カテゴリ:日本史
クロニクル 四国連合艦隊下関砲撃
1864(文久4)年8月5日 この日、英・仏・米・蘭、四国の連合艦隊が、長州藩の下関砲台を砲撃、僅か1時間の戦いで圧勝する、圧倒的な戦力差を見せつけたのでした。 この砲撃は、前年の5,6月に、長州藩内の尊皇攘夷派の久坂玄瑞らが、幕府が朝廷に約した期限が来たことを背景に、実際に攘夷を実行しようとして、決行したものでした。 この理不尽を怒った四国は、イギリス公使オールコックを中心に計画を練り、準備をすすめたのですが、藩命で密かに英国留学の旅に出ていた、伊藤俊介(博文)と井上聞太(馨)の2名が、この情報を得て、ロンドンから大急ぎで帰国し、オールコックに、藩説得のための、しばしの猶予を願い出たのです。オールコックは申し出を喜びましたが、二人の説得も藩内の保守派 には、届きませんでした。 こうして、四国連合艦隊は、17艘の艦船に5000名の兵士を積んで出航したのです。長州藩の久坂ら尊皇攘夷派は、ほとんど何も出来ずに終りました。武士の軍隊が全く役に立たない事がここに明らかになりました。 そして、この戦い以後、長州藩も、欧米列強と戦う無謀を避け、開国へと、大きな路線転換に、踏み込んで行く事になりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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和議の交渉を任されたのですが、『領土の期限付租借』には頑として応じませんでした。これは清国の見聞を経て来た 高杉の「決して譲ってはいけない結論」でした。
(2008.08.05 07:13:24)
でぶじゅぺ理さん
>和議の交渉を任されたのですが、『領土の期限付租借』には頑として応じませんでした。これは清国の見聞を経て来た 高杉の「決して譲ってはいけない結論」でした。 ----- そうでしたね。上海の租界で、「犬と中国人はいるべからず」の立て札を見て,決意したと中学時代に教えられました。立て札はともかく,雰囲気はそうだったのでしょうね。 ザビ (2008.08.05 09:19:12)
ポンちゃん50さん
>こんにちは^^! >欧米列強連合艦隊に目を覚まさせられた? >鎖国をしていた日本が如何に世界に遅れをとっているかを実感したことでしょうね~^^。。 ----- 高杉晋作が、農民や職人、商人らで編成した奇兵隊を編成するのも、これ以後です。 ザビ (2008.08.05 15:58:48)
映画を春に見ましたが、そこでも
帰国の話があり、もし彼らがそのまま 英国に残っていたら、産業などでの 立役者になっていたのかな~?などと 思いました。人には、その人にしか 出来ない役割が、目立たなくってもありそうです (2008.08.05 17:15:33)
夢穂さん
>映画を春に見ましたが、そこでも >帰国の話があり、もし彼らがそのまま >英国に残っていたら、産業などでの >立役者になっていたのかな~?などと >思いました。人には、その人にしか >出来ない役割が、目立たなくってもありそうです ----- この2人、政治家として大成しますから、帰ってよかったのだと思います。5人の密航に、藩は大金を投じ、彼等も苦労して、英国に渡っているのですが、それでも、瞬時に帰る決断をした。このあたりの判断力、慧眼はさすがだと、思います。 ザビ (2008.08.05 20:59:23) |
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