065178 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

本庄氏の館

本庄氏の館

本庄繁長とは?

 本庄繁長(ほんじょうしげなが)
別名:千代猪丸、弥次郎、雨順斎全長、
    越前守、大和守


上杉家臣で本庄城主(越後村上城) 叔父の小川長資に居城を奪われて父の房長が殺害(病死の説もあり)されるなど、波乱に満ちた少年時代を送っている。そのためか幼少より気性剛強で、成長すると居城を奪回し、長資を敗死させて当主となり、所領を拡大して揚北地方(新潟県下越地方)きっての大豪族になる。
 天文8年(1539)12月4日猿沢城で誕生、同20年(1551)8月8日叔父小川長資を切腹させ、本庄城主となる。(繁長13歳)
永禄11年(1568)甲斐の武田信玄に呼応して、打倒上杉謙信の旗をひるがえし、籠城すること一年におよんだが、伊達家。芦名家の調停のもと、繁長の長男の顕長を人質に出して本領安堵で和議成立。以後は各地の合戦で活躍した。
 天正11年(1583)新発田重家の反乱の際に、上杉景勝は、繁長に上杉景信の席と竹に飛雀の紋を与えた。同14年新発田氏滅亡。同16年山形城主最上義光の軍勢と庄内十五里原で戦い大勝する。しかしそれが豊臣秀吉の惣無事令(私闘禁止令)に違反することとなり、同18年改易となり村上を去る。
 慶長3年(1598)奥州(福島)森山城に移り、ついで福島城主となる。同五年関ヶ原の戦いがおこると、上杉景勝は石田光成に呼応し、会津で兵をあげる。上杉方の戦略は、越後で騒乱を起こす一方、宿老直江兼続に最上氏を攻略させ、繁長と須田満親に伊達政宗と対戦させるということであった。このとき福島城を攻めた伊達勢は、繁長の戦略にかかり、幔幕を奪われるほどの敗軍であった。
 同18年(1613)12月20日、福島城で病没。75歳。景勝は、繁長の長年の武功を讃へ、八幡の神号を贈った。



© Rakuten Group, Inc.