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All The Things You Are

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Album

January 10, 2007
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テーマ:Jazz(1755)
カテゴリ:Album
The Bud Powell Trio

ちょうど60年前の今日・・・

バド・パウエルの芸術 / バド・パウエル
The Bud Powell Trio


【1~8】
録音日:1947年1月10日
録音場所:アメリカ、ニューヨーク

[パーソネル]

バド・パウエル(p)
カーリー・ラッセル(b)
マックス・ローチ(ds)

【9~16】
録音日:1953年8月14日
録音場所:アメリカ、ニューヨーク

[パーソネル]

バド・パウエル(p)
ジョージ・デュヴィヴィエ(b)
アート・テイラー(ds)

レーベル:東芝EMI

[収録曲] 

1.I'll Remember April 四月の想い出
2.Indiana インディアナ
3.Somebody Love Me 誰かが私を愛している
4.I Should Care アイ・シュッド・ケア
5.Bud's Bubble バッズ・バブル
6.Off Minor オフ・マイナー
7.Nice Work If You Can Get It ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット
8.Everything Happens To Me エヴリシング・ハプンズ・トゥ・ミー
9.Embraceable You エンブレイサブル・ユー
10.Burt Covers Bud バート・カヴァーズ・バド
11.My Heart Stood Still マイ・ハート・ストゥッド・スティル
12.You'd Be So Nice To Come Home To ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ
13.Bags' Groove バグス・グルーヴ
14.My Devotion マイ・ディヴォーション
15.Stella By Starlight 星影のステラ
16.Woody'n You ウッディン・ユー

----------

ちょうど60年前の今日。

これは、今でこそジャズでは当たり前の編成である、
ピアノとベースとドラムスというジャズ・ピアノ・トリオ編成で、
ビバップ・スタイルが初めて形を成した歴史的演奏です。

そのため、「モダン・ジャズ・ピアノの父」と語り継がれているバド・パウエル(1924.9.27~1966.7.31)が、
1947年の1月10日に、ドラムスにマックス・ローチ、ベースにカーリー・ラッセルを起用して、
初のリーダー・セッションを行なったものが、このアルバムの前半の8曲に収められています。

バド・パウエルの演奏は、すべてのモダン・ジャズ・ピアニストに影響を与えたと言えるでしょう。
ジャズ・ピアノ・トリオの究極の演奏であり、ジャズ・ピアノのバイブルとも言える名作です。
まさに「神がかり的」。

ちなみに、この1947年1月10日は、マックス・ローチの23歳の誕生日でもありました。

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Last updated  January 10, 2007 05:59:35 PM
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January 7, 2007
テーマ:Jazz(1755)
カテゴリ:Album
Jazz At Massey Hall

ジャズ・アット・マッセイ・ホ―ル / チャーリー・パーカー:ザ・クインテット
Jazz At Massey Hall / Charlie Parker : The Quintet


録音日:1953年5月15日
録音場所:カナダ、トロント、マッセイ・ホールにおけるライヴ録音
レーベル:Debut

[パーソネル]

チャーリー・パーカー(as)
ディジー・ガレスピー(tp)
バド・パウエル(p)
チャールズ・ミンガス(b)
マックス・ローチ(ds)

[収録曲] 

1.Perdido パーディド
2.Salt Peanuts ソルト・ピーナッツ
3.All The Things You Are - 52nd Street Theme オール・ザ・シングス・ユー・アー~52丁目のテーマ
4.Wee ウィー
5.Hot house ホット・ハウス
6.Night In Tunisia チュニジアの夜

----------

これは、 1953年5月15日、
カナダ、トロントのマッセイ・ホールで行われたコンサートのライヴを収めたものということです。

このアルバムは、何といってもメンバーがすごいんです。
サックスのチャーリー・パーカー、トランペットのディジー・ガレスピーという絶妙のコンビに、
ピアノはバド・パウエル、ベースがチャールズ・ミンガス、ドラムはマックス・ローチというからたまりまん。
ジャズのことを少しでも知っている人にとっては、このメンバーを見ただけで感激ものでしょう。
歴史的ビッグ・ネームが5人もいるのですから。
この一枚で、パーカーもガレスピーもパウエルもミンガスもマックス・ローチも聴けるというわけです。
しかも、この5人が一堂に会したアルバムは、これ一枚しかありません。

この録音から約1年後のジャズ・シーンは、ビバップが、さらに新しい形になっていく、
ハードバップというスタイルのジャズが現れることになります。
また、約2年後の1955年の3月にはチャーリー・パーカーはこの世を去ってしまいます。
そんなときのジャズの、ビバップが最も成熟した形がここにあるということです。

しかし、このアルバムは、このときのメンバーのチャールズ・ミンガスがほとんど私的に録音し、
自ら興したレーベルのデビュー・レコードから、自費出版に近い形で発表されたものだということです。
そのため、チャーリー・パーカーはレコード会社との契約の関係でチャーリ・チャンという名前になっていたり、
「オール・ザ・シングス・ユー・アー~52丁目のテーマ」は別の日の録音のものを持ってきたり、
この曲のピアノはパウエルではないのではないかとか、拍手やベースがダヴィングされているとか、
いろいろ言われています。
しかも、パーカーもパウエルもボロボロの時期。
パーカーはよく楽器を質に入れてしまったりして、
レコーディングにも楽器を持ってこなかったことがあるという逸話がありますが、
パーカーは、このとき楽器を持ってこないで、
近くの楽器店で借りたというプラスチック製の練習用のサックスを吹いているということです。
しかし、そんなことは演奏するほうにとって何のいいわけにはならず、
聴くものにとっても関係のないことで、いいものはいい、悪いものは悪い、それだけです。
確かにそう言われれば危なげなところも感じられますが、
やはりこの人は信じられないくらいの天才的な感覚で、すばらしいプレイをしているのが伝わってきます。
そして聴くものに興奮と感激を与えてくれます。
こういうパーカーやパウエルのような人のプレイのことを、まさに「神がかり的」と言うのでしょう。
もちろんガレスピーは言うに及ばず、まったくもってサエまくっています。

それぞれのアドリブ・プレイはもちろんのこと、
パーカーとガレスピーの絶妙なセンスのコンビネーション、
そして、リズム・セクションのサポートのすばらしさ、
そんなところからも、これこそがジャズだと思える一枚です。

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Last updated  January 7, 2007 01:27:45 PM
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January 4, 2007
テーマ:Jazz(1755)
カテゴリ:Album
グルーヴとは・・・、そしてポール・チェンバースの代表作。

Groovy

グルーヴィー / レッド・ガーランド
Groovy / Red Garland


録音日:1956年12月14日(4、5)
    1957年5月24日(6)
    1957年8月9日(1~3)
録音場所:アメリカ、ニュージャージー
レーベル:Prestige

[パーソネル]

レッド・ガーランド(p)
ポール・チェンバース(b)
アート・テイラー(ds)

[収録曲] 

1.C Jam Blues Cジャム・ブルース
2.Gone Again ゴーン・アゲイン
3.Will You Still Be Mine ウィル・ユー・スティル・ビー・マイン?
4.Willow Weep For Me 柳よ泣いておくれ
5.What Can I Say, Dear? ホワット・キャン・アイ・セイ・ディア
6.Hey Now ヘイ・ナウ

----------

これは、ジャズ・ピアノ・トリオを代表する名盤です。

このアルバムはピアニストのレッド・ガーランドのリーダー作になっていますが、
むしろリーダーはベースのポール・チェンバースではないかと思えるくらいに、
彼の存在感が大きいもので、
これは、ポール・チェンバースのリーダー作だと言ってもおかしくないものです。

このアルバムはジャズ・ピアノ・トリオの代表作品と言えるものですが、
ビル・エヴァンス・トリオのものもジャズ・ピアノ・トリオの代表作品だというものがたくさんあります。
しかし、それは内容的に、どちらが優れているかというように比べられるものではなく、
それぞれが違う個性のある、良い作品であるということです。
ここには、レッド・ガーランド・トリオの独特のごきげんなノリがあり、
それが、ジャズという音楽の持っている気持ちいいグルーヴ感なのです。

「グルーヴ(groove)」とは、本来は「みぞ」という意味ですが、
「in the groove」ということで、「最高調」とか「実にうまく演奏する」、「大いに楽しむ」
といった意味になります。

まさに、これは、このアルバムのタイトル通りグルーヴィー(ごきげん)なアルバムなのです。
そして、このグルーヴ感に身をゆだねることで得る満足感こそがジャズの魅力だと言えます。
これは、聴く人々を、そんなしあわせな気持ちにしてくれるという名盤です。

グルーヴ感とはリズムのノリから生まれるもので、それは独特のものです。
そして、それはいろいろな音楽で発生し、
よくソウル・ミュージックやR&Bやブルースなどでもグルーヴということを言いますが
このリズムのノリの分野を理論的に表すことはいまだにできていません。
しかし、古来からのアフリカなどの民族音楽などで自然に行われてきていることです。
打楽器が中心になって同じリズムを延々と繰り返していくうちに、
そのエネルギーが大きくなっていき、ある種の高揚感(こうようかん)が生まれてくるというもので、
これがジャズの原点でもあるグルーヴ感だと言えるでしょう。

ジャズを聴くときや演奏しようとするときに、アドリブのフレーズがどうのこうのなどと言う前に、
一番大切なもの、それがグルーヴしているかどうかということです。
このアルバムには、そんなジャズの本質であるグルーヴがあるのです。
そして、それは、レッド・ガーランドのピアノの素晴らしさはもちろんですが、
ポール・チェンバースとアート・テイラーの3人により生まれたもので、
特に「Cジャム・ブルース」のグルーヴィーなプレイは傑作中の傑作です。

そして、このアルバムは、特別に何か革新的なことをやろうとか、
変わったことや、すごいことをやろうといったことはいっさい考えずに、
だれかのレコーディングに参加したついでに録音されたものを集めたもので、
普段どおりのリラックスした、ごくごく日常的な演奏から生まれたに過ぎないものです。
そんなところからも、肩肘を張らずに
「ジャズっていいなあ」と単純に感じられるものになっているのだと思います。

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Last updated  January 4, 2007 08:11:14 PM
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January 2, 2007
テーマ:Jazz(1755)
カテゴリ:Album
My Favorite Things

マイ・フェイヴァリット・シングス / ジョン・コルトレーン
My Favorite Things / John Coltrane


録音日:1960年10月21、24、26日
録音場所:アメリカ、ニューヨーク
レーベル:Atlantic

[personnel]

ジョン・コルトレーン(ts,ss)
マッコイ・タイナー(p)
スティーヴ・デイヴィス(b)
エルヴィン・ジョーンズ(ds)

[収録曲] 

1.My Favorite Things マイ・フェイヴァリット・シングス
2.Everytime We Say Goodbye エヴリタイム・ウイ・セイ・グッドバイ
3.Summertime サマータイム
4.But Not For Me バット・ノット・フォー・ミー

----------

このアルバムは、マイルス・デイヴィス・グループで名声を得たジョン・コルトレーンが、
アトランティック・レーベルと専属契約を結んで録音した2枚目のアルバムであり、
マイルス・デイヴィス・グループから独立後、最初のものになります。

コルトレーンがモード奏法を自在に繰り広げた記念碑的アルバムと言えます。

アトランティックでの1枚目、要するに前作のアルバムは『ジャイアント・ステップス』であり、
こちらもジャズの歴史上、超がつく名盤のひとつです。

コルトレーンのアルバムは、その全部が歴史的名盤と言えるものですが、
ジャズを聴きなれていない人にとっては何がなんだかわからないと思ってしまうものが多いでしょう。
そんな中で、このアルバムは親しみやすい部類のアルバムだと思います。

収録曲は、いずれも、今では有名なスタンダード・ナンバーです。
1曲目のタイトル曲「マイ・フェイヴァリット・シングス」は、
リチャード・ロジャーズ&オスカー・ハマースタイン2世の曲で、
ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の挿入曲。
2曲目の「エヴリタイム・ウイ・セイ・グッドバイ」はコール・ポーターの作曲によるバラード。
3曲目と4曲目はガーシュウィン作曲のスタンダード・ナンバーです。

LPレコードの時代には、A面2曲、B面2曲という構成で、
A面ではコルトレーンが初めてソプラノ・サックスをもちいたもので、
B面ではテナー・サックスを演奏しているものになります。

タイトル曲の「マイ・フェイヴァリット・シングス」は、
アカデミー賞受賞の名作映画『サウンド・オブ・ミュージック』で広く知られたナンバーですが、
この映画ができるのは、このアルバムから5年後の1965年のことで、
当時は、これがブロードウェイ・ミュージカルの曲だと気づく人はまれだったということです。
しかし、この演奏が多くのファンに支持されたのは、この楽曲が素晴らしかったということで、
この曲のメロディーとジャズ・ワルツのリズムのノリの心地よさと、
そして何よりもコルトレーンの吹くソプラノ・サックスの音色が、
このメロディーに非常に良くマッチしたからでしょう。
コルトレーン自身も気に入り、生涯を通じてこの曲を愛奏曲とし、
モードからフリーへと飛躍的変化をとげる過程のなかでも、
数限りなくこの曲の演奏を繰り返していきます。

晩年にはそれこそ凄まじい演奏になっていくのですが、
コルトレーンの「マイ・フェイヴァリット・シングス」の演奏を追いかければ、
彼の音楽的変遷がわかるとまで言える、
その記念すべき初演がここにあるというものです。

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Last updated  January 2, 2007 10:11:21 AM
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December 23, 2006
テーマ:Jazz(1755)
カテゴリ:Album
今日は、アメリカのジャズ・トランペット奏者であり、ジャズ・シンガーでもある、
チェット・ベイカーが生まれた日です。

Chet Baker

●チェット・ベイカー(Chet Baker)

本名:Chesney Henry Baker Jr.
1929年12月23日、アメリカ、オクラホマ州イェール生まれ。
1988年5月13日、オランダ、アムステルダムにて死亡。
58歳。

----------

チェット・ベイカーは、1929年12月23日に、
アメリカのオクラホマ州イェールという町で生まれましたが、
すぐにオクラホマシティーに越し、そこで育ちました。
その後、1940年にカリフォルニア州のグレンデールに引っ越し、
ウエスト・コーストの地で少年時代を送ります。

カントリー・バンドでギターをプレイし、ヒルビリー音楽のラジオ番組をもっていた彼の父親は、
音楽に興味をもっていた13歳のチェットに、トランペットを与えました。

1946年、彼は16歳で軍隊に入り、そこで初めてジャズと出会いました。
ジャズの虜になった彼は、除隊後ロスのエル・カミーロ大学で音楽理論を学びますが、
1950年に再び徴兵され従軍します。
除隊になるとロサンゼルスで、本格的にジャズ・ミュージシャンとしての活動を始めました。

当時、ジャズの中心地は完全にニューヨークでしたが、
ニューヨークで活躍していたアルト・サックスの巨人、
チャーリー・パーカーが、1952年に西海岸ツアーを行うためにロスにやって来ました。
その時、ツアーのサポート・メンバーを決めるためにオーディションが行なわれ、
そこでチェットが選ばれました。
チャーリー・パーカーは、チェットのことを気に入り、彼を正式なトランペッターとして迎え、
1952年から1953年にかけてチャーリー・パーカーのバンドに在籍しました。
1953年のアルバム『The Bird You Never Heard』など、
チャーリー・パーカーの何枚かのアルバムのレコーディングにも参加しています。

同じ頃、チェットはロスのクラブ「ヘイグ」で行われたジャム・セッションに参加し、
そこでバリトン・サックス奏者のジェリー・マリガンと出会いました。
二人は意気投合し、その後一風かわったピアノ・レス・バンドを結成し、大きな話題となり、
ウエスト・コースト・ジャズというジャズの新しい流れを生み出すきっかけになりました。
しかし、このバンドは1953年にジェリー・マリガンがドラッグの不法所持で逮捕されたため、
解散することになりました。

そのため、チェットはソロ活動を行いましたが、ひょんなことから歌を歌うことになり、
チェットのヴォーカルをフィーチャーし、1954年に10インチLPとしてリリースされたアルバム、
『チェット・ベイカー・シングス』が大ヒットしたため、一躍注目を浴びるようになりました。

以後はトランペッター兼シンガーということで活動し、
中性的な独特の歌唱と、角度によってはジェームス・ディーンに似ているそのマスクから、
ジャズ界のジェームス・ディーンとも呼ばれ、
全盛期にはマイルス・デイヴィスも及ばないほどの人気を博しました。

彼は、影響を受けたミュージシャンとして、
1950年代~1960年代のマイルスを挙げています。
「僕のジャズ・トランペッターとしてのスタイルを決定的にしたのはあの頃のマイルスだ。
あの演奏を聴いて、その真似をしたんだよ。
50年代60年代のマイルスの音楽世界はとにかく素晴らしいよ」
と語っていたそうです。

チェット・ベイカーは、ジャズのイキなところを見事に表現したところが、この人の魅力でしょう。
そして、彼の生き様は栄光と挫折が織り成す波乱万丈の人生ドラマであり、
まさにジャズ・ミュージシャンを絵に描いたような超破滅的人生そのものが、
「チェット・ベイカーのジャズ」という音楽であったと言えるでしょう。
ジャズと女と麻薬の人生・・・。

そして、アムステルダムのホテルからの転落死という最期をむかえるのでした。

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Last updated  December 23, 2006 11:15:39 AM
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December 19, 2006
テーマ:Jazz(1755)
カテゴリ:Album
自己の音楽を確立したピアニスト、ビル・エヴァンス

孤独な内側を一番占めていた音楽

ビル・エヴァンスは、マイルス・デイヴィスと1959年の春に『カインド・オブ・ブルー』を録音した後、
自分の音楽を演奏したいという思いで、マイルスのもとを離れます。

1959年12月、いよいよエヴァンスはベースのスコット・ラファロ、
ドラムスのポール・モチアンと共に、自己のトリオを結成し、
アルバム『ポートレート・イン・ジャズ』のレコーディングを開始します。
ここに歴史的とも言える伝説のトリオが誕生したのでした。
スコット・ラファロとは、1956年にトランペットのチェット・ベイカーのオーデション会場で、
すでに顔を合わせていたと言います。
そのラファロの革命的とも言えるベースは、
エヴァンスの推し進めていた音楽のコンセプトにぴったりと当てはまり、
エヴァンス・トリオの独自のスタイルを確立することができました。

1961年6月25日、有名なジャズの名門クラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」で、
このビル・エヴァンス・トリオはライヴ・レコーディングを行いました。
ところが、このライヴのわずか11日後の7月6日に、
スコット・ラファロは自動車事故により、25歳の若さで亡くなってしまいました。
サックス奏者のスタンゲッツのグループのライヴに参加したあと実家に帰り、
友人と共に自動車でニューヨークに戻る途中の事故だったということでした。
エヴァンスはラファロの死を電話で聞いたと言います。
ようやく自分の音楽を確立できると確信していたときだけに、その落胆は尋常ではなく、
エヴァンスは「何も考えられなくなった」と後に語っています。

この時のライヴは、
『ワルツ・フォー・デビイ』と『サンデー・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』の2枚のアルバムとして、
約1年後に発表されました。
そして、ジャズ・ピアノ・トリオの新しい境地を切り開いた演奏として、ジャズ史に輝く名盤になりました。

エヴァンスは、ラファロを失ってトリオを解消し、ソロ活動で自己の音楽を追求していきます。
1966年に、ベースのエディー・ゴメスという新たなパートナーを得て、
さらに自己の音楽を追求していきました。
しかし、その間には、ドラッグの常用に陥るようになりました。

1973年に初来日し、全国を精力的に回り、優れた演奏でファンを魅了しました。
しかし、その来日公演から帰国直後、妻のエレインは自殺してしまいました。
1977年にレコーディングされたアルバム『ユー・マスト・ビリーブ・イン・スプリング』は、
静けさに満ち、なおかつ深みのある素晴らしい作品で、
その中に収録されている「Bマイナー・ワルツ」は亡き妻エレインに捧げられた曲だと言います。

1974年には再婚し、1975年には男の子の父親になるという、
少なくともこのころには、エヴァンスにとってしあわせなときがありました。

このときエヴァンスは、
「人間にとって最も大切なのは精神面を充実させることだ。
私は家を新しく買い、生まれて初めて父親となった。
こうした事柄が全て私の演奏の原動力ともなっているのだ。
私は今、自分がとても張り切っていることを感じる。」
と語っています。

しかし、そのしあわせもつかの間、
1979年春に、ビル・エヴァンスが尊敬し、崇拝していたとまで言っていた、
これまで代えがたい存在であった兄のハリーが自殺してしまいました。
そんな悲しみの中、再婚した妻とは別居状態になり、息子とも別れなくてはなりませんでした。
当時のエヴァンスには、もう音楽しか残っていなかったと言えるのではないでしょうか。
ピアノを弾くことしかない毎日・・・。
現に1979年からのエヴァンスは、何かから逃れるかのように、
がむしゃらにライヴ活動を続けていくようになります。
それは、孤独から逃れるためだったのでしょうか。

そして、次第に周囲の人間から見てもあきらかにエヴァンスの身体は衰弱していきました。
しかし、エヴァンスは周囲の心配をいっさい聞き入れることなく演奏活動を続けたのでした。
1980年の夏にヨーロッパ・ツアーに出たころは、
エヴァンスの健康状態は悪化の一途をたどっていました。
さらに、克服していたはずのドラッグにも再び手を出してしまっていたようです。

すでにこの時期、医者からは病状の悪化を告げられ、入院をすすめられていましたが、
エヴァンスは演奏活動を中断する気持ちは全くなかったようです。

9月の頭にサンフランシスコの「キーストン・コーナー」に出演した時に、
「自分のテクニックの80パーセントは、もうどこかへ行ってしまったが、
プロ意識でどうにかつないでいるのだ。」
と、話していたと言います。

1980年9月9日から始まったニューヨークの「ファッツ・チューズデイ」での演奏の
二日目にあたる9月11日は演奏不能になり、
自宅で親しい人たちにより三日間にわたり看病されました。
14日に、当時のトリオのドラマーだったジョー・ラバーバラに説得され、
ニューヨークのマウント・サイナイ病院へ運ばれましたが、
翌日の9月15日午後5時頃に、ビル・エヴァンスは帰らぬ人となりました。
死因は肝硬変、気管支肺炎と出血性潰瘍による失血性ショックによるものでした。
51歳でした。

ビル・エヴァンスも、
演奏することによって死に向かっていった破滅型ミュージシャンのひとりと言えるでしょう。

「音楽は、私の人生で一番重要な、意味のあることであり、
私の生活に関わる何ものよりも私の内側を占めている。」
・・・ビル・エヴァンス


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Last updated  December 19, 2006 02:15:10 AM
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December 18, 2006
テーマ:Jazz(1755)
カテゴリ:Album
自己の音楽を確立したピアニスト、ビル・エヴァンス

音楽人生の始まり

ビル・エヴァンス(Bill Evans)は、本名をウイリアム・ジョン・エヴァンス(William John Evans)といい、
1929年8月16日に、
アメリカのニュージャージー州プレインフィールドというさほど大きくない町で生まれました。
家庭は典型的なアメリカの中産階級で、父親は英国のウェールズの出身、
母親はアメリカ生まれですが、ロシア移民の娘でした。

両親が共に音楽が好きだったこともあって、
ジョン(ビル)は2歳年上の兄、ハリー・エヴァンスと共に早くから音楽教育を受けました。

「僕の一生を左右したことでは、兄ハリーの演じた役割は大きかった。
ピアノの稽古を始めたのは兄が最初で、彼を真似して遊んだことがきっかけで自分も弾くようになった。
僕はいつだって兄をいわば崇拝していた。
スポーツでも、いつも兄に差をつけられまいとしていた。
兄は二つ年上で、スポーツもピアノも得意だった。」
この兄は1979年に自殺しますが、そのときのジョン(ビル)のショックは計り知れません。

ジョン(ビル)は6歳のときからピアノを習い始めますが、家族が第二の楽器を持たせたいということで、
翌年からヴァイオリンも習いますが、これは12歳のときにやめました。
ピアノのほうが上達が速く、10歳のころにはすでにモーツァルトのソナタを弾くまでになったといいます。
また、そのころには、地元ニュージャージー州のダンス・バンドでピアニストを務めたりしていたそうです。

ビル・エヴァンスは幾度か公(おおやけ)の場で、
ジャズ・プレイヤーの自由さを初めて知ったときの喜びの瞬間について話しています。
それは、彼が10代初め、地元のダンス・バンドでピアニストを務めていたときのことです。
バンドは「タキシード・ジャンクション」を演奏していました。
この曲は、もともとアースキン・ホーキンスによって即興的に演奏されたものですが、
その後、その他のスウィング・バンドに採用されて演奏されるようになると、
各パートは単純化され、譜面によって封じ込められてしまっていました。

「何とはなく、ひらめいてブルース・コードをちょこっとはさんでみたんだね。
“タキシード・ジャンクション”はキーが「Bフラット」だから、
「Dフラット」、「D」、「F」をバーンとね。(注:Dフラットがブルーノートになります)
右手で。
何とも言えないスリルだった。
しっくりきてね、いい感じなんだ。
書かれてあったんじゃなく、自分でそうしたんだけれども。
誰も考えつかなかった何かを音楽でやるっていう発想自体が、自分に全く新しい世界を開いてくれたんだ。」

とエヴァンスは語っています。

1940年代後半に、当時のアメリカでも最高の音楽教育施設とも言われたという、
ニューオリンズのサウス・イースタン・インディアナ・カレッジに入学します。
ここでは、クラシックが中心のカリキュラムだったのでしょうが、
このときすでにジャズの虜になっていたビルは、周辺のクラブへ出かけて行っては、
ジャズのセッションに参加していたそうです。

カレッジ卒業後の1950年初め、プロとしてバンドのピアニストになりますが、
10カ月ほどで徴兵にとられ1951年から兵役につきます。
1954年、25歳のときに軍を除隊して両親の家に戻ってきました。
このころには、
エヴァンスの代表曲の「ワルツ・フォー・デビイ」が作曲されていたと言います。

この年、1954年のジャズ・シーンは、アート・ブレイキーが「ハードバップの誕生」と言われる
ジャズ史上最重要アルバムの一つである、『バードランドの夜』というライヴ盤が録音され、
マイルス・デイヴィスのハードバップ宣言とも言われるアルバム『ウォーキン』が発表されたりと、
ジャズはスウィング期から、チャーリー・パーカーらによるビバッブ期を経て、
いよいよハードバップ期という、モダン・ジャズの真っただ中へと入ろうとしつつあるころでした。

そんな1954年に、エヴァンスはニューヨークに出てきます。
最初の演奏場所はダンスのできるクラブかホールで、ジャズとはほど遠いものでしたが、
しだいに優秀なジャズ・ピアニストとして知られるようになり、
1956年に入ってからは、ジョージ・ラッセルなど大物のレコーディングに参加するようになります。

そして、その年1956年に、
エヴァンスにとって初のリーダー・アルバム『ニュー・ジャズ・コンセプションズ』が録音されました。
エヴァンス27歳です。
このアルバムには、ビルが20歳のころに作曲したという「ワルツ・フォー・デビイ」や、
生涯に渡って演奏されたロジャース&ハートの名曲「マイ・ロマンス」という重要なナンバーが収録されています。

ビル・エヴァンスはリーダー・アルバムをリリースしたものの、当時は一部の批評家には支持されただけで、
ほとんど売れませんでした。
そのせいか、エヴァンス自身も、この初リーダー・アルバム『ニュー・ジャズ・コンセプションズ』には
自信を持てなかったと言っています。

しかし、マイルス・デイヴィスは彼に注目し、自分のグループに誘いました。
当時としては黒人のマイルス・グループに白人であるエヴァンスが入ることに対して、
抵抗を示すメンバーもいたと言いますが、
マイルスは「肌の色がなんだろうと自分は優れたミュージシャンと一緒にプレイしたい」と言い、
1958年からビル・エヴァンスはマイルス・デイヴィス・グループに参加することになりました。
その結果、ジャズ史上に大きな影響を与えた1959年のマイルスのアルバム「カインド・オブ・ブルー」
という素晴らしい作品が生まれたのでした。

1958年には、ダウンビート誌の批評家による投票で、ビル・エヴァンスは新人賞を受賞しました。

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Last updated  December 18, 2006 09:35:20 AM
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