■ジャズの歴史(その38)■March 18, 2007■History of Jazz ジャズの歴史(その38)■ ●クロスオーヴァー(Crossover)の誕生 ロック、ソウル、ファンクなどとクロスしたジャズ 1950年代末頃から、ジャズは商業的な危機をむかえます。 その頃のジャズは、一般大衆には、わけのわからないフリー・ジャズの時期になっており、 また、それは、ジャズが一番発展した芸術だとして評されていたときでもありました。 そのため、若い聴衆は、ロックやソウル・ミュージックを好み、 年輩のジャズ・ファンだった音楽マニアの層でさえ、 あまりにも抽象的で粗野な感情表現のものも多くなったジャズから離れていきました。 ジャズは芸術性が高いとはいえ、大衆には受け入れられないものになってしまいました。 そのころ、海を渡っていった「ロックンロール」は、 イギリスの小さな港町で「ビートルズ」というグループによって大きく育ち、 「ロック」という巨大な存在になって逆輸入されてきました。 こうした刺激を受けて、アメリカのロックは、より強いアイデンティティーの確立のため、 フォーク・ソングやブルース、ジャズ、カントリー・アンド・ウェスタンといった、 様々な音楽を見直す動きを見せるようになりました。 こうした動きは、ロックに体制批判的な「思想」を付加することにもつながり、 黒人の公民権運動は白人も含めた学生運動に発展し、 批判的なメッセージを強めていったロックは、その運動の象徴になっていきました。 そのころは、すでにラジオやテレビが広く普及し、レコードも量産されており、 アメリカ国民の音楽に対する意識も変わってきているときで、 「ロック」は体制批判の象徴として受け入れられ、 「ロック」を聴くことは、その意思表示につながることになりました。 そして、次第に大規模なロック・コンサートが行われるようになります。 1967年にカリフォルニアで開かれたモンタレー・ポップ・フェスティヴァルには、3日間で、のべ5万人、 1969年にニューヨーク郊外で開かれたウッドストック・フェスティヴァルには、 30万人から50万人の聴衆が詰めかけたというような現象は、 音楽の形態自体も変えていくことになりました。 この現象は音楽に娯楽以上の意味をもたせ、送り手側だけではなく、 受け手側も音楽を作り出すことに参加できることを示しました。 こうした、大規模なフェスティヴァル形式のコンサートでは、 大音量が出せるロックが大きな支持を得ることになりましたが、 そのことは、ジャズのスタイルや方向性にも大きな影響を及ぼすことになります。 もともと淫売屋の音楽として生まれてきたジャズは、その楽器自体はアコースティックなものであるため、 エレキ・ギターやエレキ・ベースを、アンプによって 電気的に音を増幅させることが前提で演奏されるロックとでは、 その音量の差は歴然とするものになっていました。 そこで、まず音量の点でロックに引けをとらないものであり、 そのうえ、強力なインパクトを持った新しいジャズの出現が待ち望まれるようになっていました。 1960年代、多くのファンにそっぽを向けられたジャズが人気を回復するために、 ロックやソウルなどに誘発されて、ジャズ・ミュージシャンたちは様々なことをしました。 ロックのリズムである8(エイト)ビートを取り入れたもの、 ソウル・ミュージックやファンクが用いた16(シックスティーン)ビートを取り入れたもの、 異文化の音楽に学ぶものなどが出現し、そうしたジャズの中には、そこそこ人気を得るものもありました。 そして1970年4月、マイルス・デイヴィスがアルバム『ビッチェズ・ブリュー』を発表しました。 これは、参加メンバー15人中の12人がリズム楽器で、さらに電気楽器を前面に押し出した、 実に斬新な音楽で、人々に鮮烈な印象を与える衝撃的なものでした。 このアルバムの音楽は、今までの「ジャズ」とは全く異なったものであったため、 はたして、この音楽をジャズと言って良いものかどうかという物議をかもすことになりましたが、 ジャズ界の帝王、マイルスの音楽ということで、ジャズの新しいスタイルとして受け入れられ、 急速に音楽シーンに浸透することになりました。 マイルスは、その年の8月に、イギリスのワイト島で開かれた大規模な野外コンサートに出演しました。 ジミ・ヘンドリクスやスライ・アンド・ファミリー・ストーンや、 白人のロック・グループに交じって、約30万人の観衆の前で演奏し、 マイルスの、その新しいジャズは、ロックと同じステージで演奏できるものであることを示しました。 こうしたマイルスのスタイルは、彼のバンドで活動したメンバー、 いわゆるマイルス・スクールの卒業生たちによって、さらに広げられていくことになりました。 サックスのウェイン・ショーターとキーボードのジョー・ザヴィヌルが1970年暮れに『ウェザー・リポート』を、 キーボードのチック・コリアが1972年に『リターン・トゥ・フォーエヴァー』を、 キーボードのハービー・ハンコックが1973年に『ヘッド・ハンターズ』を結成するというように、 エレクトリック・サウンド(電化サウンド)を導入したバンドが次々と誕生し、 ジャズのエレクトリック化は一気に広まりました。 この新しいジャズは、ロック、ソウル、ファンクなどのあらゆる音楽が、 ジャンルを越えて交差(クロス)したものということで、 「クロスオーヴァー(Crossover)」(当時の表記はクロスオーバー)と呼ばれるようになり、 1970年の後半から、ジャズ・シーンにクロスオーヴァー・ブームが起こることになります。 さらに、クインシー・ジョーンズのような優れたサウンド・クリエーターによって、 電気楽器の音がポピュラー音楽として広く大衆に受け入れられるレベルにまで達してくると、 もはや、電気楽器を使う、使わないということを問題にすること自体が意味のないことになっていきました。 今となっては、このマイルスの『ビッチェズ・ブリュー』はフュージョンという音楽スタイルの始まりとされ、 これ以降のエレクトリック・ジャズはフュージョンの分類に入れられるようになりましたが、 1970年代初頭、そのような言葉すらなく、この種の音楽はどこにカテゴライズしたらよいか、 レコード販売側は困ったことでしょう。 本来、これはジャズでもなくロックでもない、マイルス・ミュージックと言うべきものですが、 マイルスなど、ジャズ・シーンからのミュージシャンたちが作ったものはジャズとして分類されていました。 しかし、新しいグループであるアース・ウィンド・アンド・ファイアーなどが出現すると、 そういうものには「クロスオーヴァー」という新しい名称が使われ出しました。 そこから、1970年代中頃からは、この種のジャズも「ジャズ・クロスオーヴァー」と呼ばれるようになりました。 そして、その後1980年代になってから「フュージョン」という名称が使われるようになっていきます。 Last updated December 20, 2008 ■History of Jazz ジャズの歴史(その37)■ ■History of Jazz ジャズの歴史(その39)■ ![]() 【ジャズ】人気blogランキングへ ジャンル別一覧
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