8月9日の日記に替えて
8月9日、長崎原爆忌です。米国では、日本への原爆投下を肯定的に捉え、「原爆投下が日本の降伏を早め、
結果として多数の日本人の命を救った」との主張が、幅を利かせています。驚くべきは、日本の保守系政治家の中にも、この主張を肯定的に捉える勢力が存在すること、そして有識者の中にも、そのような捉え方が一定程度存在することです。
しかし、果たしてこの主張は正しいのでしょうか。戦後75年、ポツダム宣言発表後のはぼ20日間の郡部を含む日本の指導層の動きは、米国に残された機密文書(日本国内では、未だに開示されない文書があるのですが)、同じ文書でも米国側に保存された文書は、読むことが出来ます。これも妙な話なのですが…
実は、8月9日から、にわかに昭和天皇が、戦争の終結に向けて積極的に動き出したことは知られていました。ポツダム宣言の受諾については、天皇が渋る軍部を押し切ったことが事実として残るのですが、問題は、なぜ突然天皇が、今までの沈黙を破って(沈黙は、軍部と政府の戦争継続派に対する暗黙の支持を意味します)、動き出したのかにあります。
当時、内大臣(内相)の地位にあり、天皇を補佐する立場から、毎日のように天皇に会い、内外の情勢を伝えて、お言葉を頂戴していた木戸孝一が、日々のいきさつを日記に書き残しています。有名な『木戸孝一日記』です。その8月9日の項に、次のような記載があります。
8月9日朝、天皇に呼ばれた。9時55分から10時までの5分間の短い会話の中で、天皇は「ソ連が我が国に宣戦し、本日から交戦状態に入った。ついては、戦いの収拾について、急いで研究し、決定する必要があると思うので、鈴木首相と十分話し合っておくように…」と話されたというのです。
天皇の意を受けた木戸は、直後に鈴木首相に面会し、天皇のお言葉を伝えるとともに、速やかに「ポツダム宣言を利用して、戦争を終結に導く必要がある」と力説します。油症は、最高戦争指導者会議を開いて、日本の取るべき態度を決定したいと応じたといいます。
ここに日本の指導部の一部が、戦争終結に向けて動き出したことが分かります。
広島への原爆投下では動かなかった天皇と、天皇支持勢力が、ソ連参戦を受けて動き出したことが分かります。距離的に日本に近く、ソ連極東の軍港ウラジオストークは、北海道や東北の日本海側は、指呼の距離です。備えの不十分な本土にソ連軍が上陸するなら、もはや天皇制の維持は難しい。ソ連はロマノフ朝の皇帝一家を子どもを含め皆殺しにしています。ソ連占領下では、自分の退位ぐらいでは済まない。天皇制は滅び去るに違いない。昭和天皇は、対米交渉ならば、自らの退位と戦争の手あかのついていない皇太子への譲位程度で済ますことが出来ると考えていたのでしょう。ソ連の参戦でがらりと態度を変え、戦争の終結に向けて走り出したのです。
原爆のインパクトは、日本国民には大きく影響したのでしょうが、天皇に近い指導層へのインパクトは、ソ連参戦の方が、はるかに大きかったのです。
明日に続きます。