■ジャズの歴史(その7)■February 3, 2007■History of Jazz ジャズの歴史(その7)■ ●ニューオリンズからシカゴへ アメリカは植民地から独立したという背景から、 ヨーロッパでの争いごとには関しては介入しないという立場をとってきました。 しかし、1914年、サライェヴォ事件(サラエボ事件)をきっかけに始まった第一次世界大戦では、 最初はこの姿勢を守っていましたが、イギリスとフランスに10億ドルの貸付があったアメリカ政府は、 同じくイギリスとフランスに30億ドルの兵器を売り込んでいたモルガン財閥の助言を受けて参戦に傾いていきます。 1915年、ニューヨークからイギリスに向かった客船ルシタニア号がドイツの潜水艦Uボートに撃沈されます。 死亡した1198人のなかに128人のアメリカ人が含まれていたことを理由に、 1917年、アメリカはドイツを相手に「民主主義を守るための戦争」を開始しました。 アメリカが参戦することになったため、ニューオリンズは軍港になったことや、 アメリカ全土に広まった粛清(しゅくせい)の気運などから、 公娼(こうしょう)制度(売春)が廃止となり、売春宿が立ち並ぶ公娼街のストーリーヴィルは閉鎖されました。 ヨーロッパの内紛に端を発した第一次世界大戦は、その後の世界の勢力バランスを大きく変えることになりました。 ヨーロッパの大国はそれまで蓄えてきた財産をほとんど使ってしまい、経済的にも大きな打撃を受けました。 ところがアメリカはその逆で、 戦争前は世界最大の債務国だったものが、戦争が終わると世界最大の債権国になっていました。 輸出は戦前の4倍になり、それはイギリスの1.5倍、 金保有量も世界の半分近くを占めるようになり、工業生産力は全ヨーロッパに匹敵するほどまでに高まりました。 1918年に戦争は終結し、アメリカ国内は好景気にわいていましたが、 ストーリーヴィルはすでに閉鎖されてしまいました。 それまでストーリーヴィルで演奏をしていた、行き場を失った多くのミュージシャンたちは、 周辺の活気のある町へ仕事を求めて移動していきました。 ニューオリンズからミシシッピ川を北上したところに位置するイリノイ州シカゴ。 シカゴは大戦中に工業が急速に発達し、安い労働力である南部の黒人を大量に必要としていました。 ニューオリンズで職場を失った多くのミュージシャンもまた、人々が移っていったシカゴを目指しました。 シカゴは、中西部の拠点として大きく発達しましたが、19世紀の初頭まではまだなにもない土地でした。 それが1948年のイリノイ・ミシガン運河、1952年のイリノイ・セントラル鉄道の開通によって、 東部工業地帯と西部農業地帯を結ぶ水陸交通の要所になり、またたく間にアメリカを代表する大都市になりました。 1863年の「奴隷解放宣言」によって自由になったものの、働き口のない人々を受け入れたのは、 シカゴ周辺から、東海岸にかけての北東部地帯の都市でした。 南北戦争が奴隷制度の廃止をめぐるものだったことのように、 南部と北部とではアフリカン・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)に対する意識が違っていました。 北部のアフリカン・アメリカンは、比較的早い時期から差別の少ない状況で地位を向上させていましたが、 南部のアフリカン・アメリカンたちは、解放されたものの意識の中では臆していました。 すでに大都市になっていたニューヨークよりも、新興都市であるシカゴのほうが、 南部のニューオリンズのアフリカン・アメリカンの人々にとっては、居心地の良さを感じていたようです。 こうしてニューオリンズの音楽は、徐々にシカゴの地に受け継がれていきました。 Last updated April 4, 2008 ■History of Jazz ジャズの歴史(その6)■ ■History of Jazz ジャズの歴史(その8)■ ![]() 【ジャズ】人気blogランキングへ ジャンル別一覧
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