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2007.05.25
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カテゴリ:思想
昨日の事だった。

テレビのニュースで、山口であった、母子殺害犯人(当時18歳)の、広島高裁判決が、

最高裁で覆された。

広島高裁では、被告は無期懲役と判断されたー。

しかし、最高裁は、死刑こそが相応との見方を下した。



この犯行の裁判の経緯は、ニュースで幾度も報じられているが、その理由の一つが、

殺害された母子の、夫であり、父親である本村氏が、声高に、堂々と犯人の死刑を

訴えているからではないだろうか。




私は死刑反対派である。

暴力によって、暴力を正せるとは、正気な人間の思想とは思えない。

もし、社会がー、或いは個人が、「殺人」を、最悪なものと見なし、それを駆逐しようと

言うなら、何故そもそも、「死刑」が法の中に存在するのだろうか。



「応報の掟」、すなわち、目には目を、と言う考え方に基づいて作られた法律は、

凡そ法の名に値しない。



私は、殺人を犯した者に対して、殺人は許されないのだと、世間が示す事の出来る

最大の行動は、殺人者がどれほど憎くても、彼に死刑を与えない事であると、信じている。



殺人者はー、特に快楽的殺人者は、自分が世間に恨まれているのを感じている。

また、それを喜んでもいる。

居場所がない人間は、憎まれ、悪人になり切る事によって、自分の居場所を社会の中に、

築こうとする事がある。

それらの人々によって、殺される事ー、すなわち死刑も、また喜びである。

憎まれる以外に、彼らは社会に認められる方法を知らない。



もしこの人間に、社会が死刑ではなく、許しを与えようとしたらー。

その時こそこの人間は、人を恨む事の無意味さ、殺人の暴力さ、非暴力の崇高さを、

学ぶのではないだろうか。




しかし社会は、相変わらず、口では正義を唱えながら、平気で復讐を口にする。

ある、知り合いの女性のブログで、この被告に死刑を!と、大文字で書かれた日記を

見た。

彼女は、被告がどんな残酷な真似をしたか、被害者や、一人残された夫がどれほど辛い

かを、切々と書き綴っている。



人殺しが悪で、死刑は正義なのか。

随分とまた、アメリカ的な発想じゃないか。

彼女達はそもそも何を否定したいのだろう。。

暴力か、殺人か。

それを抑える為に、抑止力としてより大きな、公的な殺人を、政府に行わせるのが、

正義を標榜する市民の姿勢なのか。



本当にこうした犯罪を拒みたいのなら、報復を止めて、耐えよう。

相手への憎しみに負けて、同じ暴力を断固振るうな。

そんな人間に、本物の正義はない。

アメリカ政府の様に、正義を振りかざしているだけだ。




マハトマが、こんな風に語っている。

1964年、独立運動中のインドで、暴力に転じた市民達を、若いムスリムと、

ヒンディー教徒の青年二人が、非暴力を訴えて、暴動を止めようとして、命を失った。

宗教を超えて、非暴力の信仰の為に命を捧げたこの二人を、多くの市民が悼んだ。

その二人の命の賠償を、求めるべきかと、マハトマが尋ねられて、彼の人はこう答えた。



「殺人は、仇討ちや賠償金の請求などによって酬われるものではない。殺人に酬いる

 唯一の方法は、復讐心を持たずに自ら進んで犠牲に立つ事である。

 この前提を信じる者は、愛する者の死に対しても、賠償金を請求したり、それを受け

 取ったりすることをゆめゆめ考えないだろう。

 生命に対して生命を奪うと言う考え方は、返って殺人の数を増大するだけである。

 今日、この傾向が各所に目立っている。

 復讐や賠償は個人にはいくらか満足を与えるかも知れないが、治安を回復し、社会を

 高めるのになんの役にも立たないことを、わたしは信じて疑わない。


 さて、復讐が常であるようなこの社会において、当事者はどうすればよいかという

 問題が生じる。

 その答えは、口で説くより実例で示されるべきである。
 
 そして、実際に被害者の立場に立たされた人たちだけが、その実例を示すことが

 できるのだ。」 マハトマ・ガンディー「わたしの非暴力」みすず書房




幸か不幸か、私はこの実例を、世間に示せる。

私は二十歳の頃、千葉で娘(マリア・犬)を殺された。

夕方仕事に出掛け、深夜に帰宅し、翌朝子供のいる庭に出ると、マリアが首吊りに

よって殺されていた。

お腹には、28センチ近い男の足跡大に、内出血の跡があった。

思い切り蹴られたのだ。

それから男はマリアを吊り殺した。



当時私が住んでいた所は、かつて被差別部落だった所で、近親者の婚姻が行われていて、

精神的に、問題のある人間が多いのだと、引越し直後に警察から忠告された。

犬の保護をしている人間は、どこでも疎まれるし、迫害される。

そうした近隣の人間が、私の留守中にマリアを殺した。



ここまでのブログで、私がどれほどこの子達を愛しているか、多くの人は承知されて

いるだろう。 

お腹を痛めた訳ではない子供達を、しかし私は世間の母親など、負けない程に深く愛した。

自分の命を捨てれるほどに。



本村さんに、同調して苦しみも分かつのなら、その時の私の心情にも同調して欲しい。

私がどんな思いで、見知らぬ男になぶられながら、殺された娘の亡骸を、鎖から解放して

地面に抱き降ろしたか。




    それをどんな思いでやり遂げたか。

    どんな思いで、今、振り返っているか。





私は犯人を、深く憎んだ。必ずこの手で殺し、死体を私の庭に葬ってやると誓った。

あんな慈悲深い性格の子は、そうはいなかった。

聖母マリアから名前を拝借したものの、あの子の慈悲深さは、常識を凌ぎ、「聖母マリア

も、この子の前では、裸足で逃げ出す」と、私はいつも感嘆していた。

そのマリアが殺された。

しかも、彼女が何より愛した、自分の子供の目の前で。



そんな頃だった。

とんでもない霊感の持ち主の、男友達が、私に出来たのは。

ある日友人は私に言った。

お前に犬の霊が憑いてるよ。

感じないか?

何かとても悲しんでる。

お前に、何かを止めてくれって懇願してるよ。




まるで、冷水を思い切り浴びせられた様な衝撃だった。

何の事だか、一瞬で悟った。

マリアは犯人を許してる。

私が自分に起きた不幸な事件で、人の心をなくし、復讐の鬼になる事を、心から

悲しんでいる。



涙が止まらなかった。

「聖母マリアも裸足で逃げ出す」

私の優しい、慈悲深いマリア。

あの娘が、自分の復讐なんて望むはずがなかった。




私はずっと、犯人を殺して、私が復讐を果たさなければ、マリアは安らかに眠れないと、

考えていた。

しかし本当は全然違った。

マリアが眠りにつけないのは、自分の愛する母親が、自分の仇討ちをしようと、人心を

失ってしまっているからだった。

あの子は、私が危険な行動に踏み切るのを、恐れて恐れてーそして、天に帰れてなかった。

あの子の天国行きの障害になったのは、犯人じゃない。

誰であろう、この愚かな母親だった。




そして私は、マリアの為に、彼女が望むなら、どんな事でもしようと思った。

犯人を許す事でさえ。



だから私はこう思った。

犯人を許そう。

彼の更生を、心から祈り、信じよう。

どうかいつか、マリアを通して、あなたが命の重みに気がついてくれますように。

そしてあなたが、マリアを殺めた分、今度は多くの命を救ってくれます様に。

世界の人々にとって、マリアの許しが福音となって届き、暴力に、暴力で解決を図る

社会が、いつか必ずなくなりますように。

その時こそマリアの死は、世界に取って、最高の恩恵となる。

あの子は、暴力を止める為の、自ら志願した犠牲だったのだ。



マリアと共に、犯人を許し、犯人を愛そう。

私達は、最早他人ではない。

彼を許した時から、私達は一つの家族なのだと。



これが、愛する家族を暴力によって奪われた当事者が、取るべき態度であると、私は

信じて疑わない。

いわんや、殺された我が子を、胸に抱いた事のない人間が、死刑こそ正義だ、等と叫ぶ

声に、耳を貸す気は毛頭ない。

私は復讐は許さない。

当事者でもない市民が、悲しみに人心を失った人間の、味方について、死刑を叫ぶ等、

言語道断だと考える。




無関係の人間が、被害者を煽って、復讐を訴えるのは止めて欲しい。

暴力はもう沢山だ。

マリアの死を無駄にしないでくれ。頼むから。


マルクス・アウレリアスが、こんな言葉を残している。

初めてこれを読んだ時、これこそがマリアの見解だと私は思った。



「波の絶えず砕ける岩のごとくあれ。

 岩は立っている。

 その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。

 {なんて私は運が悪いんだろう、こんな目に合うとは!}

 否、その反対だ、むしろ{なんて私は運がいいのだろう。 なぜならばこんなことに

 出会っても、私はなお悲しみもせず、現実におしつぶされもせず、未来を恐れもして

 いない}のである。


 今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを

 忘れるな。


 曰く{これは不運ではない。しかし、これを気高く耐え忍ぶことは幸運である。}」



私は、以前2ちゃんねるで惨殺を流された、「こげんた」ちゃんと名づけられた子猫にも、

同じ精神を感じている。


もし、私達が誰であれ、犯罪者に死刑を願うなら、その時社会に正義は存在しないのだ。



私はずっと、テレビで本村氏が報道される度、復讐を堂々と訴える彼を見て、

同じ暴力の経験者として、本当に心が耐えられなくなる思いだった。


こんな事を、市民が平気でテレビカメラの前で、口に出来る社会は嫌だ。



私達のするべき事は、本村氏から、復讐を捨てさせる事ではないか。

それによってのみ、彼の奪われた奥方と子供は、魂の安らぎを得るのではないのか。
















Last updated  2007.05.26 00:47:13
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