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カテゴリ:思想
故・ノーマン・メイラーが殺人者「ゲイリー・ギルモア」のノンフィクションのタイトルを、この「死刑執行人の歌」にした理由は、恐らくは犯罪者ゲイリーが、法廷で自ら死刑を要求した為だろう。
1976年ゲイリーは、ユタ州で何の関係もない男性を、二人撃ち殺した。 翌年の1月、ゲイリーは自ら「銃殺」を望んで、その要求を貫徹した。 いきなりこの話から始まるのは、文脈として正しくないかも知れない。 私は、北海道に冬が訪れ、雪が降り始めてからと言うもの、胸の中に恐怖を感じ、 自分の考えや気持ちが、散々に乱れるのを、整理しようとしては、失敗すると言う事を 繰り返している。 だが一つだけ、自分の中で見つけた真実がある。 私は、「倫理の進化」の中で、努めて、保護している犬や猫の事には触れなかった。 一番の理由は、「支援金」募集をしている、と、思われたくないと言う事と、 自分が覚悟を決めて引き受けて来た命の世話と、自分が彼らの身の上に怒った事を 止める為に、世間に訴える事は、道理であって、日常生活の日記ではないからだ。 同様に、私はこのブログを再開させた切っ掛けとなる、「現状」の説明も、 ここに至るまで全くブログ内では書いて来なかった。 このブログの多くの失敗は、元支援代表を自ら断行してしまった、ある女性との トラブルが、ブログのコメント欄で炎上を続け、また、始めて使用した楽天ブログに、 それらのコメントと、理性あるコメントの掲載の可否を、より確実につける術がなかった 事だ。 インターネットと言う、相手が誰なのか分からない文字だけの世界で、私はブログの 方向性を破壊され、それは殆ど修正が効かなくなってしまった。 そして、自分自身も、不条理に浴びせられる書き込みの中で、怒りが度を越し、 「目には目を」のハムラビ法典の法に従ってしまった事だ。 そうした当時の記事については、削除しておきたいが、その様な時間は取れないし、 また、自らの過ちとして、世間に晒し続けるのも、良い自分への罰になるだろうと、考えてもいる。 長くなった連載の、軽いおさらいになるが、 私は子供の時から、殺処分と言う、恐ろしい制度を前に、救えるだけの命を救って来た。 結果はどうあれ、この問題から逃げて、普通の人間らしいー私に言わせれば卑怯者の生き方に なるのだがー生活に、去った事は一度もなかった。 苦痛は常に、私を取り囲んで離さなかったし、私もまた、苦痛にまみれた人生から、犬猫の置かれた現状を前に、背を向けて逃れようとは思わなかった。 ゲイリー・ギルモアについては、私の心臓に等しい本が、一冊出版されている。 ゲイリーの弟、マイケル・ギルモアによって書かれた、「心臓を貫かれて」だ。 この本が書店に並び始めた頃、丁度私は、自分の家から、家族から、離れて、自分の日常がそのまま保護活動に添って進行し始めた事を、本格的に自覚し、実父や祖母や、実父の愛人、伯母の暴力から来ていた常軌を超えた憎悪と殺意からの、脱却に向かっていた。 この本の帯にはこう書かれていた。 「ゲイリーは物心ついたときから激しく愛を求め、常に激しい暴力で報いられた。-中略ーその恐怖の世界を抜け出すための手だては、たった一つしか残されていなかかった。血は流されなくてはならない。」 何て事だ、と思った。 本の中身を読まずとも、ゲイリーが分かった。 自分と同じ過酷な運命の下に生まれつき、そして死んだ男なのだと。 彼が殺した二人の人間達。 そして、その遺族や友人。 許しを請う事は出来ないが、私はゲイリーの敵になる事は出来なかった。 実は、ゲイリーの事は、いつかこのブログで触れようと、ずっと初めの頃から思っていた。 子供の虐待について。 幼い頃から虐待を受けた子供が、どんな人間に育つのか、奇しくも私はやっと、前連載の中で触れる事が出来た。 ゲイリーは、本を読む前から、自分の子の様に、愛しさを感じてならなかった。 私から生まれた、もう一人の私。 しかし、自分の運命を、ゲイリーが落ちてしまったそれと、違う方向に向けて行こうと戦っていた私は、毎週、毎月の様に書店を訪れながら、その本を買うのに、7年以上の歳月を必要とした。 事実、この本は、それだけ長くあらゆる書店に必ず置かれていた。 いつもこの本の背表紙が、私の目を捉えて離さなかった。 私が遂に勇気を出して買って以来、この本は、ぷつりと各書店から姿を消した。 それはまるでゲイリーが、私に自分の身を預けた事で、成仏出来たかの様にー。 この本は、正しく想像通りのものだった。 ゲイリーと私の、何と相似している事か。 続けて買った、ノーマン・メイラーの「死刑執行人の歌」も、ゲイリーと私が、あらゆる点で、似た人間なのを証明していたー時には、ぞっとする程に。 この本を読み終えた日の朝方、私は夢を見た。 オーケストラの楽団が、何かを演奏していた。 その曲は、耳では聴こえなかった。 どこか、もっと高い、天上の世界で演奏されている。 曲は聴こえないが、その曲は、私の感覚が掴む事が出来た。 知っている曲だ、知っているー。 楽団を正面に見て、最前列の一番右側で、ゲイリーがバイオリンを弾いていた。 いたずらっ気なゲイリーは、演奏に集中せず、私に瞳で秋波を送ってくる。 心の中で、私は言った。 「ダメよ、ゲイリー。私には彼がいる事、分かっているでしょう。ちゃんと、演奏に集中しなさい。」 私は、ゲイリーを演奏に集中させる為に、わざと目をつぶった。 最初はしぶりながら、やがてゲイリーは、演奏に熱を込め始めた。 私はその決して聴こえない、至上の演奏に聞き入った。 そして、唐突に目を覚ました。 頭の中で、あの曲が何だったのか、必死に考えた。 クラシックの名曲だ。 曲調は分かる。 だが、題名が思い出せない。 数日後、たまたま私は、クリスチャンが経営してる喫茶店で、マスターに尋ねた。 こんな感じの、クラシックの曲、題名なんだっけ? マスターは、さらっと答えた。 「ああ、それは{喜びの歌}」だね。 その場では何とか堪えたが、家に帰って涙が止まらなかった。 南弟子屈で、バスの中に住んでいた頃の話しだ。 今から10年以上前。 死ぬ時は、この本を墓の中に抱いて持って行きたい。 そう思った。 今は、私が死んだ後、この本は誰かが大事に所蔵してくれる事を望んでいる。 ゲイリーの痛みを分かる誰か。 そして、ゲイリーの兄弟の、フランク・ジュニアと、マイケルの痛みを。 ゲイリーの死刑が確定し、それが止められない事と知った時、また、ゲイリーが実際に 死刑にされた時の心情を、マイケルは痛々しい程に綴っている。 マイケルの心と、私に、犬猫は保健所へやって、あなたは、普通に結婚して、幸せな人生を生きるべきだと、常に言われている私の心を、言葉にすると、この様になる。 今、愛する誰かが決められた通りに、死んで行こうとしている。 正に、法律に乗っ取って、殺されようとしている。 私はこれから先ずっと、自分の愛する者を公然と殺した社会の中で、それを止めようと抗わなかった人々の中で、その人たちとすれ違い、言葉を交わし、生きて行かなくてはならない。 私は、その世間の中で、周りの人間を憎むか、それとも何とか折り合いをつけて生きて行くか、とにかくどちらかを選択しなければならない。 肉親を躊躇もなく殺害した、世界で生きて行くと言う事は、肉親を躊躇もなく殺害した、個人をと対峙して生きるよりも、遥かに重い、絶望なのだ。 結局私は、勿論マイケルの書いたこの本を読む前から、いつか「崩壊」を迎えた時に、こういう状況に自分が置かれる事を理解していた。 「崩壊」が来たら、-少なくとも私がそれを覚悟した時代は、インターネットはなかったし、今の動物愛護団体で、日本で知られている所と言ったら、千葉の藤田さんくらいしかいなかったー動けなくなった私の事は、身内や国が面倒見てくれるだろう。 そして、反対に我が肉親そのものである、文字通り血を流して守って来た子供たちは、かつてのアウシュビッツを小さくまとめたに過ぎない施設の中で、ガスか、何かによって、殺されている。 私は保護され、人間の悪法と、無慈悲の前には、何の力もない犬と猫は、逆に処刑を受けている。 一体、そんな世界の中で、私はその後、社会を憎まずに生きて行けるだろうか? 報復を企てずに何にすがって生きれるだろう。 そんな社会を、愛する事も、受け入れる事も、折り合いをつける事も、私には出来ない。 私には正義感と、何よりも強い子供達への愛がある。 だから、崩壊の時が来たら、一緒に死ぬのだと。 運が良ければ、それまでに、社会を変えられるかも知れない。 私は最後まで、夢は諦めない性格だ。 そうして、いつか必ず来る、崩壊を前に、努力しながら北海道まで来た。 ここで、この厳寒の地で、移住してから7年頑張った。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 本記事は、FC2ブログに一度拠点を移し、そこがオリジナルに今はなっています。 コメントは、認証制ですが、受け付け等もそちらで行っていますので、宜しくお願い致します。 また、FC2のブログの背景である、高いネットとバラ線で囲われた空間は、犬猫問わず、人間もかつては偏見や暴力によって閉じ込められた、自由を奪われた虚無の場所です。 今もそこで暮らすものが、その囲いの中から、どんな風に外が見えるのか、見ているのかー 囲いの中から、当ブログを通して外の世界と空を眺め、改めて、そこから出る事を許されないのがどんな思いなのかを、考え、感じて下さい。 FC2版 「倫理の進化」 http://ainumosiri.blog65.fc2.com/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.11.30 01:47:13
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