枚岡神社の北西、国道308号沿いに史蹟「中村代官屋敷跡」というのがある。と言っても、屋敷がのこっている訳ではなく、今は小さな公園と民家が立ち並ぶ住宅街となっていて、公園の一画にその跡地であることを示す石碑があるに過ぎないのであるが・・。
この一帯は「豊浦町」という地名であるが、小生が子供の頃、大人達は「といら」と呼んでいました。とようら→とゆら→といら、と変化したのでしょうな。最近は「といら」というゆかしき名で呼ばれる方は居られぬようで、皆さん「とようら」と仰います。
さて、この地がまだ豊浦村であった頃、近江の佐々木源氏の支族が室町時代後半にここに移り住んで中村氏と称したそうです。
大坂夏の陣では、徳川家康がこの中村氏の屋敷に本陣を構えたそうです。そのことを顕彰する碑が、子供達が遊ぶ公園にあります。
(大阪夏の陣・徳川家康本陣之碑)
大阪夏の陣 徳川家康本陣跡之碑 全文
天下分け目の戦いとなった関ヶ原合戦から十四年後の慶長十九年の冬、徳川家康は大坂城を攻め、翌年の元和元年(一六一五年)の夏、再び攻撃し大坂城を落城させた。世に有名な大坂冬・夏の陣である。冬の陣では家康の三男秀忠が京都から生駒山西麓を南下し十一月十六日豊浦村の中村正教宅に宿陣した。
翌年の夏の陣では五月六日八尾・若江の激戦により豊臣方に大打撃を与え、この夜家康一行は冬の陣にならって同じく豊浦村の中村家に宿陣した。この時正教は菖蒲の節句にちなんで木綿を献上し家康は"勝布"として大いに喜んだという。
家康が宿陣した中村氏は佐々木源氏の流れをくむ。もと近江鯰江城に住し鯰江氏と呼ばれていたが、室町時代後半に唯正がこの地に移り中村氏を名のった。豊浦村は徳川時代に入って幕府直轄領となり中村代官とも通称され庄屋として力をもった。家康が宿陣した中村氏屋敷跡は現在の枚岡中央公園から南側の一画にあって、まわりに濠をめぐらした豪壮な屋敷であった。
(中村四郎右衛門正教屋敷跡碑)
家康本陣之碑の隣の石碑を拡大してみました。
(中村代官屋敷跡の公園-正面奥に家康本陣之碑が見える。)
この公園から数十メートル西に「権現塚」というのがある。これも家康と関係のある史蹟なんだろうと思うが調べていないので、コメントは「なし」です(笑)。写真だけ掲載して置きます。石碑の隣には「権現塚地蔵」という地蔵堂が建っています。
(権現塚)
<参考>東大阪市権現塚
以上、本日の銀輪散歩。超近隣散歩のお土産であります。
余りにも近過ぎて、今までその存在に気が付かずに居ました。