2007/01/17(水)11:59
震災と救急医療
1/17 奇しくも本日は阪神大震災(確か当時は阪神淡路といっていた記憶があるのだが・・・)から12年目の1/17日である。
この震災を私は直接に体験をしたわけではない。
しかし、この震災は私が生きていた中で生の震災情報として入るもっと身近な災害であった。
多くの人命が失われ、多くの人に傷痕を残し、今も影響を与え続けている。
もちろんなかったことにできるような代物ではない。
記憶としてで止め、乗り越えるべき体験なのだろう。
それは疾病に似ている。
医は人を治し、
政治は国を治す
よく言ったものだと思う。
では、国は何をしたのか?よく言われることだ。
様々な意見がある。ここ数日の記事を読んでいて思うことがある。
『救助する側もまた人命を危険に晒していることを忘れてはならない。』
消防隊員、とくにレスキューと呼ばれる人たちのなかでは必ず言われることだそうだが、『隊員一人が生きて帰ってきたのならそれだけで要救助者一名確保』だそうだ。
人のために役に立とうとすること、人の命を助けること・・・それ自体は確かに素晴らしい行為ではある。だが、そのために命を投げ出すというのは違う話だし、そもそも『生きて帰ってくる覚悟がなければ行くな』と言いたい人がいることを忘れてはならない。
立場が異なれば視点が異なる。現地の人が確かに一刻も早い救援を期待しているのは事実としてあるだろう。一方で一刻も早く駆けつけてあげたいと言う救助活動を行うものの気持ちもある。そしてそういうはやる気持ちを抱える一方で、送り込む側として『生きて帰って来い』という安全確保の視点がある。
問題はそういったことを『判断』できるかである。
これも一種の『トリアージュ』(優先順位をつけた治療)であろう。
すべてを救いたいそういう気持ちがある一方で、救える可能性が高いものから救っていく緊急救命の難しさ。なかなか折り合いが付けることは難しいだろう。
さて、そんなとき自分は優先順位をつけた判断ができるだろうか?
こんな日はそういうことを考えるのもいいのかもしれない。
私は今、旅行などに行く際もできるだけ治療用具を持っていくことにしている。そんなに頻度があることではないがたまに役に立つことがあるからだ。これ十分とは思わないが、これもまた一つの危機管理だと思いたい。
今回は治療そのものとは関係ないので末尾に恒例の治療院へのリンクは付けません。
『泰心堂』で検索してくださいね。