Les Chansons de Anne-Marie Hayashi

2006/03/14(火)07:05

『春疾風』(2002年春)

エッセイ(3)

これは、大勢の人でごったがえす、朝の某駅でおこった出来事です。  その日の朝も、ゼフュロスの欲望もあらわに、春風の勢いはいたずらを過ぎていました。それは、電車を待っている人々の群列を、簡単に乱せる暴れぶり、一吹きするたびに、服装や髪の乱れを気にする何十本という手足をうじゃうじゃと騒がせては、その一列を一匹のムカデに見せていたほどです。  さて、私も周囲に違わず、注意のほとんどは装いを正すのに奪われておりました。首回りを彩るスカーフのひだは与えられた秩序をとうに失い、今や吹流しと化した髪のゆくえを追うかのように、必至で同方向へならうのでした。  そんなさなかです、私の目は、ふとした弾みで、隣の列に混じって並ぶ中年男性にとらわれることとなりました。  どこか不思議なのです。  その人の風情は、数秒ごとにミリ単位の細かさで以って、何かしら変容しているふうに感じられるのです。  失礼だとは思いつつ、私の好奇心にかきたてられて従う視線は、その人に釘付けとなりました・・・・といいましても、彼の向こうで皆を見下ろす、えらそうな時計版を見やるポーズを決めながら。  さて、その実、視界のど真ん中に居座る標的は、やはりその雰囲気を一秒一秒をあとにして、それと知られぬ変容に成功し、ほくそえんでる魔術師の趣そのものにある。  一体何が、そう見せてるの?  そこへです、啓示と呼ばなくては何と言えば良いのでしょうか、時計版の長針による「ココですココ!」と言わんばかりの、その矢印の先に注視しますと・・・・・  ああ、なんということ! そう、亀の歩みよりもゆっくりと、後頭部へ滑ってゆくではありませんか・・・・・・彼のふさふさとした髪の毛が!  三分前は茂っていたとおぼしき部分は、おでんにされたゆで卵の色艶で占拠され、かたや後頭部にあっては、ベレー帽さながら、危なっかしくもチョコンと茂みが乗っている。そう、断崖絶壁で体をよじりながらも生を全うする松の木みたいに。いよいよ露出しだした接着装置と想像できる丈夫そうな肌色のテープも、ここまできたら、その用も無意味であるに違いない。こと、春風の渦中にあったなら。  ところで、当の本人はといいますと、まったくその事態に気づいていないのか、知らん顔で写真週刊誌に見入っている。かてて加えて、俗に言う貧乏ゆすりがはなはだしく、その振動を受けた週刊誌なんて、前に立っているうら若き女性の背中をツンツン、ツンツン、突っ付いているではありませんか。一度はしかめっつらで振り返った女性も、ぷっと吹き出したっきり、以後、前に居るお友達らしき人とコソコソ、コソコソ、話し込むだけ。  とにかく・・・・・・  あたま、あ・た・ま!  と、こっそり一言、教えてあげたほうがいいかしら?  そう思っても無駄、相手が熱心に覗き込んでるのは、ほとんど半裸状態の女性のグラビア。しかもその開き具合の角度といったら、あたかも周囲の男性陣に向かって「そら、いいと思わないか?」と問いかけているかの大胆さ。女性としては、声をかけづらいものがある。  そうこうしておりますと、待望の列車がホームへ滑り込んできました。と、その途端、彼の後頭部にしがみついていたカツラは、あえなくツルリと落ちてしまった! それと同時に、痛々しい赤ん坊の泣き声が・・・・・・ああ、こともあろうに、彼の一部は、すぐ後ろに立っていた女性の腕、赤ん坊を抱いていたそこへと落下したのでありました。  気丈にも母親は、あわれな赤ん坊の顔面からカツラを取上げますと、落とし主へそそくさと手渡そうとした。けれども彼の指が未だにしっかり握っているのは、くだんの週刊誌。  「あっ、あっ、あっ・・・・・・」  彼は返す言葉も探れずに、週刊誌を即座に小脇に抱えると、小刻みに震えたその両手で以って、落し物をうやうやしく受けるしかありませんでした。  「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・・・」  「いいんですよ、よくあることですから。」  ええっ? よくあること? まさか! どこまで気遣いのできる母親でしょうか!  そのあっぱれな台詞から、一層、威光に滲んだ横顔は、赤ん坊をあやしながら私たちの列と合流し、そして、何事もなかったかのように電車へ乗り込んだ。  まあ、実に見上げたことですこと、ええ、本当に!  さて、かの男性は、足場を完全に固めた状態で、「ごめんなさい」とおじぎを何度も繰り返している。そしてとうとうそのまま、彼は皆を見送るだけとなりました。彼は、私たちを乗せた車窓から姿が見えなくなるまで、こわれた自動人形さながらに、せわしくそれを続けるのみ。  さて、車内に入っても赤ん坊は泣き通しでしたが、母親はそれをあやすのを突然やめたかと思うと、せきを切ったようにして豪快に笑い出しました。  「ぶははははっ! ぎゃははははっ!」  赤ん坊が絡んでいただけに、軽率に笑えなかった周りの皆も、それを認めるなり、それぞれに思い出し笑いを楽しんでいる模様、その笑顔を、赤ん坊に分けてあげる人も少なくありませんでした。 ※この面白みは、中年男性の態度が極端に小さくなったのとは反比例して、一番小さいはずの赤ん坊が最も巨大な存在感を見せ付けたという構造にあるでしょうか。

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