■ジャズの歴史(その9)■February 5, 2007■History of Jazz ジャズの歴史(その9)■ ●ニューオリンズ・ジャズとディキシーランド・ジャズ ニューオリンズ・ジャズとディキシーランド・ジャズという言葉がありますが、 これはどちらもニューオリンズという地名のジャズということでは同じ意味です。 ニューオリンズは、ご存知ジャズ発祥の地とされるアメリカ、ルイジアナ州の南部に位置する、 州最大の都市です。 一方、ディキシーランドも、ニューオリンズを指す別名、俗称のことです。 それにはいくつかのいわれがありますが、「ヨハン・ディキシー」という主人の農園のことを、 彼に買われた黒人奴隷たちが「ディキシーの土地」と呼んでいたことにちなんで、 ダニエル・エメットが作った同名の歌が流行したということがありました。 それから、1769年にイギリス人の天文学者チャールス・メーソンとジェアーミン・ディクソンが ペンシルヴァニア州とメリーランド、ヴァージニア両州との間、北緯39度43分に境界線を引きました。 これはアメリカを南北に分け、奴隷の州と奴隷解放の州との境界をも意味していたもので、 「メーソン・ディクソン・ライン」と呼ばれていたということがあります。 その、ディクソンからディキシーに変化したということです。 さらに、ニューオリンズがフランス統治下だったころ、 流通貨幣の10ドル紙幣にはフランス語の10を表す「DIX(ディス)(英語の発音で“ディクス”)」 という文字が印刷されていたことなど、 これらのことから、ニューオリンズは「Dixieland(ディキシーランド)」と呼ばれるようになり、 やがてその周辺のアメリカ南部一帯をそう呼ぶようになったと言います。 20世紀初頭、ニューオリンズで演奏されていた音楽には、ジャズという名前はありませんでした。 ですから、ニューオリンズ・ジャズとディキシーランド・ジャズという名称は、 後になってからつけられた、ジャズの演奏スタイルの名称です。 ニューオリンズ・ジャズ(New Orleans Jazz) 1910年代にアメリカ、ルイジアナ州ニューオリンズのあたりでアフリカ系黒人により形成、 演奏されていたスタイルの音楽を、現在ニューオリンズ・ジャズと言います。 ごく初期のスタイルをとどめたものを指して言い、 後のジャズのソロ奏者による即興演奏とは異なり、集団即興的演奏に特徴があります。 編成としては、当時はコルネットかトランペットが主旋律、 クラリネットやトロンボーンが装飾的な対旋律を演奏しました。 チューバかウッド・ベースがベース音を奏し、 ドラムセットはまだ存在しない時代なので、小太鼓や大太鼓などが単体で伴奏のリズムをつけました。 数人から10数名くらいのバンドが多かったようです。 ディキシーランド・ジャズ(Dixieland Jazz) ディキシーランド・ジャズも時代背景はニューオリンズ・ジャズと同じで、 1910年代のニューオリンズ周辺で生まれた音楽の初期のスタイルのことで、 編成もニューオリンズ・ジャズとほとんど同じですが、 決定的にニューオリンズ・ジャズと区別されるのは、人種が違うという点です。 ディキシーランド・ジャズは、 ブラスバンド的な白人のバンドが黒人の音楽スタイルをマネして演奏されていたものだということです。 ディキシーランド・ジャズは、よくニューオリンズ・ジャズと同じ意味で使われることが多い様ですが、 ディキシーランド・バンドと称する場合は、白人メンバーのバンドであることが多かったこと、 ニューオーリンズ・ジャズをつくりだしたのはアフリカ系アメリカ人ですが、 ニューオーリンズで形成され、シカゴやニューヨーク経由で広まったニューオーリンズ・ジャズが、 1940年代以降におもに白人によってリバイバルし、 リバイバルしてからのディキシーランド・ジャズの多くは白人によって類型化されたものでした。 現在では、ディキシーランド・ジャズは白人の演奏を指すものとして用いるように区別されています。 ただし両者の区別はかならずしも厳密でなく、日本ではほとんど同じ意味でつかわれています。 イギリスでは伝統的なジャズという意味で、どちらもトラッド・ジャズと呼ばれるそうです。 現実として、当時の人種差別の根深いアメリカでは、白人と黒人は完全に隔離された状況だったために、 白人と黒人が一緒に演奏するということはまずあり得ませんでした。 したがって、同じ当時の「新しいスタイルの音楽」を演奏するにあたっても、 黒人バンドと白人バンドは全く別の扱いのものであったために、 それを分類するために黒人たちのやっていた音楽を「ニューオリンズ・ジャズ」、 白人たちのやっていた音楽を「ディキシーランド・ジャズ」と呼ぶようになりました。 それから、これにはジャズの歴史にまで踏み込んだ深いものがあります。 黒人と白人は、ただ一緒に演奏しないというだけではなく、当然行動も共にすることはありません。 つまり、ジャズは黒人音楽と白人音楽との融合と言いながらも、 黒人と白人が共同で試行錯誤を重ねていったのではないということです。 ジャズが、同じグループで黒人音楽と白人音楽との共同作業によって融合していくのは、 この時代より、まだまだ後になってからだということです。 要するに、ジャズは、黒人音楽と白人音楽の融合された音楽だといっても、 ジャズのもともとの音楽はどちらかというと、基本的なものはアフリカ系アメリカ黒人の音楽であり、 アフリカ系アメリカ黒人が、それに西洋音楽の楽器や演奏技法を取り入れて表現し、発展したものだと言えます。 ニューオリンズ・スタイルに対し、当時の白人たちのディキシーランド・スタイルというのは、 基本的には白人の自分達の西洋音楽で、それに黒人音楽の雰囲気を加えたもの、という感じでした。 極端な言い方をすれば、黒人たちのやっていることに興味を持った白人ミュージシャンたちが、 特に黒人たちのやっている音楽をやろうと思ったわけではなく、 自分たちの音楽にその雰囲気を取り入れて、自分たちの演奏スタイルにしたような内容のものでした。 このようなわけで、ディキシーランド・スタイルは黒人たちがやっていたニューオリンズ・スタイルと、 音楽のスタイルや内容ともに、雰囲気的にはどうしても違った音楽になっていたわけです。 とはいえ、ディキシーランド・スタイルも、それまでにはなかった音楽であったことには間違いなく、 また、黒人のニューオリンズ・スタイルをまじめにコピーしたような白人バンドも出始め、 そうした演奏は、のちのジャズ・ミュージシャンたちに大きな影響を与えました。 なお、ニューオリンズ・スタイルやディキシーランド・スタイルのミュージシャンは、シカゴへ移っていくので、 1920年代ごろにおいては、シカゴでも、これらのスタイルの音楽が演奏されていたことが考えられます。 ジャズ演奏の録音を初めて行なった「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド」が、 自分たちのバンドにわざわざ「ディキシーランド」という名前を付けたのは、 彼らが本格的に売り出していったところがニューオリンズではなく、 シカゴやニューヨークにおいてだったということがあるようです。 Last updated April 4, 2008 ■History of Jazz ジャズの歴史(その8)■ ■History of Jazz ジャズの歴史(その10)■ ![]() 【ジャズ】人気blogランキングへ ジャンル別一覧
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