カテゴリ:銀輪万葉
(承前)<1月11日(4)> 一日の銀輪散歩をいつまで引っ張るのだ、とは仰いますな(笑)。楽天ブログの一記事当たりの文字数制限が悪いのであって、小生の所為ではありませぬ。 しかし、境内にある歌碑は、観梅の宴での旅人の歌ではなく、萩の歌でありました。 わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の この歌自体は明るく軽やかなものであるが、妻問ひの鹿に妻を亡くした自分を重ねていると見れば、初萩の咲くのを亡き妻と一緒に見ることができたらなあ、という寂しさ・悲哀が隠されていると見るべきだろう。それは、この歌と同時に詠まれた次の歌によって明らかとなる。 わが岡の 秋萩の花 風をいたみ 萩の花が咲く頃、鹿は発情期を迎え、牡鹿は雌鹿を求めてヒューと甲高い声で鳴く。また、鹿は萩が好きで(と言っても食べ物としてであるが)よく萩の木にやって来る。そんなことから、萩は鹿の「花妻」とされるのである。 坂本八幡宮から北へ坂道を上った処に鬼子母神堂があり、そこにも万葉歌碑がある。鬼子母神堂だけに歌碑の歌は憶良の例の歌である。 しろがねも くがねも玉も 何せむに 鬼子母神堂の南側の道を下って行き、坂本公園の前の細道を北へと坂道を上って行くと、こんなのがありました。この地域を防備していた軍団の印判が出土した場所だという。 太宰府市文化ふれあい館の前から坂を西へと下った処にあったのが、筑前国分寺跡と国分天満宮。天満宮境内には山上憶良の歌碑がありました。 大野山 霧立ち渡る わが嘆く 大伴旅人が妻を亡くしたことへの哀悼を表すべく、憶良が作った「日本挽歌」の反歌5首のうちの1首である。「大野山に霧が立ち込めている。私の嘆きが霧となって立ち込めているのだ」と旅人の心になって詠んだ歌である。 国分天満宮は筑前国分寺跡に立地している。天満宮の北側にその跡が史蹟として保存されている。 この説明板を読んで、先程通り過ぎた太宰府市文化ふれあい館に七重塔が復元展示されていることを知る。知ってしまったからには行かねばなるまい。下って来た坂道を再び上る。館の南庭にそれはありました。実物大の復元ならきっと壮観な眺めであることでしょうな。 再び坂を下って筑前国分寺跡に戻る。跡地の西隣には現在も国分寺という寺がある。この寺の西側の道を北上、次に目指すは国分小学校。 ところがこれがまた急な坂道の上にあるのでした。途中で目に付いた古墳の前で一息入れて何とか上り切る。 国分小に到着。 わが苑に 梅の花散る 久方の はい、間違いなく万葉歌碑でした。隣の梅の木が咲いていたらもっといい写真になったのでしょうが、是非に及ばず。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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