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本庄氏の館

本庄氏の館

福島城代の本庄氏

本庄繁長は慶長三年(1598)上杉景勝の会津移封に従って、田村郡守山城(福島県郡山市)一万石の城主とり、慶長五年(1600)に徳川家康の会津討伐に備え福島城に入場し、見事に伊達軍を敗走させた。
関ヶ原の戦の敗戦で上杉家の削封により、一万石から3,333石で信夫郡福島城代としてとどまり、慶長十八年(1613)十二月に七十五歳で死去した。
家督は繁長の次男、本庄充長(完長とも)が継ぐ。
慶長十九年、同二十年(1614~1615)大坂の陣に出陣軍功を上げる。
元和八年(1622)最上家取り潰しの任に景勝公の代理として勤める。
元和九年(1623)八月に五十一歳で充長死去。家督は充長男子無きため、繁長の六男、重長が継ぐ。
正保二年(1645)上杉綱勝公家督襲封、加祷のため重長江戸城に登城し将軍家光公に拝謁。
承応三年(1654)十月に五十三歳で重長死去。家督は重長の次男、政長(始忠長)が継ぐ。
寛文四年(1664)五月七日上杉綱勝公(景勝の孫)後継を定めることなく急死したので上杉家米沢藩は半地に削封、伊達、信夫両群が召し上げられたため、本庄氏は福島城より鮎貝城代を命ぜられ鮎貝に移住。
福島城代本庄氏は繁長、充長、重長、政長と四代六十五間上杉領福島城代の役目を果たしました。



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