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本庄氏の館

本庄氏の館

鮎貝時代の本庄氏

寛文伍年(1665)上杉家米沢藩は半地に削封、伊達、信夫両群が召し上げられたため、本庄政長は福島城より鮎貝城代(御役屋将)を命ぜられ鮎貝に移住。
知行は1666石で色部氏と共に上杉家中で最上位に遇され、軍大将(軍奉行)も兼ねた。以後明治維新まで9代に渡り鮎貝御役屋将を務める。

※御役屋とは、領境において他藩からの攻撃を防備する所。米沢藩の各支城の名称を「御役屋」とし、以後城代は「御役屋将」と称された。

★本庄政長(出羽守)まさなが★
在任期間:1665年~1703年
江戸番勤中、麻布邸にて死去

★本庄英長(出羽守)ひでなが★
在任期間:1703年~1721年
1703年父政長死去により家督相続、鮎貝御役屋将を命ぜられる。
1705年上杉吉憲公へ、関ヶ原の折に繁長が伊達政宗より分捕りし内幕を献上する。
1720年上杉吉憲公の名代として将軍吉宗公に拝謁。
1742年87歳で死去

★本庄義長 よしなが★
在任期間:1721年~1745年
1721年父英長隠居により家督相続、鮎貝御役屋将を命ぜられる。
1743年先祖繁長公御霊を福島長楽寺より分神して本丸辰巳角に堂を建立し天満宮稲荷社と称した。
1699年89歳で死去

★本庄職長(大和守)ともなが★
在任期間:1745年~1770年
1745年父義長隠居により家督相続、鮎貝御役屋将を命ぜられる。
1778年71歳で死去

★本庄祇長(大和守)ただなが★
在任期間:1770年~1771年
1770年父職長隠居により家督相続、鮎貝御役屋将を命ぜられる。
1771年病身により隠居
1812年64歳で死去

★本庄精長 きよなが★
在任期間:1771年~1794年
大和守職長の三男、祇長の養子となり、祇長隠居により家督相続、鮎貝御役屋将をめいぜられる。
1794年35歳で死去

★本庄為長(近江守)ためなが★
在任期間:1794年~1825年
父精長死去により家督相続、鮎貝御役屋将を命ぜられる。
1825年44歳で死去

★本庄寛長(備後守)ひろなが★
在任期間:1825年~1851年
父為長死去により家督相続、鮎貝御役屋将を命ぜられる。
1851年45歳で死去

★本庄昌長(大和守)まさなが★
在任期間:1851年~1869年
父寛長死去により家督相続、鮎貝御役屋将を命ぜられる。
上杉軍大将として慶応四年(1868)7月13日奥羽列藩同盟の総督として、上山、山形をはじめ列藩軍を率いて秋田討伐に出陣。
尾花沢から黒森峠の秋田勢を攻略、院内まで進軍して勝利。
同年9月米沢藩は官軍に降伏し、9月23日庄内討伐の命を受ける。
本庄昌長、先鋒隊長として大洞嶺を突破し田麦保に進軍、庄内に降伏使節を遣わし和議の仲介を行い官軍の鶴岡無血入城の斜旋を行う。
1869年9月米沢藩鮎貝御役屋将罷免、米沢藩大参事に任命
家督を嫡子勝長に譲る。
1875年49歳で死去

★本庄勝長 かつなが★
1869年家督相続。
1873年失踪・・・

★本庄孝長 こうちょう★
昌長三男、勝長失踪につき家督相続。
1890年5月25日北海道厚岸郡太田村に屯田兵隊長として移住。


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