カテゴリ:戦争と人間
クロニクル 興安丸舞鶴へ 中国大陸からの引揚げは、一応1946年中に完了したことになっていましたが、なお数万人に及ぶ旧軍人や民間人が残留していると見られていました。 ところが、社会主義の中華人民共和国が成立。敗北した国民党が台湾に亡命政府を組織して、中国の正統政府を主張し、米国がこの台湾政府を支持・後援し、日本政府もそれにならったことなどから、大陸中国と日本との関係は断絶、残留日本人の帰還事業は暗誦に乗り上げてしまったのです。 この事態に、日本赤十字社と中国紅十字会という民間同士の話し合いという形をとり、人道的見地による解決が測られ、交渉には長い時間がかかりましたが、この日ようやく第1回の帰国に漕ぎつけたのです。 第2陣の高砂丸も夕刻、1959人の引揚げ者を乗せ舞鶴に入港しました。舞鶴港はソ連のナホトカからの引揚げ者の入港地でもあり、興安丸はソ連からの引揚げ者の運搬船でもありました。 中国からの引揚げ者は、ソ連からの引揚げ者に比べ顔色も良く、元気そうでしたが、中国での生活については,固く口を閉ざして語ろうとはしなかったと、記録されています。 「きょうも暮行く、異国の丘に、友よ辛かろ、せつなかろ...」と歌われる『異国の丘』はロシアに抑留された仲間の兵士をしのぶ曲ですが、中国からの引揚げ者の間でも、瞬く間に口ずさまれるようになったそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[戦争と人間] カテゴリの最新記事
今晩は。
北朝鮮から密航船で南鮮に脱出して、日本の仙崎港にアメリカの大きな上陸用舟艇で帰りました。 興安丸は確か昭和25年頃と思いますが、利尻島の鴛泊港沖に停泊していたのを記憶しています。 (2017.03.23 22:05:40)
ごちそさんの再放送をして
いますが、満州に行った旦那さん まだ帰ってきませんよね。終戦の 年の春に満州に渡った阿智村の 人たち。死にいったようなもの です。たくさんの子供たちも居ました 上の人が沢山、開拓団に送ると出世が 出来るからと熱心だったと説明にありました あと絹産業の低迷(長野県) (2017.03.24 08:22:58)
国同士が、断絶状態であろうとも、どこかにつながれる部分を、残しておくことが、本当に、大切なことだなぁ~、と、思います~。
(2017.03.24 10:03:49)
ロシアは過酷だったのですね~。想像するだけで心痛くなりますね。運命というにはひどすぎます。
(2017.03.24 19:11:47)
トンカツ1188さん
>こんばんは > >舞鶴は 引揚者の メッカでしたね > >この当時小学生 実感はないですが > >岸壁に第一歩を踏み出した 引揚者 > >感無量だったと思います ----- 子ども心に、興安丸の名と舞鶴の名はしっかり覚えましたね。漢字を含めて… (2017.03.25 21:50:25)
宗谷のアザラシさん
>今晩は。 >北朝鮮から密航船で南鮮に脱出して、日本の仙崎港にアメリカの大きな上陸用舟艇で帰りました。 >興安丸は確か昭和25年頃と思いますが、利尻島の鴛泊港沖に停泊していたのを記憶しています。 > ----- そうでしたか。仙崎というと、山口県、 萩の近くですね。 (2017.03.25 21:51:56)
夢穂さん
>ごちそさんの再放送をして >いますが、満州に行った旦那さん >まだ帰ってきませんよね。終戦の >年の春に満州に渡った阿智村の >人たち。死にいったようなもの >です。たくさんの子供たちも居ました > >上の人が沢山、開拓団に送ると出世が >出来るからと熱心だったと説明にありました >あと絹産業の低迷(長野県) ----- 満蒙開拓団、特に長野県の人たちが大勢送りこまれたようですね。 あちらに渡れば、広い農地を耕せると… 実際は、とんでもない荒地で、しかも寒くて…だったと。 (2017.03.25 21:54:26)
わからんtin1951さん
>国同士が、断絶状態であろうとも、どこかにつながれる部分を、残しておくことが、本当に、大切なことだなぁ~、と、思います~。 ----- 口喧嘩は国同士が勝手にやれば良い。民間はそんな喧嘩に付き合う必要はないですね。日露、日中、日韓、いずれにおいても… (2017.03.25 21:56:43)
nik-oさん
>ロシアは過酷だったのですね~。想像するだけで心痛くなりますね。運命というにはひどすぎます。 ----- 特に、満蒙地帯、民間人には残れ、留まれと命じておいて、軍人が先に列車で逃げ出したというのですから、ひどすぎます。 (2017.03.25 21:58:41) |
|