カテゴリ:震災・原発
先日、広島県出身の父から、終戦直後の貴重な話を聞きました。
昭和20年8月9日、世界で初めて原爆が投下された広島市--。
そのとき、父は中学生で疎開していました。
しばらくして、父は広島市に戻り、生活を始めましたが、当時は一面瓦礫の焼け野原。
その光景は、今回の「東日本大震災」被災地の状況と酷似、いなもっとひどい状態だったそうです。
私が、「広島はどうやって今のように復興したのかなぁ」と尋ねたら、父はこう語ってくれました。
「“屋台”じゃよ・・・・・そう、広島の奇跡の復活のスタートは、“屋台”から始まったんじゃ」
父の話によると、当時は、広島市内のいたるところに、“屋台”がいっぱい立ち並んでいたそうです。
原爆から生き残った広島の人々は、家も仕事も、なにもかもなくしましたが、それでもなんとかして自分たちで生きてゆかねばなりません。
国や自治体からの援助とか、全国からの支援とか・・・・まったくありません。あたりまえです。
日本という国家自体が“敗戦”で壊滅したのですから。
それでも生きなければいけない。そのためには、たとえ商売するための「建物」がなかろうと、とりあえず簡素な“屋台”を出して、ものを売ったり、食堂をしたり、飲み屋をやったりし始めたそうです。
父は語ります。 「屋台で食べたお好み焼き、ありゃあもう最高に美味しかったんじゃ。周りは焼け野原じゃけんど、屋台にみんなが集まって、ワイワイにぎやかに・・・・そりゃーもう楽しかったわい」
そして、次の話が重要だと思いました。
「 ところがなぁ、だんだん時間が経つうちに、屋台をやっていた店がビルを建てて、ちゃんとした店を構えるようになったんじゃよ。そうしたら、いつのまにか、街がどんどん変わっていったなぁ・・・」
つまり、こういうことです。
原爆投下で壊滅した街・広島で、人々は、何の援助もなしに、なにはともあれ「屋台 で経済活動」をすぐに始めた--途方にくれて、立ち止まっている場合じゃない、生きるために必死で“行動”を開始した。
店の形は「ボロな屋台」でも、そこで経済がグングン回転していけば、お金をもうけた人は、自然と家を建てたり、ビルを建てたりしていけます。
広島市でお金が増えていけば、道路を整備したり、学校や病院を建てたりと、経済の活性化に比例して急速に、街は再生していったのです。
現在の広島市のにぎやかな大都市の姿、美しい街の景観を見て、ここがかつて原爆投下という人類にとって最大の悲劇を受けた場所であると誰が想像できるでしょうか!
まさに奇跡の復興を成し遂げたのです!
親子の会話、最後に父はこう語ってしめくくりました。
「3.11の大震災でも、とにかく“屋台”を開くといいんじゃよ。屋台で商売をし始めたら、必ず復興はできるんじゃが・・・・わしはそれを政治家たちに言いたいんじゃよ」
私は、この父の体験を聞いて、その通りだと思うと同時に、東北の震災復興の足かせになっているのは、実はさまざまな「規制」「法律」、つまり国の側じゃないか、と感じました。
終戦直後の状況と現在の状況は、あらゆる面で天地雲泥の差があります。
しかし、あまりに高度な文明社会になったがゆえに、復興を願う庶民が、がんじがらめに縛られてしまっている・・・・
逆に昭和の終戦直後は、ややこしい規制や法律なんかなかった。まさに自由奔放、「生きるため」ならなんでもあり・・・・国から何の援助もないかわりに、地元の市民が、自分たちで自分たちの街を、ものすごい生命力で築き上げていったのです。
まさに、「庶民の力」おそるべし--
以上、東日本大震災の復興を願う一人として、父の広島復興の体験を記させていただきました。
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最終更新日
2011年11月13日 17時29分25秒
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