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2005/07/19
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カテゴリ:雑感エッセイ
 夏休み前は忙しい時期です。また更新できずに気がついたら三日経ってしまいました。わざわざおいで下さった皆さんには申し訳ありませんでした。今日は楽天ブログ内に新しいテーマを投稿しました。「教育と競争についてどう考えるか」です。

 以前に、「何のために学ぶのか」というテーマで記事を書きましたが、自分の中では双子のテーマであると考えています。「何のために学ぶのか」については既に大まかな枠作りは終えたと自分の中では決着がついているのですが、こちらは山登りに例えれば5合目といったくらいでしょうか。

さて、今日は取っ掛かりのお話です。 

 かつて塾で中学受験クラスを担当する打ち合わせの席上、上司から「子どもをかわいそうだと思うな。」と言われたことがあります。もちろん、合格に向けての学習指導をするわけですし、それでお給料を頂いているので仕事として当然のことなのかもしれません。

 しかし、中学受験のあと、第一志望校に合格したバーンアウト(燃え尽き)が原因だったと思うのですが、学業に興味をなくし不登校に陥っていたお子さんの家庭教師をさせていただく経験が学生時代に既に2件ありました。

 そんなこともあって心の中にわだかまりがずっとありました。学校には定員というものがある以上、志望者が多ければ当然不合格者が出ます。試験に落ちるというのは誰にとっても快いものではありませんね。勝ち抜いて合格したはずの子どもが入学後、学業に興味を失うことがあるのだとしたら何のための受験勉強なのでしょうか。

 受験クラスを受け持っていると、たまたまその教科が苦手な子が新たに入ってきたとき、子どもたちの中にこんなことも知らないのっていう雰囲気が生まれることが少なからずあります。実際、地域教室で学んでいて本部のクラスには行きたくないという子が本部は怖いからという感想を持っていることがありました。雰囲気で済めばいい方で、できないことをはやし立てる子もいたりします。へたをするとわからない子に教えるのはライバルを増やすだけだから損だ、あるいはできる子に対して、あいつは塾をやめてくれればいい、そうしたら自分の順位があがるとまで口走る子が出てきたりします。切磋琢磨とは言いますが、その辺は子どもは残酷です。

 逆に、自分のできなさ加減を隠さざるを得ないということになって、答えが間違っていても丸をつけていたり、消しゴムで消しては正解を家で考えついていたかのようなノートに仕立て上げてしまう子が出てきます。こちらも気をつけていないと、普段は答えが書けているように見えても実は全然力がついていなかったりする子が出てくるので要注意です。講師は子どもの力を伸ばすことに腐心するのですが、テストの結果をフィードバックしているうちに、テストで評価されることにネガティブな価値観を教え込んでしまっていることが往々にしてあります。受験勉強を通じて子どもの学ぶ意欲をつぶすつもりはないはずなのに、受験情報やテスト結果をわたすうちに、知らず知らず、そうした隠れたネガティブな価値観を子どもに伝えてしまっていることがあります。

 これは、自由競争が最善の結果を生むといった経済学の理論がそのまま教育に当てはめられるものではないということを表しているだろうと思うのです。経済学上、自由競争によって市場全体は健全化することがあるのかもしれませんが、個々の子どもの人生や学ぶことの価値づけを考えると、教育に競争原理をと単純には割り切れないのです。もし、その敗者がわが子だったら、家族だったらと考えるとあまり人事だとはいえない気がします。ペーパーテストの得点を競うことによって個人の能力が伸びるように見えて、実は個人が他者と関わって課題を解決するという能力の芽を潰すという側面があることは見逃してはいけないだろうと思うのです。

 たぶん、人づくりということでもそうだろうと思います。集団は優秀な個人の力を欲する余り、競争を導入することがありますが、管理手段としての競争主義は、結局、集団が一部の個人の能力に依存し、能力のない人だとのレッテルを固定化してしまう一方、能力があるとされた人がいなくなったときに集団にはノウハウが何も残らないということになってしまうと思います。集団内での競争が厳しくなればなるほど、自分のノウハウなど人に公開しませんもの。一般企業のみならず、学習塾の講師育成もそうなのかも知れません。

 話がずれてしまいました。私がかつて中学受験で1年間受け持った子で、ずっと塾内1位を通していたのですが、授業中、講師攻撃の激しい子がいました。少しでも板書の書き損じや言い間違いをしようものなら罵詈雑言、またほかの子の珍解答も許せなかったのでしょう、随分不寛容な発言をする指導の難しい子でした。

おかげで勉強になりましたが、ある時、個人面談をする機会があって何でずっと1位を通せているのかほかの子の参考にしたいからと話をする機会がありました。とつとつと話してくれたことには、どんなテストでも90点以上でなければ父親に殴られるというのです。お父さんは大きな病院の経営者で、お兄さんも中学受験をし、医師を目指していました。小学校6年生でその双肩に重い課題が課せられているということがわかって言葉が出ませんでした。そして、その子の不寛容な態度のわけが分かって私の側の対応にも少し含みが生まれたのでしょうか、彼自身もホントに厳しいことは言わなくなっていったように思います。彼自身が青年期になってもう一度、医者としての適性やアイデンティティの立て直しの課題をうまく乗り越えられるように願わずにいられませんでした。

 子どもたちは、合格して入学後もさらに進学を考えたら、1学年300名なら1位から300位迄、順位をつけられるわけで、競争にはキリがありません。

 そこで子どもたちには言うのです。「入学後にあなたの隣に座るのはあなたと同じくらい賢い子です。ほんのちょっとした努力の違いがまた順位の違いを生みます。それでずっと勝ち抜いていけなどとは言うつもりはありません。人と比べて自分を測ることばかりに関心を向けるのではなくて、自分自身が教科書や本に書かれている知識や真理と向き合う態度でいなければ、今やっていることは何ら役にたちません。もし、できる子だと認められたくて勉強しているのであれば、もしかしたら入学後は思ったように順位を取ることができなくてそうは見てもらえないかもしれない。お父さんお母さんを喜ばせたくて勉強しているのであれば、入学後はそれはできなくなるかも知れない。まず自分の目標とする自己最高の結果が出せること、自分に課せられている課題に正面から向き合うこと、そのために仲間と協力しあうことも大切であること。自分で学んだことをほかの人に役立ててもらうという感覚は大事です。結局、頭はいいけど使えない大人ってそういう学び方をしてきてしまったからではないのだろうか。大人になってから周りの人を説得したり、周りの人から学んだり、あるいは後輩を指導したりなんてできなくなってしまうのではないだろうか。」なんて説教クサいことを話したりすることがあります。

 私立の名門K大学の大学生協では赤本が売られているとかつて聞いたことがあります。たぶん今でもそうなのではないでしょうか。たとえ最高峰とされる東大に入ったとしてもさらにその中で学科分属の振り分けがあり、官僚を目指す人はさらに所属官庁の内定の取り合い…。結局どこまで行っても勝者は一握り。いや、本当は勝ち続ける勝者などは存在しないのかもしれません。

 私の周りにいた人たちは、いろんな選択をする人がいました。大学には行かずに大卒以上の英語力を身につけ翻訳の仕事をしている人。決して一流官庁と言われてはいなかった当時の環境庁(現環境省)に入りたいと東大に進み、見事、夢を実現した人がいるかと思えば、通産省キャリアと地方公務員の両方に合格して、あえて地方公務員を選択した友人もいます。そのまま会社に残っていれば重役クラスまでいけそうなくらい優秀なのに会社を辞めてしまった人。直近では、講師で学生さんですが、情報科学の修士号まで取れそうなのに、医学部受験を決意し合格した人、逆に医学部に在籍しながら塾の仕事の面白さに取りつかれ医師と塾講師との進路選択を真剣に悩んでいる人もいます。

 そういう世間一般の価値観とは相容れない、リアルな選択が人生にはあるのだということは年をとってから分かるようになりました。

 どうしてこんなことを書く気になったかというと、「ドラゴン桜」をビデオに撮って見たせいでしょうか。あまりに短絡的に東大を目指せというのが好かない感じがしました。東大に入りさえすれば何でも道は開けるなんて人生そんな単純なものではないでしょう???

 英語なら東京外国語大の英米の方が難しいでしょ。外大以外にも日本には一流とされる専門大学や伝統のある地域の大学、日本にはそこしかない特色のある大学がいくらもあります。そういう大学ではなくて、なぜ東大なのかわからないのです。単にその方が分かりやすいから。ただそれだけではないのかと訝(いぶか)しく思うのです。「立身・苦学・出世」といった古くからの学歴信仰のテーマがそのまま残っている感じがします。ホントに学問をしたいなら浪人などしないで地域の大学でしっかり学んでから東大大学院へでも入る方がずっと簡単です。そういう手もあるでしょう。東大大学院って外部出身者が結構いることは案外知られていないのでしょうか。

 自分にとっての東大、いや、東大という言葉すら使いたくない気になりますが、自分にとっての最高の目標というものがあるでしょう。プロ野球選手になることの方が東大に行くよりずっと難しかったりするのですから。それに第2回の放送で紙幣を破るシーンがありましたが、大の弁護士なら貨幣損傷は罪になるって知っているはずだからあんなことはしないと思ったりして見ていました。(最後は余分ですね。)

 メーテルリンクに出てくる幸せの「青い鳥」の正体は「鳩」だったと言います。求め続けたものが結局身近にいる「鳩」だったという例えから、学ぶ上で競争をするにも、もっと身近な所から、もう少し地に足をつけて「学び」を考えた方がよいだろうと疑念を述べておくことにします。

 今日から、競争と教育を書き始めてみました。これは前回の「何のために学ぶのか」を書いたときほど私の中で明確な形を持っていません。思いついたまま少し書き残しておこうと考えたのです。論点が整理されていない分、今まで以上に思い込みの強いことを書いてしまうかもしれません。これまたどうなりますことやら。3日分まとめたので長くなってしまいました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。あまり興奮せずに筆を進めれれたら幸いです。

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Last updated  2005/07/19 11:57:32 PM

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