には反対で一致しても、自国の戦争への参加という各論に対しては、強く支持するという矛盾した態度を、平気で採る事が出来たのです。

例をあげると、バルカン戦争が世界戦争の危機を告げた1912年、第2インターナショナル(労働者及び労働運動の国際組織)はスイスのバーゼルで反戦特別大会を開き、各国の社会主義者に対し、反戦の行動を採るように強く訴えました。当時ヨーロッパで最大規模のマルクス主義政党となっていた、ドイツ社会民主党は、既にベルリンで大規模な反戦集会とデモを組織、実行しており、各国の社会党は、大戦開始までは平和を訴え続けたのでした。

しかし、開戦は状況を劇的に替えました。ドイツ社会民主党は、「生存と文化と自由のための国民戦争」と規定して、戦争遂行への協力を宣言、戦時公債の発行を容認したのです。他の国々の社会主義者も、祖国防衛を唱える拝外主義の陥穽に落ちていたのです。

イギリスとフランスの社会主義者は、ドイツの勝利はヨーロッパの自由と民主主義の崩壊に繋がると、考えていました。

こうして、社会主義者の多くは、国家主義的な考えに深く染まっており、帝国主義の侵略戦争に対する論理を築き得なかったのです。彼等は、帝国主義に対する、確固たる認識を欠いていたのです。そのため、社会主義の国際連帯は、ここにあっけなく崩れ去ったのです。

こうして、本来なら団結するべき、各国の労働者や農民達が、共に殺し合う戦争が始まったのです。それは、とても残念なことでした。

第一次世界大戦(4) 

ドイツの誤算

ドイツの強い支持を確認したオーストリアは、セルビアに最後通牒を突きつけます。7月23日午後6時のことでした。内容は、反オーストリア的であるとオーストリア政府が指定した官吏の罷免など、主権国家が絶対に飲めない内容が列挙されていました。しかも回答期限は2日後の25日午後6時。

これは、ドイツの支持の下に、ともかく戦争を始めようという態度でした。
25日、セルビア政府の譲歩案を一蹴したオーストリアは、駐セルビア大使を召還して国交を断絶。遂に28日、正式にセルビアに宣戦を布告しました。

オーストリアの態度が明確になった段階で、ロシアは総動員体制をとることに決し。29日から実行に移しました。ロシアの総動員令は、ドイツとの全面戦争を予定してのものであり、当然ドイツは反応します。

30日、ドイツはロシアに対し、ロシアが総動員を解除しない限り、ドイツも全陸軍を動員すると通告し、8月1日、両国は戦争状態に入りました。独・露の開戦は、独・仏の開戦に繋がりました。露仏同盟によるフランスの参戦を予想したドイツは、機先を制すべく、ロシアとの開戦翌日の2日には、対仏国境を越えて、フランス領に侵入を開始しました。この行動は3日の宣戦布告の1日前のことでした。

残されたのはイギリスでした。ドイツはイギリスの参戦を予想せず、参戦するにしても数ヶ月先と予想していました。しかし、イギリスはドイツの軍備拡大と膨張主義的傾向を危ぶみ、早い段階でドイツを叩いておくことの必要を感じていました。こう考えたイギリスは、戦線の拡大を見て、参戦を決意、国内世論を説得するために機会を窺い、ドイツがルクセンブルグを侵犯し、3日にはフランス攻撃のためにベルギーの中立を無視して、同国を占領したのを見ると、ベルギー救援を旗印として、4日にドイツに宣戦を布告したのでした。

イギリスの早い段階での参戦はドイツの誤算でした。7月28日の開戦から8日目にして、戦争はヨーロッパ規模の大戦争にまで、拡大したのです。

ドイツの誤算は他にもありました。

第一次世界大戦(5) 

ドイツの誤算…2

ドイツの誤算は、外にもありました。ロシア軍の動員のスピードが予想外に早かったことです。国土が広く、鉄道網の発達がなお不十分のロシアは、大軍の動員に手間取るだろうから、1ヶ月半~2ヶ月の短期戦で、フランスを撃破すれば、フランスとロシアに挟み撃ちにされ、2正面作戦を強いられる事もないし、イギリスの参戦を招く事もないと、ドイツは考えていたのです。

ロシア軍の素早い動員は、ドイツ軍部を慌てさせました。プロイセンに侵入したロシア軍との緒戦となった、8月末のタンネンベルクの戦いには勝利しましたが、敵を追撃する力はドイツ・オーストリア軍にはなく、なお続くロシア軍の攻勢に対し、辛うじて踏み止まっている状態に陥ったのです。

ドイツ軍にとって、幸いだったのは、軍需品が不足しがちなロシア軍と、英・仏軍の連絡がとれない状況にある事でした。

フランス軍の頑強な抵抗、ドイツ側に引けをとらない砲弾の量も誤算でした。フランスは緒戦で計画的な後退を遂げながら、北フランスのマルヌ河畔に頑強な抵抗線を敷き、9月5日から始まったマルヌの会戦において、ドイツ軍の攻勢を跳ね返します。

こうして、東部戦線においても、西部戦線においても戦争は膠着状態に入りました。予想もしなかった長期戦の様相が次第に強まっていったのです。ドイツの誤算はさらに続きます。

三国同盟の一翼を担っていたイタリアが、ドイツ・オーストリア側の形勢不利を読んで、早くも8月1日の時点で、「三国同盟は、防禦を主たる目的とする同盟であるから、オーストリアのセルビア攻撃に組することはできない」と宣言して、三国同盟を離脱、局外中立を宣言したことでした。

同盟の一郭が、戦いの開始時点で崩れていたのでした。 しかし、誤算は、連合国の側にもありました。

第一次世界大戦(6) 

日本の参戦

第一次世界大戦は、基本的にヨーロッパの戦争でした。黒海からカフカースにかけての一帯、バルカン半島からトランシルヴァニアにかけて、そして地中海から大西洋沿岸部にかけての海洋、これらが西部,東部の両戦線を補強する戦場でした。

そうしたヨーロッパの戦争を世界戦争に広げたのが、日本の参戦でした。日本は、トルコやイタリアよりも早く、8月14日に御前会議で参戦を決定、会戦から1ヶ月も経たない8月23日に、ドイツに対して宣戦を布告したのです。参戦理由には日英同盟があげられ、アジアにおけるイギリスの権益を脅かしかねない、赤道以北のドイツ植民地の兵力を一掃することとされました。

しかし、日清・日露の戦いを経て、次第に帝国主義国としての実力を磨きつつあった日本の真の狙いは、青島を中心とするドイツ領山東半島を奪う事、太平洋のドイツ領島嶼を奪う事であり、さらに列強がヨーロッパの戦争にかまけている隙に、中国での利権を拡大することにありました。

その証拠に、参戦後の日本は、英・仏・露三国からの再三の要請にもかかわらず、ヨーロッパの戦場に陸海軍の兵士を派遣することを、拒否し続けています。日本が重い腰をあげて、ヨーロッパの戦場に海軍の駆逐艦を派遣したのは、ようやく1917年の2月、アメリカの参戦の2ヶ月前のことでした。

ドイツの潜水艦による攻撃を避けるために、ジグザグのコースをとって進む輸送船の護衛には、太平洋という長大な海域を航海しうるように設計されている、航続距離の長い日本の駆逐艦が最適であるという懇請を、断りきれなくなったこと、見返りとして戦後に日本が山東半島並びにドイツ領南洋群島を領有することを認めるという、密約がなされたからでした。

因みに、この戦争で捕虜となったドイツ兵は徳島県の収容施設に送られました。現在その地にはドイツ村が建設されています。また、捕虜となったドイツ兵たちの即席オーケストラによって、この収容所で日本ではじめてのベートーベンの第9の演奏が行なわれたことも、良く知られています。

第一次世界大戦(7) 

総力戦へ

タンネンベルクの会戦と、マルヌの会戦を経て戦線は膠着しました。その最大の理由は、想像以上に消費された砲弾の不足にありました。

独仏両軍は、共に砲弾の1日当たり消費量を約2万発と計算し、野砲1門について、1300発標準として装備を進め、共に約50万発の砲弾を備蓄して、戦闘準備を整えていました。ところが、マルヌの会戦において、独仏両軍は共に用意した砲弾を撃ち尽し、なお勝敗の決着はつかなかったのです。

この戦いでの両軍の弾薬消費量は、僅か10日に満たない会戦において、既にして日露戦争の全過程における砲弾使用量を凌駕したと言われています。砲弾の不足が、マルヌの会戦の徹底遂行を不可能としたのです。当時の独仏両国の1日当たり砲弾製造能力は、1万3千発程度に過ぎなかったからです。

1週間で10万発に満たない砲弾製造能力では、再度の会戦に持ち込んでも、また不本意ながら途中で戦闘を中断するのやむなきに至るのは、火を見るより明らかでした。しばし、戦闘は中断し、軍需産業の生産力を飛躍的に高めることが必要になりました。

ここに、短期決戦で勝敗は決する。クリスマスは自宅で過ごせるといった楽観的な見通しは消え、長期戦を覚悟した準備が必要となりました。ここに軍需品の補給能力の優劣が、勝敗に大きく影響する形勢となったのです。

各国は、競って国家の機能を強化し、全国民を動員する、大規模な戦時統制経済体制を築き上げて、限りのある物資の効率利用をも心がけるようになっていきました。こうして国家の肥大化が、議会から行政府への権限委譲によって行なわれることになったのです。

この権限委譲で、イギリスでは早くも14年末までに、軍需省が設立され、ロイド・ジョージ大臣の下に、大戦終了の1918年には、職員65,000人、傘下の工場250を数える大組織に成長していたのです。ここには多くの実業家が職員として参加し、さらに労働組合もまた、軍需省の要請を受け入れ、戦争終了まで、ストライキを実施しないことを宣言するなどして、陸軍の要請をほぼ満たせる体制を整えることに成功したのです。

事情は、フランスやドイツでも同じでした。フランスでは開戦直後に物価統制令が敷かれ、17年には食糧供給省と燃料供給省が新設され、大きな権限をもって、流通を制御し、物資の流れを統括することに成功しました。ドイツでは、第ニ次大戦当時の日本と同じように、軍部が強大な権限を握り、陸軍省内に戦時原料局を新設して、戦時経済の切り盛りに当たったのです。

こうして戦闘が最高潮に達する1916年の段階では、両軍共に、1日平均で30万発を越える砲弾を製造するにいたるのですが、それでもなお十分な量ではなかったと、指摘されています。1916年に行なわれたヴェルダンやソンムの会戦では、両軍共に1週間に200万発以上の砲弾を消費したからです。

こうして戦闘は、国家の総力をかけた総力戦として、戦われることになったのでした。

第一次世界大戦(8)

新兵器の実験場

第一次世界大戦が、各国の威信をかけた総力戦となったことは、昨日記しました。そこで、各国は国の工業力、技術開発力の総力をあげて、新兵器の開発にいそしみました・

その意味では、第一次世界大戦は新型兵器の展示場、実験場の趣を呈しました。最初に考案されたのは、戦車(タンク)でした。膠着した戦線で、敵も味方も塹壕を掘って、砲撃を避けながら対峙します。しかも互いの塹壕は、相手方の砲撃を避けるために、近距離に接近します。そうなると短距離の戦闘に有利なのは、短い距離の空地や鉄条網を突破できる兵器です。キャタピラー式で、容易に塹壕を突破でき、かつ機体の重量で鉄条網を踏みにじることができる兵器として、イギリス軍が考案したのが戦車(タンク)でした。

毒ガスもまた第一次世界大戦の産物でした。ドイツ軍がベルギーのイープル市を攻撃する際に用いたのが最初ですが、風上からの利用が効果的でした。毒ガス兵器の使用は、国際法上は禁止されていたため、英仏はドイツの使用までは、自軍の方からは使わないと、決めていたのです。

ドイツ軍の使用開始を待って、英仏軍もまた毒ガスの使用を解禁しました、飛行機もまた戦場に投入されました。開戦当初は、航続距離が短く、敵陣の偵察程度がやっとでした。飛行技術も未熟のため、すれ違う敵軍の飛行機とハンカチを振り合って、挨拶を交わしたという記録も残っています。しかし、次第に航続距離が伸び、その結果飛行機は、地上戦に参加したり、直接
後方の都市や工業地帯を爆撃するようになって行きます。空襲の開始は1917年のことでした。

イギリス海軍に、北海と太平洋への出口を抑えられたドイツは、輸入物資の欠乏に苦しめられたため、海上輸送に活路を開くために、潜水艦を開発し、その潜水艦による無制限攻撃をしかけることをはじめました。

こうして戦車、毒ガス、飛行機、潜水艦と、主な大型新兵器だけでも、4種の新兵器が登場したのです。

第一次世界大戦(9) 

トルコの参戦

国の総力をあげて戦う総力戦においては、新兵器の開発競争のみでなく、外交戦もまた、表舞台に出ない密やかな舞台ながら、極めて激しく火花を散らして行なわれました。ドイツ・オーストリアの側には、オーストリアと同君連合を組む、ハンガリーが加わり、さらに第2次バルカン戦争でセルビアに敗れたブルガリアが加わりましたが、バクダッド鉄道の延伸などで、ドイツと親しい関係にある、トルコはなお逡巡していました。

日露戦争に敗れたロシアは、満州の地で不凍港を手に出来なくなり、どうしても黒海から地中海への出口に当たる、ダーダネルス・ボスフォラスの両海峡を押さえるしかなく、再びトルコへの圧力を強めていましたから、対抗上トルコが、益々ドイツに接近することは自然に見えました。

しかし、イギリスとフランスは諦めなかったのです。トルコがドイツ側に立って参戦することは、すなわち、アジアとヨーロッパの連絡通路である、スエズ運河の安全を大きく脅かすからです。このため、英・仏はトルコに局外中立を守るように働きかけ続けました。

トルコ内部では、親ドイツ派の力が強かったものの、戦争の帰趨を考えるとドイツにつく方が得策とは言いきれないため、親フランス派も侮り難い力を持っていました。そのため、英・仏の説得によって、トルコの参戦は、10月末まで引き伸ばされることになりました。

元々、トルコ陸軍はドイツ軍人を教官として訓練されており、8月以降トルコ海軍もドイツ人将官の指揮下におかれるようになりましたから、ドイツ側に立ってのトルコの参戦は、既定事実の感を持たれていたのです。それでも、トルコの参戦が10月末という、極東の国日本の参戦よりも、2か月以上も遅れたところに、外交戦の特質が隠されていました。

第一次世界大戦 (10) 

イタリアの参戦

熾烈な外交合戦は、イタリアを巡っても展開されました。

元来イタリアは、ドイツ、オーストリアと三国同盟を結び、ドイツ側に組していました。それはイギリス、フランス、ロシアの三国協商諸国と対立する関係にありました。

しかし、1861年のイタリア統一は、オーストリアハプスブルグ支配からの北・中部イタリアの独立がきっけけで、実現したものであり、ヴェネツィアに到っては、1866年の普墺戦争における、オーストリア敗北の間隙をついて、オーストリア支配を脱してイタリア王国への復帰を実現したものでした。その後も、アドリア海に近いイストリア、ダルマチア、チロルなどは、なおオーストリアの占領下にあり、未回収のイタリアとして、その地の回復はイタリアの悲願となってもおりました。

こういう事情がありましたから、オーストリアとイタリアの関係は常に波乱含みの状況にありました。そのイタリアがドイツに接近したのは、アルジェリアを制したフランスが、すぐ東のチュニジアに進出してきたため、イタリアの狙うリビア支配が脅かされることを畏れて、イタリアの側から接近を図ったものでした。

普仏戦争の勝利で、フランスからアルザスのほぼ全部とロレーヌ北部を奪ったビスマルクのドイツは、常にフランスの復讐を警戒しており、イタリアとの同盟は渡りに船でした。こうしてビスマルクは渋るオーストリアを説得して、1882年に三国同盟を結んだのです。

また地中海の両端、東のスエズと西のジブラルタルを抑え、イタリアにとって目と鼻の先のマルタ島に、海軍基地を要するイギリスとは、海軍力において雲泥の差があり、イギリスとの敵対は考えられない選択でした。

このため、イタリアは三国同盟に属しているとはいえ、常に一歩腰の引けた存在でした。オーストリアのセルビア攻撃が現実のものとなった時、イタリアは、「三国同盟は、本来防衛目的であり、先制攻撃を想定したものではないから、我が国には同盟の義務はないと考える」として、8月1日には、局外中立を宣言したのです。三国同盟には早くもほころびが生じたのです。

西部・東部の両戦線が膠着し、長期戦の様相が濃くなると、ドイツにとっては、少なくともイタリアに中立を守ってもらうことが、大きな関心事になってきます。逆に英・仏・露の連合にとっては、オーストリアとの間に領土紛争を抱えるイタリアを、自陣営に加えることが大きな利益になってきます。

戦争の拡大を見たイタリアは、未回収のイタリアを、回復する絶好のチャンスと考え、15年4月26日英・仏・露三国とロンドン秘密協定を結びます。こうして75万人の兵力を持つイタリアもまた協商側に立って、参戦することになりました。

イタリア国内の中立派=非戦派は、参戦に反対したため、議会は紛糾したのですが、国内には悲願の「未回収のイタリア」の回復に、ようやく展望が開けたとする、参戦派が多数を占めており、好戦的な世論に押されて、イタリアは5月23日、先ずオーストリアに宣戦を布告、ついでドイツ、トルコとも国交を断絶、両国とも戦争状態に入りました。


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