偐万葉田舎家持歌集

2014/07/31(木)12:45

近隣散歩・須波麻神社

近隣散歩(278)

 東日本大震災から一年。  お亡くなりになった万余のみ魂に黙祷。水仙の 花は咲くとふ 海鳴りの 悲しきこの日 忘れまじとぞ                                     (偐家持) 悲しみは 絶えなくあれど 一年を 区切りと今日し それぞれの春                                     (偐家持) (第92回智麻呂絵画展より) さて、小生のブログの記事件数も昨日で1000件の節目を迎えたことは既に記しましたが、東日本大震災一周年のこの日のこの記事が、偶然にも1001件目ということで、また新たな歩みを始めることとなります。被災地復興への歩みも亦この日を機に新たな進展とスピードアップが図られますことを願って止みません。  そして、小生のブログもまた新しい一歩に相応しい記事をと思いましたが、追悼式ほか震災関連のTV番組などを見ているうちに午後3時も過ぎ、その後軽く銀輪散歩に出掛けたるも、既にして最初の一歩が出遅れ、これといった話題もなくあれば、昨日(10日)の銀輪近隣散歩を取り上げることと致します。 昨日の近隣散歩の立ち寄り先は、大東市の須波麻(すはま)神社でありました。 この神社の名を知ったのは先月27日の銀輪散歩で大東市平野屋にある坐摩神社を訪ねた際に、たまたま通りかかった古堤街道で、泉公園前にあった案内板に「大東市最古の神社」としてこの神社の名が記されていたことによります。帰宅して地図で調べてみると阪奈道路の下の小高い場所にそれはありました。  いづれ行ってみようと思って居りましたが、ブロ友・ビッグジョンさんの先日の記事で、ご紹介されていた道標の拓本に「古堤街道」という文字を目にし、この神社のことを思い出したという、まことに他愛も無い理由からの訪問でありました。   <参考>古堤(ふるづつみ)街道=「近隣散歩・大東市坐摩神社へ」2012.2.27. (須波麻神社・ヤカモチの愛車のMTBも写っています。) 鳥居の前、左の道標は、坂の下を南北に通っている東高野街道脇にあったものを、此処に移設したものとのこと。 (鳥居の額) (由来書き・クリックして大きい画面にすると読みやすいかと思います。) 上の由来書きによると、この神社は出雲大社と同体で大国主命を祭神とし、延喜式・神名帳にその名が記載されている古社(即ち、式内社)であるということです。 (拝殿) (拝殿前の灯篭) 写真一番奥の灯篭は大正時代の建立ですが、手前の二基には「延享二乙丑九月(きのとうしながつき)」の銘がありますので、1745年建立の古いものです。 (延享二乙丑九月の銘) (春日造りの本殿) (拝殿から本殿への橋) 神社の前の坂を下って行くと道脇に、神社の名を刻んだ石碑が建っていました。(坂の下にある神社の石碑) 帰途は東高野街道、外環状線道路(国道170号線)、恩智川沿いの道などをジグザグに走りつつ、時には路地に入ったりしているうちに、石切神社の裏手に出た。神馬の厩舎と馬事苑のある場所である。  偶然に馬が外に出ていたので、写真を1枚。 (石切神社の神馬) 馬は古来より神の乗り物として神聖視され神社に奉納されて来た。雨乞の祈りの場合は黒馬を奉納し、雨が止んで欲しい・晴れて欲しいという祈りの場合は白馬を奉納したとか。しかし、生きた馬を奉納するなどということは誰にでも出来ることではないし、神社側も余り多くの馬を奉納されても困るなど実際的な理由もあったのでしょう。木板に馬の絵を描いて奉納するということが考え出された。絵馬ですな。  埴輪も殉葬の代りとして考え出されたものであるから似ている。神像、仏像も神や仏という目に見えないものを形に表象したものであり、人間の「みなし」という脳の働き、認識作用に関係した産物であるのでしょうな。  貨幣というものを考え出せたのも同じ延長線上のものではないでしょうか。文字の発明も絵を書いたり物語を作ったり、またそれを見たり読んだりして楽しむというのも或いは皆同じシステム上のものかも知れません。   <参考>「石切神社」2008.6.30. 

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